4月15日(日) 寄居北條まつりもいよいよ終盤戦の佳境を迎えました。
前回の荒川・玉淀河原右岸・豊臣陣営での戦いが終わり、次には豊臣勢の左岸への攻撃に舞台は移ります。
左岸の鉢形城下に陣を配置した北條軍へ豊臣軍の渡河・攻撃が開始されました。
迎え撃つ北條方は大筒に加えて、小型の手筒も発射!! (和製バズーカ砲)
銃器火器の効少なく豊臣軍の上陸を許してしまいました。
上陸後、しばし両軍の弓矢の応酬合戦が行われます。
弓矢では勝負の帰趨は決せず、豪傑者の武将同士の闘いか展開されました。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って眼にも見よ~~!! 我こそは北條家の家臣・○×之介なるぞ~~!」と互いに大声で名乗りを挙げます。
石だらけの河原で見事な立ち回り!! 格闘で豊臣の武将を打ち倒しました。
一騎打ちの決着がつくと同時に、豊臣軍は一斉攻撃に打って出ます。
玉淀河原で熾烈な乱戦模様が展開・・・。
崖上の鉢形城を死守する北條軍の防戦が効をあげ、豊臣軍を一度阻止し、上陸陣地まで押し戻しました。
玉淀河原では次なる武者の一騎打ちが・・・。
河原の上では決着が着かず、荒川の水上での闘いに移りました。
対岸からの大観客の声援に応えて、真に迫ったズブ濡れの死闘!!
別の武将の戦闘シーンも始まりました。
真迫の殺陣で攻撃陣豊臣軍の名だたる武将をことごとく討ち取り、北條武士の面目躍如!!
再度、豊臣軍と北條軍の集団戦で激烈な戦闘が開始されます。
真に迫った戦闘シーンの連続! とても演技とは思えません。
乱戦模様を呈した玉淀左岸では勝敗の決着がつきません。
北條・豊臣両軍は共に勝利を祝い勝鬨の声を高らかに挙げていました。
前田利家を総大将とする2万人の豊臣軍は一ヶ月近く経ても鉢形城を陥落出来ず、秀吉は更に浅野・木村・佐竹・宇都宮軍3万を鉢形城攻撃陣に増派しました。 (前田・上杉家を主力とする豊臣軍は鉢形城を奪っても、この地は徳川の領地になる事を知って、見せ掛けだけの手抜き攻撃だったとの説もあります。)
鉢形城に篭城する北條軍は3500人、攻める豊臣軍は増援部隊を加えての5万の軍勢。 六月十一日に豊臣勢の総攻撃が開始されます。
少数の北條軍は天然の要害鉢形城で必死に防戦しましたが、これ以上の城兵の犠牲を避けるため、北條氏邦(小田原城主・四代目北條氏政の弟 所領70万石を有し,文武に秀で名君の誉れ高い。)は出家し十三日に豊臣方と和睦開城、この日をもって壮絶な鉢形城攻防戦は終結となりました。
北條軍の和睦の証として北條氏邦嫡男・東国丸は人質として、北條軍将兵に見送られ北条家菩提寺・正龍寺の和尚に伴われ豊臣方へ出向きます。(史実では氏邦公正室・大福様も人質となる。)
東国丸公は無事荒川を渡って豊臣陣地に入り人質となって、寄居北條まつりの華麗な戦国合戦絵巻は終幕となりました。
上野国(群馬県)沼田の名胡桃城事件に端を発した北條征伐の鉢形城攻略は天正18年(1590年)5月13日に開始され、6月13日まで激しい攻防戦が続きました。
出家し豊臣軍に投降した北條氏邦公は前田家お預かりとなり、9名の家臣と共に金沢で前田家客分として厚い待遇を受け生涯をまっとうしたとの事。
群馬県北部の沼田・月夜野地区の小さな名胡桃城の事件から大軍が動き、小田原評定の諺を残した名家北条家の滅亡(五代・氏直)をもって豊臣の天下統一達成、長く続いた戦国時代の終焉を迎えます。 まことに歴史の妙と言えるのではないでしょうか・・・。
寄居北條まつりで筆者に甲冑を貸して足軽写真兵に取立てて頂いた、三鱗会の皆様と、特にお世話になった方々に本当に感謝いたします。
三鱗会のこれからのご活躍とご健勝を祈念申し上げます。 (凛々しい美女戦士と筆者。)
北條まつりの合戦の動画はここをクリック、カメラ撮影中の筆者も写っています。
2007 04 28(土)記。 前橋市 のち
最高気温22℃。
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合戦場面の迫力ある写真は実にお見事!
くわしい説明文も歴史の勉強になりました。
また面白いのを期待してます。
お褒め頂き恐縮です。
頑張りますので引き続きご覧下さい。