ツトムさん家の写真日記。

写真いっぱいの楽しい日記です。(全面表示でご覧下さい)

第197回 春日部市 大凧祭り 中。 大凧揚げ本番。

2007-05-12 22:22:22 | 旅行

5月5日(子供の日)    春日部大凧会館の見学が終り、再び江戸川河川敷に戻ってきました。

凧揚げ会場の江戸川河川敷には既に大勢の見物客が日本一の大凧祭り(無形民俗文化財)に詰め掛け、大空に翻る様々な凧を見ていました。

春日部大凧祭り”とは江戸時代の天保12年(1841年)に出羽国の僧・浄信が各地巡礼の折り、この地・宝珠花小流寺に滞在し、人々に養蚕の豊凶占いとして凧揚げを教えた事に始まります。
何時しか繭の収穫時期から端午の節句に揚げる時期が移り、も次第に大きくなりました。明治初期には現在の半分の大きさに、明治中期に現在の大きさになったと云ます。災害や戦争などで中止された年もありましたが、宝珠花地区の祭りとして長く親しまれている伝統行事(国選無形文化財)です。
 
江戸川堤防の上では凧の説明をマイク片手の凧指導員が名調子で面白く・・・。
 
午前中は“全国凧揚げ大会”が開催され、珍しい凧・名物凧のオンパレードです。

江戸川堤防下には幾つもの大きな凧が並べられ出番を待っていました。





人間と比較すると大きさが良く判ります。
石川五右衛門みたいに人間が乗れそうな凧ですね。
でも、この凧たちは大凧ではありません。 中凧とでも云うのでしょうか?(係員は小凧と言ってました。小凧でも縦6m横4m、重量150kgです。)

小凧の「希望」と「華翔」が鮮やかに飛揚する雄姿です。

いよいよ午後2時から大凧揚げが開始される予定。

それにしても、凧の大きさには驚きの一言! 目を見張るものがあります。
大凧の骨組みに縦15本、横17本、斜め14本の割り竹が使われます。
組み立てられた竹の骨格に、半紙大の和紙1500枚が縦16m横12mの広さに貼られるのです。(糊しろ各1m) 
完成した大凧は縦15m横11m、重量約800kgの巨大な凧。(約100畳)
 
この大凧を大凧文化保存会の「上若」「下若」の若衆約100人で江戸川堤防の上まで懸命に持ち上げます。見ているだけでスケールの大きさを実感できますよ。
50mの運搬作業だけで30分! 壊さない様に丁寧な人力作業、いやはやご苦労様なことです。

堤防の上では元関取・舞ノ海NHKのレポーターをしていました。

凧揚げもスポーツの分野に入るのでしょうか? それとも芸能ニュース?
NHKでは5日夕方6時から第一で放送しますと言ってました。

地元のTV局(TV埼玉)の放送時間に合わせて、大凧揚げは一時間遅れの午後3時からとなりました。
待った甲斐あって大凧環境は無事に離陸!!

大凧の飛揚を固唾を呑んで見ていた大勢の人達から一斉に大拍手が沸き起こりました。 大感激の一瞬と言っても過言ではありません!

雲ひとつ無い青空に悠然と舞い上がる大凧には感無量です。
 
地上では百数十名の「上若・下若」若衆が大凧の綱を必死に引っ張って操作していました。
用意した揚げ綱の長さは1000mとの話です。
風速が4~5m程で大凧「環境」は100~150mの範囲を遊弋・・・。

次には大凧地球が颯爽とデビューする筈でしたが、江戸川堤防上の風が弱くなり揚がりきらない内に敢え無く失速してしまいました。

この日の為に苦労して作った大凧地球」でしたが、竹の骨組みが複雑骨折・破損!!
修復不可能で本日の大凧揚げは「環境」のみの成功をもって終了となりました。
二張りの大凧が大空に舞うと地球環境と自然の大切さをアッピールできたのですが・・・。

大凧や各種変わり凧など楽しめた江戸川河川敷の対岸にはグライダー滑空場(関宿滑空場)があります。

グライダー牽引機のプロペラ機やスマートなグライダーなどが凧と共に良く見ることが出来ます。 (上画像は連凧に戯れるグライダー、右下には関宿滑空場。)
子供連れ家族の行楽には絶好の大凧祭りです。 
読者の皆様も来年5月には1841年(天保12)から続く伝統の大凧祭り春日部市宝珠花へ是非どうぞ・・・。

