今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

池上彰・佐藤優『日本左翼史』3部作

2022年08月01日 | 作品・作家評

ネットの名言に「若い時に左翼でなかった者は正義感がない。おとなになって保守にならない者は責任感がない」というのがある。
私自身、若い頃(学生時代)は、左翼にシンパシーを抱いていた。
高校の授業でマルクスの「共産党宣言」に接し(教師の政治嗜好によるのではない)、大学生となって岩波文庫のマルクス哲学の書を読み漁ったが(ただし経済学に興味をもてなかったので『資本論』は読まずじまい)、暴力主義的な新左翼セクト、それ以上にソ連・東欧の実態に失望したため、急速に左翼から離れていき、やがて保守になっていった。
※形而上学的でないので読みやすかったという理由もある。

そこで改めて、池上彰と佐藤優との左翼史についての対談形式の『日本左翼史』3部作(講談社)を読んだ。
それぞれ「真説」(1945-1960)、「激動」(1960-1972)、「漂流」(1972-2022)と題打つ。
3冊一気に読み進めることもできるが、私でさえ「真説」は前時代の話なので、本当に「史」に興味がある人向け(ただしここを読まないとその後の展開の原点が分からない)。
多くの人にとっては、3冊目の「漂流」が同時代史といえ、2022年のロシアのウクライナ侵略も射程に入っている。

そもそもこの本を出す理由が、まずは唯一残った左翼政党である日本共産党が今年で結党100年を向かえるので、自党中心に左翼史を書き換えられることに対する危惧があり、その先手を打つため。
なぜなら、共産党がこれまで左翼の中心に位置していたわけでははく、共産党自身も変節を繰り返してきた(2022年においても)。
左翼が共産党だけになると、現共産党(執行部)に不利な歴史的言説はすべて封殺されることになりそう。
すなわち、共産党以上に左翼の主役を担ってきた日本社会党の歴史(衰亡史)、それに反日共系の新左翼セクト(革マル、中核、赤軍など)たちを抜きにして日本左翼史は語れないため。
※:今となっては見る影もない絶滅寸前の「社民党」の前身。

もっと幅広い目的もある。
衰亡する左翼をあざ笑うのが目的ではなく、むしろその逆で、
左翼そのものの退潮による政治・社会のアンバランス化に対する危惧がある。
このままでは、左翼(=マルクス主義)が堅持してきた下層民の主役化と国家・民族主義を超越する国際主義への芽が摘み捉えてしまう。
そういう意味で左翼は復活すべきといい、そのために過去の過ちをきちんと反省(自己批判)するための書という。

佐藤氏は、社会党の下部組織である「社青同」に属していたということもあって、社会党の内部事情にも詳しい。
生々しい話もたくさん出てくるが、元当事者であっただけに、論評が個人的想いに彩られる部分もある。

3冊目のあとがきで、同志社大学神学部出身でもある佐藤氏は、日本左翼は、イエスの唱えた”隣人愛”を神なき状況で実践しようとしたと結論する。
それを私は、愛ではなく、その裏返しである憎悪に由来する正義が原動力であったことの限界と不幸、と表現したい。

ただ左翼退潮現象は、”日本”に限定されるものではない。
左翼思想に代わって、他者に対する関心に乏しい”新自由主義”が跋扈しているのも世界的現象だ。

そもそも左翼における愛の欠如は、人類史を闘争史としか見なかったマルクスの視点に由来するのかもしれない。
ただ、マルクスは”多義的に読める”という氏の見解には同意できる。
マルクスに愛がなかったわけではない。
「共産党宣言」をする政治的アジテーターのマルクスではなく、哲学者のマルクスには、能天気なほどに人間性への信頼があった。
なのでマルクスが描いた共産主義社会は、憎悪が原動力の左翼人間ではなく、隣人愛に満ちた菩薩のような人間でないと実現不可能であることも証明されてしまった。
かくしてその人間観の甘さ(単純な善悪二元論)に限界をじた私は、人間心理の暗黒面を直視し、葛藤に苦しむ人間を前提としたフロイトに移行した。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。