旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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二枚目・ハンサム・ナイスガイ・イケメン

2007-04-19 10:03:14 | ノンジャンル
★連載 NO.284

 春4月。
 桃原 永<とうばる はるか。22才>。久田友也<くだ ともや。22才>。池田龍丙<いけだ りゅうへい。24才>は、琉球放送局今年度の新入社員である。配属部署はまだ決まっていないが、桃原=営業・制作。久田=報道。池田=技術と、それぞれの志望がある。挨拶まわりで、いささか緊張気味。それをほどいてやろうと初対面の彼らに声をかけた。
 「揃って二枚目だネ」
 意味は通じたらしいが、納得顔ではない。二枚目という言葉に実感がないようだ。
 (二枚目は、もう死語になったのだろうか。イケメンにすればよかった)と、反省したことではある。
 歌舞伎など芝居の看板、番付で二番目に位置付けされることから、美男子役を二枚目と言い、転じて好男子、やさ男を指すようになった。三枚目は喜劇役者。いまでも、ひょうきん者を指す言葉として、私は使っている。劇場の表に掲げる役者名や飾り看板の一枚目は、もちろん座長・大御所。大看板あるいは、一枚看板と言い、最も優れた役者のことだが、これもいまではその世界の代表格、実力者を表す言葉になっている。



 映画全盛になって登場した(二枚目)は、何と言っても長谷川一夫だろう。デビュー名林 長二郎。現在、60才後半から70才以上の方なら、まず彼の名前をあげるにちがいない。まったくの余談だが、風狂の歌者故嘉手苅林昌<かでかる りんしょう。大正9年生>は戦時中、沖縄人の名前は(読みにくい、書きにくい、呼びにくい)として、大和人の仲間に入れてもらえなかった。そこで嘉手苅林昌は、童名ジルー<次郎>を「林昌」と組み合わせたうえに、大二枚目林 長二郎にあやかって「林 昌次郎=はやし しょうじろう」を名乗って、大和人に変身した。
 さらに余談。明治37年生の私の母親に「日本一の二枚目は?」と問えば即座に「上原 謙」と答えていた。理由「同じ上原姓!」これであった。

 沖縄芝居の二枚目は、誰もが平安山英太郎<へんざん えいたろう>を筆頭に置く。
 明治38年<1905>6月8日、那覇市東村<現・町>出身の平安山英太郎は、14才にして劇団・潮会<うしおかい。座長真境名由康・まじきな ゆうこう>に入会。昭和7年<1932>、珊瑚座に参加するや(二枚目)として活躍。歌劇「薬師堂」「仲里節由来記」、自作の「仏桑華・あかばなぁ」の主役を演じて、人気を不動のものにした。
 戦後も「巴劇団」を結成、座長となり、数々の名舞台を披露。昭和54年<1979>4月14日、73才で没しているが、芝居通の間では(ヘンザンぐとぅどぅある=平安山優みたいだ)が、美男子の代名詞になっている。

 昭和13年<1938>生まれの私にものごころがつき、好きなスターを選びだせた昭和20年後半から35、6年ごろの「二枚目」は鶴田浩二。映画「ハワイの夜」「弥太郎笠」などなど、憧れをもって見ていた。

 江戸時代。
 見るからにそれらしい若衆を「いい男」と言い、その上、女性にモテそうな艶っぽい男を「いろ男」と呼称したようだが、芝居や映画が大衆娯楽になるにつれ、それらは「二枚目」になった。
 しかし、昭和30年代に入るや石原裕次郎の登場によって「ナイス ガイ」「タフ ガイ」が二枚目に取って代わる。もっとも、これらは和製英語に近く、殊に「ナイスガイ」は、英語ではむしろ反語として使われ「いやな奴」をも意味するそうな。見た目よりも個性の時代に入ったのであるが、それらもこのごろは死語になりつつあり、いまや木村拓哉を代表として「イケメン」時代だ。

 RBCiラジオ情報センター担当であり、3月4日「ゆかる日まさる日さんしんの日」のスタッフ森根尚美<38才>の「二枚目」は、鬼平犯科帳の中村吉右衛門。徐 弘美<41才>のそれは、三浦友和。
 長谷川一夫。上原 謙。平安山英太郎。鶴田浩二。石原裕次郎。中村吉右衛門。三浦友和。木村拓哉・・・・。
 いい男。いろ男。二枚目。ハンサム。ナイスガイ。タフガイ。イケメン。
 男の美称も時代とともに変遷していく。
 「オレは、いずれに位置するのだろうかネ」
 森根尚美、徐 弘美に問うてみた。ふたりは顔を見合わせて、
 「・・・・・  ・・・・・」
 丁度、そこへ電話が入って話は断ち切れになった。
 ふたりの(・・・・・  ・・・・・)の沈黙は、何だったのだろう。

次号は2007年4月26日発刊です!

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