2007 05 12(土)記。    前橋市    最高気温25℃   無風快晴


第196回 春日部市 大凧祭り 上。 大凧会館。

2007-05-09 19:19:19 | 旅行

5月5日   子供の日に巨大な凧を揚げるお祭りがあると聞いたので、さっそく妻を引き連れて行きました。

場所は埼玉県春日部市郊外の江戸川河川敷。

朝からをぶっ飛ばして春日部市の西宝珠花町へ・・・。
江戸川河川敷の無料駐車場に運良くパーキングできました。

河川敷では既に小凧がいくつも青空を気持ち良さそうに泳いでいました。

春日部名物・巨大凧の出番までには時間があったので、近くの大凧会館を訪問。
凧の展示場にしては超立派な大凧会館です。
 
入場料300円支払って入ると正面には代表的な凧の展示。

階段には河豚の連凧バットマン凧
 
大きな扉を開けて大凧会館本展示場に入ると、まず眼を引くのが壁面に飾ってある巨大凧!!
  
15m11m重量800kgの大凧が四張りです。
彩の国は埼玉県のことですが、庄和って何・・・??

春日部市が誕生する前、この地は糟(粕)壁地区と庄和地区に分かれていたそうです。 その2地区が合併して春日部市が誕生しました。

もともと大凧庄和地区のお祭り用だったんですね。 それで庄和の大文字が書かれているんですね。

大展示場の最奥にはガラスケースに収まった本格的武者絵大凧が見られます。
  
左、本能寺の森蘭丸。 右、源平・壇ノ浦合戦の大凧です。
見ているだけでも惚れ惚れする出来栄えの古い作品。

広い展示場には全国の代表的な凧が飾ってあります。
 
上は江戸凧の展示。流石は華のお江戸、鮮やかの絵柄。

朱色の羽織凧は南総(千葉)凧で図柄は八犬伝です。
 
右上は隣の県・群馬上州べえ凧でねぶた図柄をモチーフとしていました。
右隅の人と比較すると大きさが判ると思います。
海外の興味深い凧も沢山展示していました。
左下はインドネシアの凧です。
 
右上は日本軍の戦闘機を描いた、ターゲットカイト
このターゲットカイトは空高く挙げられ、射撃の標的に使用したそうです。
戦争になると凧も軍用凧になりますから、平和が一番ですね。

春日部市大凧会館には約450点の各種凧が展示公開されています。
最上部の7階には展望レストランも有りますから、ぜひ入場・見学して下さい・・・ね。

次回は春日部大凧祭りの本番です。

2007 05 09(水)記。    前橋市    最高気温29℃

安倍晋三がこそこそと真榊を靖国神社に奉納したって、内閣総理大臣なんて書かないで無名で奉納しろってば! 近隣諸国の嫌がることを密かにするバランス感覚の抜けたのアホ首相!
靖国神社なんて国益を損なうだけの代物、早く取り壊して公園にしましょう。

台湾の対岸の中国・温州にはこんなユニークな公衆トイレが出来たそうです。
 
おばさんが管理してるから、有料トイレみたいですが・・・。
昔は鳥居に小便をかけるとチン○が曲がるって言われたけど、靖国神社にかけると大きく立派になるかもね・・・。 


第195回 埼玉県加須市 ジャンボ鯉のぼり。

2007-05-05 22:22:22 | 旅行

5月3日     巨大な鯉のぼり見物です。

場所は埼玉県の加須市(かす市でも、かず市でもなく、かぞ市と読みます)。

加須市大越の利根川緑地公園の広々とした河川敷が会場です。
この緑地公園で5月3日に第19回 加須市民平和祭が開催され、その一環としてジャンボ鯉のぼりが揚げられます。

朝早くで出発、加須市北中学校に駐車して無料のシャトルバスで河川敷へ向かいました。

利根川河川敷・緑地公園の中央にはイベント広場ができて賑やかです。
イベント広場から下流方面には広大な菜の花畑が満開の花を咲かせていました。
 
雲ひとつ無い鯉のぼり日和の下、菜の花畑に沿って露店加須名産品店が列をなして営業中! 

