博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『問君能有幾多愁』その6(完)

2009年05月10日 | 中国歴史ドラマ
『問君能有幾多愁』第34~39話まで見ました。

北宋では花蕊夫人が趙光義のDVに耐えかね、趙匡胤の計らいもあって宮廷から逃亡。趙匡胤もようやく弟の本性に気がついたようであります。

一方、南唐では李が心ある文官・武官を死に追いやり、急速に暗君化。これでもう李が不仁・不義・不智の君主であることは疑いないから娥皇との約束に気兼ねする必要もなかろうと、趙光義や趙普らが南唐征伐を進言。趙匡胤は遂に出兵の決断を下します。で、南唐の都金陵の包囲を1年近く続けて李の降伏を待つわけですが、その間に趙光義が窅娘のもとに潜伏していた花蕊夫人を発見したり、はたまた趙匡胤がそれを嗅ぎ付けて彼女を自分の手元に保護したりといったイベントが発生。あんたら、兄弟2人して何やってんの!?

そして包囲を続けても効果が無いということで宋軍が城内に突撃すると、李は宋への降伏を決意。以後、妻の家敏とともに宋の宮廷で虜囚としての生活を送ることになります。

その頃から趙匡胤はしばしば目眩や頭痛に悩まされるようになります。私生活では花蕊夫人が唯一の心の慰めという状態でしたが、その彼女が弓矢の儀での事故を装って趙光義に射殺されてしまいます…… そして趙匡胤もある晩に光義と2人で密談している時に幻覚症状に見まわれ、亡くなってしまいます。趙匡胤の死因は「千載不決の議」、すなわち千年経っても解決出来ない難題ということで、実は趙光義に暗殺されたのだとか、はたまた趙匡胤は日頃から大酒飲みだったので脳溢血で倒れたのだとか様々な説があります。ドラマでもこのあたりは微妙にボカしております。

で、趙光義が新帝として即位。早速姉に似ているという噂の家敏(ドラマの設定上は似ていると言うことになっている模様。)を後宮に入れ、更には李を毒殺。そして家敏が夫の後を追って自殺したと語られたところで物語は幕を閉じます。何ともやり切れない幕切れですが、これまでの展開を振り返ると家敏や李に対して同情する気にはなれません(^^;)

今回のツッコミ所

○夜中に家敏を呼び出してと2人きりで会い、姉の娥皇の思い出話だけをして彼女には一切手をつけずに李のもとに送り返すのが趙匡胤。家敏を自分の後宮に入れるのが趙光義。2人の性格の違いがよく現れているなあと……

○宋の開国を扱った作品と言うことで当然登場するかなあと思っていた趙匡胤兄弟のおかんと三弟の趙廷美は結局出ずじまいに。帝位を兄弟順に譲っていくという「金匱の誓い」は終盤になって出て来ましたけどね。

○やっぱり『大漢風』の呂雉みたいに視聴者をドン引きさせるぐらいのキャラが出て来ないとこの手のドラマは盛り上がらないなと思っていたら、趙光義が見事にその大役を果たした件について。これで呉越はいじめられ役といじめ役の両方を演じられる役者さんになったわけですね(^^;) 
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西安へ

2009年05月08日 | 留学
こちらでは5月28日から30日まで端午節で休みということで、連休を挟んで25日から30日まで西安に行くことにしました。(連休後の31日は日曜日ですが、振り替えで授業があるらしい……)

時節柄豚インフルエンザが気になるところですが、こちらの学生はさほど気にかけてません(^^;) 先日の連休(こちらでも今月1日から3日まで連休でした。)でも中国人学生は普通に田舎に帰ったりしてましたし、留学生でもこれから一旦帰国して短期間でまた戻って来るという人もいますし……

ただ、下のようなニュースを見ると、運が悪けりゃこんな目に遭うのかとガクガクプルプルとなるわけですが……

中国も連休中なのに.../上海の新型インフルエンザ(H1N1)事情:『中国を翔ける/海外生活マニュアル』

西安では陝西歴史博物館や兵馬俑といったツアーでお馴染みのスポットのほか、1日日帰りで宝鶏市に出て宝鶏青銅器博物館を見てくる予定です。西周の宮殿跡がある周原遺址も見たいのですが、行き方がよく分からない…… 法門寺あたりからタクシーをチャーターして行くしかないのでしょうか。
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『問君能有幾多愁』その5

