博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『大秦帝国之縦横』その9(完)

2014年06月05日 | 中国歴史ドラマ
『大秦帝国之縦横』第47~最終51話まで見ました。

秦の武王(嬴蕩)は即位後相国の張儀を国務から遠ざけ、叔父の樗里疾(厳君)と幼少期の先生であった甘茂を左右の丞相とします。

秦武王「今後は張儀ではなく先生と厳君に政務をお任せすることにしたい」 甘茂「えっ!」 秦武王「そう言えば先生は張儀に推挙されたんでしたな?」 甘茂「その通りですが、此一時、彼一時(あの時はあの時、今は今)ですので(キリッ 」 「此一時、彼一時」って便利な言葉ですよね(^^;)

そして秦の宗室代表の公子壮は張儀排除を図り、相国府を襲撃。事態を知った樗里疾の救援により張儀は一命を取り留めますが、彼を庇った妻の蘇萱が犠牲となります。そのショックでめっきり老け込んだ張儀は官を辞して魏に帰郷。その直後に亡くなった老母の葬儀の帰りに立ち寄った酒場でかつてのライバル公孫衍(犀首)と再会し、往事を語り合います。本作の主役の一人張儀がここで退場です。

しかし武王の方も韓との宜陽の戦いの勝利に浮かれて洛邑の周天子のもとに赴き、九鼎の一つ龍紋赤鼎を持ち上げたことから筋骨が断裂して死亡。今際のきわに趙の人質となっている王子稷を後継に指名します。羋八子を嫌う公子壮ら宗室勢力は恵文后(魏紓)を動かして帰国を阻もうとしますが、燕・趙国や丞相の樗里疾・甘茂、羋八子の弟の魏冉と友人白起らの尽力により無事に咸陽に入ります。嫡母の恵文后と生母の宣太后(羋八子)が臨朝称制するという形で王子稷が即位。すなわち秦の昭襄王(昭王)です。



公子壮とかその父親の関内侯ら秦の宗室がなぜ宣太后を拒絶するのかもうひとつよくわからないのですが、要するに好き嫌いの問題ということなんでしょうか。作中で彼らは宣太后が外族の出であるからダメなのだと非難していますが、宣太后のセリフにある通り、当時の同姓不婚の原則に則ると「秦王の后妃は必ず外族より迎えられる」ことになるんですよね…… それはともかく公子壮(季君)は次の昭襄王・宣太后排除のチャンスを昭襄王の冠礼と定め、「季君の乱」の幕が上がることとなり……

【総括】

ということで「その8」で恵文王に釈放されたはずの義渠王駭は最終話になっても再登場せず。『史記』匈奴列伝にある宣太后が義渠王を殺す話は最終話で描かれた羋琰(宣太后と義渠王駭との間の子)の末路がその代わりになっているということなのか、それとも次の第三部に持ち越しということなのか…… もっとも、そもそも第三部が果たして制作されるのかどうかかなり疑問なのですが(^^;) (※下の追記を参照)

今作の第二部、おそらく戦国史の研究成果をふまえて張儀のライバルとして敢えて蘇秦を登場させないなど考証面ではかなり頑張っていたと思うのですが、それが歴史ドラマとしての面白さに繋がってこないというもどかしさがありました。(まあ、考証を頑張っていたのはドラマ版のスタッフではなく原作者なんでしょうけど)恵文王・張儀・羋八子もキャスティングされた俳優さんの魅力を生かしていたとは言いがたいものがあります。残念ながらドラマの出来は第一部『大秦帝国之裂変』に及んでいないと言わざるを得ません。

【追記】
……と書きましたが、第三部『大秦帝国之崛起』も制作予定(というか撮影自体は終わってる?)のようです。取り敢えず下のサイト(中文サイト)を参照のこと。

百度百科『大秦帝国之崛起』
コメント (2)
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