博客 金烏工房

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【新出金文】柞伯鼎

2006年08月01日 | 学術
今後雑誌等で新出青銅器銘文が発表されるたびに、メモ替わりに銘文や訓読等を打ち込んでおきたいと思います。

今回扱う柞伯鼎は『文物』2006年第5期掲載の論文、朱鳳瀚「柞伯鼎与周公南征」で紹介されたものです。中国国家博物館に新たに収蔵されたとあるのみで、出土地や収蔵の経緯は不明です。年代については、朱鳳瀚論文では器の形制や紋様、銘文の字体から西周晩期(後期の意)のものと判断しています。以下、銘文の釈読等については基本的に朱鳳瀚論文の解釈に拠ります。

【凡例】

・銘文中では「中(=仲)」、「白(=伯)」、「且(=祖)」、「又(=有)」など字釈上特に問題が無いと思われるものについては、通仮字で表記してあります。
・Shift JISやUnicodeで表示できない文字については、[林去]のように表記するか(この場合は「林」と「去」のパーツを組み合わせた字ということです。)、あるいは字形が複雑でそれも困難場合はやむを得ず〓の記号を付けました。
・文中の「集成」は『殷周金文集成』の、「近出」は『近出殷周金文集録』の略。数字はそれぞれの書の著録番号です。

【銘文】

隹四月既死霸虢仲令(=命)
柞伯曰在乃聖祖周公
[其丮女](=其)有共(=功)于周邦用昏(=勉)無
及廣伐南國今汝[爫言系]率
蔡侯左至于昏邑既圍
城令(=命)蔡侯告徴(=成)虢仲遣
氏曰既圍昏虢仲至辛酉
搏戎柞伯執訊二夫獲馘
十人諆(=其)弗敢昧皇祖
用作朕烈祖幽叔寶尊
鼎諆(=其)用追享孝用祈眉
壽萬人(=年)子子孫孫其永寶用

【訓読】

隹れ四月既死霸、虢仲 柞伯に命じて曰はく、「乃の聖祖周公に在りては、かつて周邦に功有りて、用て勉むること及ぶ無く、南國を廣伐せり。今汝其れ蔡侯を率いて左して昏邑に至れ」と。既に城を圍み、蔡侯に命じて成を虢仲に告げしめ、氏を遣はして曰く、「既に昏を圍めり」と。虢仲至る。辛酉、戎を搏す。柞伯 執訊二夫、獲馘十人あり。其れ敢へて皇祖を昧にせず、用て朕が烈祖幽叔の寶尊鼎を作る。其れ用て追享孝し、用て眉壽萬年を祈る。子子孫孫、其れ永く寶用せよ。

【解説】

銘文は柞伯が虢仲の命を受けて蔡侯とともに(おそらく南方にあると思われる)昏という邑を攻めたことを記す。昏の城市を包囲した後、配下の蔡侯に報告に赴かせ、上司の虢仲が現地に到着した後に、昏に立てこもる戎人への攻撃を行い、柞伯は二人を捕虜とし、十人の敵の首を得た。そしてこのことを記念して祖先の一人である幽叔を祀るための鼎(すなわち本器)を作ったのである。

冒頭の虢仲の言によって、柞伯が周公旦の子孫であったことがわかる。この柞伯の先祖のものと思われる金文に柞伯簋(近出486)があるが、この銘では末尾に「柞伯 用て周公の寶尊彝を作る」という文があり、やはり柞伯の家が周公旦の子孫であることを示唆する。『左伝』僖公二十四年には「凡・蔣・邢・茅・胙・祭、周公之胤也」という一文があり、柞伯の柞は周公旦の子孫とされるこの五つの諸侯のうち「胙」のことであるとするのが一般的です。

同じく虢仲の言では周公旦が南征を行ったことになっているが、金文中では〓方鼎(集成2739)で「隹周公于征伐東夷・豐伯・薄姑」と、周公が東方に遠征したという記述が見られるが、周公が南方に遠征したとはっきり記したものは無い。禽簋(集成4041)には周王が[林去]侯を伐った時に周公と伯禽が征伐に関わった旨の記述があり、この[林去]が南方の楚あるいは奄を指すという説もありますが、はっきりそうだとは言い切れません。私が思うに、あるいは周公旦が南征を行ったという事実は無かったが、この銘文が作られた頃にはそういう伝承が出来ていたということなのかもしれません。朱鳳瀚論文では、『荀子』王制や『逸周書』作雒解に周公が南方に遠征した記述があり、また『史記』魯世家、蒙恬列伝等に、周公旦が讒言によって成王のに疎まれ、楚に出奔した記述があることを指摘しています。

字釈については、銘文三行目の「有共于周邦」という表現は他の銘文に「有爵于周邦」、「有成于周邦」、「勞于齊邦」といった類似の表現が見られます。またこの銘文では「其」にあたる文字を表記するのに通常の「其」(12行目8文字目)、「[其丮女]」(3行目1文字目)、「諆」(9行目3文字目と11行目2文字目)の3つのパターンを使用しており、この点かなり特異であります。
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