2009年05月06日 | 中国歴史ドラマ
『問君能有幾多愁』第 27~33話まで見ました。

北宋では趙光義が持ち帰った情報をもとに後蜀に出兵し、君主の孟昶はあっさりと降伏を決意。母親や花蕊夫人とともに開封へと向かいます。それで趙光義が孟昶と花蕊夫人に「俺の顔に見覚えがあるだろう?あの時は世話になったな!」と正体を明かすわけですが、花蕊夫人はあからさまにキモがってます(^^;) 

で、その後も孟昶を毒殺したり、花蕊夫人にセクハラしまくったり、更には趙匡胤が北漢に親征している間に花蕊夫人を手籠めにしたりと悪行三昧。この後も基本的には趙光義のターンが続くはずなので、後々の展開を想像するだに胸糞が悪くなってきます(-_-;) 下の画像のごとく趙光義の人相も段々悪くなってきてます……



一方、南唐では李が家敏を新たに国后として冊立しようとしますが、その報告を聞いた趙匡胤が「娥皇が亡くなったばかりなのに、もう新しい国后とは…… しかも娥皇が亡くなる原因となった家敏など言語道断っ!」と激怒し、あてつけのように重臣趙普の従姉妹を李の后とするよう命じます。李はやむを得ずこの命令を承諾し、自ら北方へと新婦を迎えに行きますが、そこで当の新婦が結婚を嫌がって出家してしまうという事件が発生。

趙普と趙光義はひとまず李一行を軟禁状態にし、事件をもみ消すためにいっそのこと李を亡き者にしてしまい、更には君主がいなくなった南唐を一気に併合してしまえば一石二鳥ではないかと悪だくみ(^^;) そこへ折良く現地に居合わせていた家敏が軟禁解除のために奔走し、趙匡胤も事の次第を知って婚姻の取り消しと李の帰国を承認。そしてその功績もあり、家敏が国后として冊立されたのでありました。

なぜ家敏が都合よく現場に居合わせたかと言うと、李が趙普の従姉妹を国后とすると聞いて人生に絶望。→江正の寺で出家したいとか言い出す。→江正は出家を思い止まらせるために師匠に説得してもらおうと、師匠の寺のある北方へと彼女を連れ出する→たまたま李一行と遭遇。というコンボによる次第。もう何からツッコんでいいやらわかりません(^^;)

趙匡胤は北漢親征が不調に終わった後、南漢については首尾良く版図に収め、今度は南唐がターゲットとなるわけですが、娥皇との約束をタテになかなか南唐征伐のゴーサインを出しません。当の李はと言えば、帰国後仏教を妄信したり、重要な局面で佞臣を言うことを信用しちゃったりと徐々に暗君化が進んでます。段々南唐滅亡のフラグが立ってきた感じですね。
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『問君能有幾多愁』その4

2009年05月03日 | 中国歴史ドラマ
『問君能有幾多愁』第21~26話まで見ました。

南唐ではいよいよ李と家敏の醜聞が露見し、娥皇もこのことを知ってしまいますが、李は彼女に直接説明する勇気がなく、国事が忙しいからと言い訳して彼女に会おうとしないというヘタレっぷりを発揮(-_-;) 家敏は家敏で自分が事態を引っかき回しているにも関わらず「私、こんな状態に耐えられない!」とか言い出して実家に帰ってしまいます。この家敏、武侠物で言えば郭芙の凶悪さと郭襄の天真爛漫さを兼ね備えるという、このドラマの最凶キャラであります……

しかし実家に帰った後で家敏が妊娠していることが発覚。娥皇も李の子を宿しているならやむを得ないと家敏を李の妃として迎え入れることを承諾し、自ら実家に彼女を迎えに行きますが、そこで家敏の妊娠が嘘だったと発覚。しかも母親が「娥皇が聞いたら傷つくから本当のことは言ってはなりません。流産したことにしておきなさい。」と言い含めたにも関わらず本当のことを言ってしまい、衝撃を受ける娥皇。家敏の空気を読まなさっぷりは最早ネ申。

