4月7日(土) 甘楽町・小幡郷の古い家並み沿いの桜並木と武家屋敷見物の後、道路を500mほど上に行った処にある織田家七代の墓を訪ねることにしました。
道路沿いの民家の壁には次の日曜日(4/15)に催される「城下町小幡 武者行列」のポスターも・・・。
名庭園「楽山園」横の弓道場では女性が健気に弓を引き絞っていました。
ここ甘楽町も“群馬”でしたね、「カカァ天下と空っ風」の気風ですか・・・。 (群馬の女性に失礼しました! ホントは働き者で優しいんです。)
7分程ぶらぶら歩くと路上に「織田宗家七代の墓」の標識板が出ていました。
そこを左に入って短い階段を上ると立派な二股枝の松が見えてきました。
二股松の後ろに織田家の霊を供養する、織田家菩提寺の臨済宗・小幡山崇福禅寺が建っています。
(上画像の中央は本堂、左隅には織田家十代の位牌を安置する位牌堂です。)
近年に建てられた位牌堂の奥に、小幡藩主であった織田家ゆかりの織田家十代の位牌が安置されています。
小幡藩初代藩主の織田信雄(おだのぶかつ)から十代目の織田信美(のぶかず)までの位牌が整然として安置。
位牌は古色蒼然として遥かな歴史を忍ばせていました。
織田家十代の位牌を収めた位牌堂の左上が目指す“織田宗家七代の墓”。
まずは小幡藩初代藩主・織田信雄の墓に参詣。(下左)
七代の七基の中でもひと際大きな墓で目立っていました。
上右画像の手前の墓は二代藩主・織田信良(のぶよし)、三代・信昌、信久、信就、信右、七代・信富と続いています。
織田家七代の墓の後ろ側にはそれぞれの正室の墓が夫を見守るように立っている姿が印象的でした、
満開に咲いている桜花の下で眠っている織田家の霊もさぞ安らかなことでしょう。
なぜ群馬の片田舎の甘楽町・小幡郷にあの織田家の子孫が??・・・って。
豊臣家を滅ぼし、天下を取った徳川家康は出来ることなら自分より上になる者は排除・滅亡しようと考えたが、織田家は徳川の主筋にあたり、世間の体面上滅ぼす訳にいかず、八代の信邦が出羽高畠藩に移封されるまで152年間に亘り、ここ西上州の小幡郷に二万石を与え幽閉同然に隔離したとのことです。
因みに、初代信雄は織田信長の次男で元和元年(1615年)に小幡藩主に任命され、73歳まで存命・・・当時とすると驚異的な長寿者でした。
西上州の歴史散策の旅など如何でしょうか? 春うららの日差しを浴びながら・・・。
2007 04 14(土)記。 前橋市 最高気温25℃。 風強し。
4月14日 タイタニック号の日(1912年4月14日沈没。)
タイタニックでの悲劇・・・!?