博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『上海游記 江南游記』

2006年05月20日 | 中国学書籍
芥川龍之介『上海游記 江南游記』(講談社文芸文庫・2001年10月)

『清国文明記』を読んだついでに、今まで何となく読みそびれていたこの本も読んでみることにしました。こちらは大正10年(1921年)3月から7月にかけての旅行記で、『清国文明記』とは逆に上海、蘇州、南京など南方の様子に重点を置いて著述しています。 また、酒楼での宴会に芸者を侍らせたりといった多少いかがわしい話も出て来ます(^^;) 

京劇などの芝居については、『清国文明記』での記述は非常にそっけないものですが、こちらでは芝居小屋での様子とか演目、はたまた役者との会見などを克明に記しており、両者の関心の違いがモロに出ていて面白いです。ほか、やたらと乞食に関する記述が多いですね。どうも芥川は当時の中国の猥雑さに興味を持ったようであります。

著者が旅行した時期は五・四運動の興奮が冷めやらぬ頃で、反日スローガンの落書きが街中で見られたり、学校で生徒が日本製の鉛筆を使わずに筆と硯でノートをとっている様子などが随所に出て来ますが、著者の態度は一貫して「ああ、排日やってますなあ」という感じで視線がクールなのが印象的です。

以下、本書の中で一番印象に残った一段を引用しておきます。

「金瓶梅の陳敬済、品花宝鑑の谿十一、-これだけ人の多い中には、そう云う豪傑もいそうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくもいそうじゃない。言い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥褻な、残酷な、食い意地の張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の亭だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追い追い流行らなくなった。文章規範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するがよい。」

残念ながら(?)、芥川の希望に反してこの手の漢学趣味は現在でもきっちり生き残っているようですが(^^;)

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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Unknown (さとうしん)
2006-05-22 21:24:05
そりゃあまあ、まがりなりにも漢学の部分ではしっかりとした素養があるから今まで専門家が務まってきたんでしょうけど…… やはりご指摘の通り、伝統的中国学と現実の中国の理解の双方が既に必要になっているんじゃないかと。
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バランスですかね (飯香幻)
2006-05-21 23:14:21
ただ、彼らは彼らで「漢学趣味」に相当する文化部分についても、ちゃあんとプライド保ってますからねえ。うっかり「現実」に近視眼的になってると、「やっぱわかってねーよな」と見られてしまいます。



極端な二極分化が問題なんかなあ。

いづれにしても相手に対して正しい態度ではない・・・
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一方で (さとうしん)
2006-05-21 22:06:47
その一方で中国学の専門家が漢学趣味に閉じこもって現実の中国と向き合おうとしないのは問題かなあと。まあ、私自身もあまり偉そうなことは言えませんが…… 
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むしろ (飯香幻)
2006-05-21 01:42:43
でも今や、漢学趣味的世界の一方で、漢学を知らずに「小説にあるような」支那と肌で向き合ってるヒトの方が実は断然多いんでしょうね。芥川の言い方はオーバーだけど、正直その方が「いえてる」と思ってるヒトはたぶん少なくないんでは。



現代のマスコミでは、むしろそっちの方向に極端に報じられすぎなキライがなきにしも非ずだなあ。
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