おまけに留守の間に宮廷では娥皇が産んだ二皇子がふとした事故がきっかけで脳死状態になってしまいます。不幸がダマになって襲いかかり、これまで積もり積もった心労が爆発したのか娥皇は吐血して倒れてしまい、明日をも知れぬ状態に……

北宋では娥皇が重体と知った趙匡胤が居ても立ってもいられずに自ら南唐に赴きます。娥皇も病身を押して趙匡胤と密会し、彼から「李が不仁・不義・不智をはたらかない限り今後南唐には攻め込まない。」という確約を得ます。そこへ事態を察した李も駆けつけ、趙匡胤と直接刃を交えるという一色触発の事態に。サシでの勝負となると元々侠客で武将の趙匡胤の方が断然有利なのですが、夫をかばう娥皇の姿を見て絶望した趙匡胤はその場を立ち去ります。そして娥皇は宮廷に帰還後ほどなく帰らぬ人となってしまったのでありました。

ここまでが言わば本作の第1部ですが、特に家敏が登場して以後は数々のツッコミ所を力ずくで押しつぶしていくブルドーザー的な展開でしたね(^^;) で、第2部のヒロインは後蜀の君主孟昶の寵姫で娥皇と生き写しと評される(というか劉涛が一人二役で演じてます)花蕊夫人であります。後蜀にスパイとして忍び込んだ趙光義が早速花蕊夫人をストーキングして孟昶にとっつかまり、危うく宮刑にされるところを彼女の計らいで逃亡に成功します。こいつの性根はトコトン改まりませんな。あのまま宦官にされてしまえば良かったのに(^^;)
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清華簡『保訓』

2009年05月01日 | 学術
以前に紹介した清華大学蔵戦国楚簡ですが、先日『国学網』を見ていたら続報がアップされており、精華簡の一部で『尚書』の逸篇と見られる『保訓』の内容が紹介されてました。

李学勤「“清華簡”研究初見成果:解読周文王遺言」
(元記事は4月13日づけの『光明日報』)

内容は周文王の武王に対する遺言で、その中で舜や殷の祖の上甲微の話などが言及されているとのこと。上記の李学勤氏による記事の中で原文が部分的に引用されているので、以下に抜き出しておきます。

「惟王五十年、不瘳、王念日之多鬲(歴)、恐墜宝訓。」
「王若曰、発(武王の名)、……」
「戊子、自靧。己丑、昧爽……」
「昔舜旧作小人、親耕于歴丘、恐求中、自稽厥志、不違于庶万姓之多欲。厥有施于上下遠邇、迺易位邇稽、測陰陽之物,咸順不擾。舜既得中、言不易実変名、身滋備惟允、翼翼不懈、用作三降之。帝堯嘉之、用受厥緒。」
「昔微假中于河、以復有易、有易服厥罪。微無害、迺帰中于河。」
(微由此把「中」)「伝貽子孫、至于成湯」


最後の文は現代中国語による補足を交えて原文を引用している部分です。全体を通して「中」の概念がキーワードになっています。

篇名の『保訓』は元から付いていたタイトルではなく竹簡の整理者が付けたものということで、おそらく最初の文の「恐墜宝訓」という句から採ったのでしょうけど、この「宝訓」が通仮によって「保訓」と読むべきだと判断したのか、(金文などで「保」・「宝」の2字が通用する例がある。)それとも単なるワープロの変換ミスなのかはっきりしません(^^;)

しかし以前紹介されていた『傅説之命』はどうなったんでしょうか。また、昨年こちらの指導教授に聞いた話では『尚書』の逸篇とされる書に『×公之預命』(「×」は現段階で隷定出来ない字)なるものが含まれているということでしたが…… まあ、おそらくは今回紹介された『保訓』を含めて『尚書』の逸篇と見られる書が複数存在するということなんでしょうけど。

今回紹介した記事の末尾に『保訓』の図片と釈文は間もなく公開出来るみたいなことが書かれていますが、購入からわずか1年足らずで精華簡全体の図録が出せるとも思えないので、(郭店楚簡や上海博物館蔵戦国楚簡は発見から5年後ぐらいにようやく図録が発行されている。)『文物』などの専門誌に取り敢えず『保訓』だけが紹介されるということなんでしょうね。何にせよ楽しみであります。
コメント (7)
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