4月15日(日) “寄居北條まつり”の鉢形城攻防戦が開始された。
寄居町の南部を流れる清流・荒川を挟んで、右岸に寄せ手の豊臣軍、左岸の鉢形城直下の河原には北條軍が布陣し対峙、戦いの期が熟すのを今か今かと待っていす。
北條家・寄居鉢形城の戦さとは、上野国(こうずけのくに・群馬県)北部の沼田地方で真田家と北條家が沼田城と名胡桃城(なぐるみ)の領有をめぐって揉めていたのを、豊臣秀吉の調停で沼田城は北條領、名胡桃城は真田領に分割しました。
ところが、北條支城・沼田城の鼻先にある真田・名胡桃城は喉に刺さったトゲで、沼田城代・猪俣邦憲が策略をめぐらし名胡桃城代・鈴木主水以下の城兵を城外へおびき出し、その隙を衝いて名胡桃城を奪取してしまいました。名胡桃城を盗られ鈴木主水も割腹自刃し、天下に恥を晒した真田家が秀吉に北條家の非道を直訴した事が小田原城・鉢形城攻防戦に至る原因となりました。(天正17年 名胡桃城事件 名胡桃城由来の「裸奇祭・ヤッサ祭り」)
その事件以前から秀吉は北條家に人質を出すよう要求していましたが、北條家は言を左右にして人質を出す気配は無く、心良く思っていなかった秀吉は諸大名関の争いを禁じた「惣無事令」違反と裁定し、名胡桃城事件を切っ掛けに北條征伐の軍を起こし、小田原・北條氏政攻略(小田原征伐)の豊臣本軍とは別に前田利家を総大将とした前田・上杉・真田の別働隊(2万人)を上野国へ派遣しました。
天正18年(1590)豊臣軍は北條軍の守る沼田城・名胡桃城を攻略し、名胡桃城と沼田城を真田昌幸に与え、更に余勢を駆って北條氏邦が居城とする寄居・鉢形城攻略の軍を荒川に進め、鉢形城眼下の玉淀河原で北條軍と死闘を繰り広げる事となりました。
寄居北條まつりの合戦模様は最初に豊臣・北條両軍からの大筒の撃ち合いで開始されました。
広い玉淀河原の川面に大筒の轟音がひびき渡ります。
豊臣攻撃軍は6門、対する北條軍は3門の大筒で間断なく炸裂爆音が続きました。
両軍の大筒の撃ち合いの最中、北條軍から豊臣軍陣地へ決死の切り込み戦隊が無事に渡河上陸し奇襲!!
北條軍渡河隊と豊臣軍との間で激しい戦闘が展開されました。
上陸してしばし優勢に闘った北條隊も多勢に無勢!
あまつさえ、外人参加の国際隊も奮戦!!
戦闘の推移と共に次第に北條軍の敗色濃くなってゆきます。
玉淀河原の各所では武将同士の一騎打ちが・・・。
武器を捨て素手での格闘が行われて見物客の大声援を受けていました。
豊臣方・前田軍の腰元部隊のお姉様たちの見守る中、太刀での死闘が繰り広げられました。
北條攻撃隊の主将も壮絶な討ち死を遂げ、荒川右岸での北條軍・豊臣軍の華々しい戦闘は終結しました。
次回は、左岸・鉢形城崖下での豊臣軍の攻撃模様です。
2007 04 26(木)記。 前橋市 最高気温23℃