今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

三ケ根で”死”に接す

2011年06月13日 | 
三河湾に面した幡豆(はず:現在は西尾市)から幸田町に廻る旅をするため、
その中心に位置する標高300mほどの三ケ根山の上の宿をとった。
目的は、幡豆を支配していた小笠原の分家の史跡・資料の探索と、1945年の”三河地震”で出現した断層の見学。
幡豆小笠原氏ついては、わがサイト「山根一郎の世界」内の「小笠原氏史跡の旅」で詳しく記事にするので、
ここでは三ケ根周辺の旅を記す。

宿をチェックアウトし、愛車miniで山上のスカイラインを駆けって同じ山上にある三ケ根観音に行った。
この観音堂は由緒あるというので、それなりに観光化された観音堂を想像していた。
車から降りて、まず通り道にある比島観音(三ケ根観音に隣接し、面積はそれを上回る)に足を運ぶ。
そこには、フィリピンでの50万もの膨大な戦死者の慰霊碑が日本軍の部隊ごとに所狭しとばかり並んでいる。
中には、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊碑もある。
薬害スモンの死者の慰霊碑もある。
その”死”の数に圧倒される。
震災の2万の死に圧倒されていたのに、50万以上もの死にあらためてがく然とする。
(右写真は、観音の脇にあるフィリピン製と思われる像)

スカイラインの脇道の奥にひっそりとしかし堂々と立てられている東条英機ら東京裁判で処刑された”殉国七士廟”にも行く。
戦後史観で育った私にとっては違和感はぬぐい去れないが、ここにもさまざまな部隊の隊員名の記された慰霊碑がある(”お町”という民間女性の慰霊碑も)。
これらの”死”の重みに圧倒されながらスカイラインから眼下に目を移すと、
渥美半島と知多半島に囲まれて、波のないおだやかな三河湾が視界いっぱいにひろがる。
まるで人間のエネルギーの総力を尽くした”戦争”と、それをも呑込もうとする”自然”とが相克しているかのように、私の心を引き裂く。

三ケ根山から幡豆に降りて、小笠原氏の史跡を見たあと、
ついでに”ガン封じの寺”として有名らしい無量寺(蒲郡市)に立ち寄った。
参道やガン封じ堂の周囲には、無数の絵馬が掛かっている(右写真)。
絵馬には人体の図が描かれており、それぞれ患っているガンの部位(肺や乳、胃、腸、子宮など)に印がつけられている。
そして図の横には、今ガンと闘っている人たち、再発におびえる人たちの切実な生への思いが書かれている。
もちろんここに願かけた人たちは医学的な治療を受けているはず。
だが、不治の病は最後には祈るしかない。
その場がここなのだ。
三ケ根の比島観音で接した膨大な無言の死に対して、
こちらは、死に直面している人たちのそれぞれの叫び。

この寺の境内には、巨大な楠の木があり、中が空洞になっていていもなお生きて豊かに葉を茂らせている。
また近くにも、幹の根本が空洞になってもなお健康に生きている木がある。
それらを見ると、この地には、なにか生命力を強くする”パワー”があるようにも思える。
だが、本堂近くにある巨木は、すでに枯れ果て、切り倒されるのを待つだけの姿であった。
なるほど、たとえ生命維持のパワーが強くても、死を免れることはできないのだ。
そこまでのメッセージを含めることが、宗教の真の役割だろう。

三ケ根山の東の麓に向かった。
1945年(すなわち終戦の年)1月13日の未明、この地域を襲った”三河地震”の痕跡を見に行く。
三河地震は、この地だけに被害を出した局地的な活断層による地震だが、直下は震度7に達し、死者(行方不明者を含む)二千名以上を出した。
ところが、戦争末期の時勢のため、極端な報道管制が敷かれ、名古屋にもその情報が達しなかった
(今でも、愛知県人の中に知らない人が多い)。
なので、外からの救援活動なども頼めなかった。

震源地は三河湾内だが、津波被害はたいしたことなかったようで、
死者の多くは建物の倒壊による圧死である。
あれほど静かな三河湾の地面が、突如牙をむき、この地の二千名以上の命を奪ったのだ。

この時の地震断層が、三ケ根山の東麓の宗徳寺裏と、北麓の幸田町の深溝(ふこうぞ。いわくあり気な地名)に残っていて、それらを見学した。
地震の痕跡は残っているが、公的に死者を慰霊する物は見当たらない。
その意味でも忘れられた震災だ。

気楽な旅の予定だったが、三ケ根山周辺でいろいろな”死”に接してしまった。

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