利根川河川敷の堤防のなだらかな斜面には数万人の見物客がジャンボ鯉のぼりの揚がるのを待っています。 

露店商をヒヤカシながら待つこと暫し、加須市ジャンボ鯉のぼりは午前11時から第一回目が始められました。
 
今までに見た事も無い巨大なクレーン車(車輪タイヤが大人の背丈同じ大きさ)でジャンボ鯉のぼりの口の部分からゆっくりと引き上げていきます。

この鯉口の直径だけで10mとの説明放送がありました。
 
徐々にクレーンで引き上げられますが、肝心のが少し弱いようです。

ジャンボ鯉のぼりの下には小さな鯉のぼりが一緒に曳き上がって・・・。
小さいと言っても6~7mもある立派な鯉のぼりです。

加須市自慢のジャンボ鯉のぼりはこの鯉が平成15年完成の三代目で世界一の大きさだそうです。(一代目は昭和63年、二代目は平成8年に完成。 歴代では二代目が一番大きく、長さ111m 重量730kg 遊泳中破損・引退。)
三代目の全長は100m、重さ350kg(ポリエステル使用で軽量化)。 目と口の直径は10m。 一枚のウロコは5m。 脅威の大きさです。
昨年にはドイツへ親善遊泳をしに外遊したそうです。(加須市鯉のぼりHPはここクリック)

ゴマ粒みたいなと比べると巨大さが良く判ると思います。
やはり午前中は天気が良すぎてが吹きません。
ジャンボ鯉の尾が空中に泳ぎません、30分程頑張りましたが、風が見込めないので第一回目は不成功の内に終了しました。

第二回目は午後の1時から、それまではイベント会場でのアトラクションと昼食で暇つぶし!

中央のイベントステージでは武州太鼓の実演や民謡・踊り・キーボード演奏・フォークダンスなど盛り沢山!
隣りの青年会議所広場では地震体験コーナーや子供広場など有り、子連れ達で盛況でした。

でも、一番感心して楽しめたのが「加須小・郷土芸能クラブ」が演じた武州加須囃子うどんひょっとこ踊りでしたね。
加須市名物の「加須うどん」の作り方をテーマにした笛太鼓のお囃子付きの楽しい踊りです。
 
ひょっとこ面を被った加須小学校の生徒さん達の熱演には万雷の拍手!!
加須小がある限り日本の未来は明るいですね。

午後の一時になって第二回目ジャンボ鯉のぼりの掲揚開始です。
午前中より風が吹いてきたようです。
 
鯉の大きな口からをいっぱい吸い込んで生き返った様に見えました。

風速も5~6mで丁度良い風との説明放送です。
 
ジャンボ鯉のぼり下の小さく見える鯉のぼりも気持ち良さそうに泳ぎだしました。

大空をノンビリと遊泳中の鯉のぼりと違って、地上では鯉のぼりのバランスを取る為、係員達が必死にロープを手繰っていました。

この作業で鯉のぼりが逆さにならない様にバランスをとっています。

鯉口の左右から引いたロープで微妙に操作するのですね。

新聞社やテレビ局のヘリがバタバタと取材に飛んでいましたが、まるでジャンボ鯉に軽くあしらわれている様で鎧袖一触って形容がピッタリでした。
  
ジャンボ鯉のぼりの巨大尾の一撃を避けるかのように、ヘリは遠くから廻って撮影していました。(空撮は朝日新聞。)

抜けるような紺碧の大100mの巨体をくゆらせながら、何時までも気持ち良さそうに泳いでいました。

これぞ平和日本の象徴ってな感じです。(北朝鮮問題を利用しての最近の右傾化にご注意!)

しばし遊泳してから、満足したように無事着地しました。
 
人間のナント小さなこと、巨大な尾から吹き出すで人が飛ばされそうでした。
 
係りの人々が取り付いている様は、まるでガリバー物語を彷彿とさせます。

なんとかビニールを敷き詰めた所定の位置に着地。

雄大な遊泳の余韻に浸るかのように何時までも尾から風が抜け切れません。

ジャンボ鯉のぼり撤収は、口の大きさを基準に胴と尾を縦に三つ折りにたたみ、尾部からクルクルと巻いてゆきます。
 
10名ほどで巻きます。最初は効率良く巻けますが、重量350kgですから次第に全員ヘトヘト状態になります。  
途中で人員交代しながらなんとか20分程で巻き終わり、無事トラックの荷台に収まって全て完了! (荷台には一代目が予備用として積んでいました)

加須市ジャンボ鯉のぼり参加の皆様、本当にお疲れ様でした

絶好の晴天日和に恵まれて悠然と大空を泳ぐ、「加須ジャンボ鯉のぼりには大感激しました。「加須市民平和祭」が益々盛大になるよう祈ります。

読者の皆様も是非ご覧に加須市へ行っては如何でしょう。

2007 05 05(土・子供の日)記。    前橋市   最高気温29℃

大阪吹田市エキスポランド・スタンディングコースター「風神雷神Ⅱ」の事故。
 ご冥福を・・・。


第194回 花の秩父路

2007-05-02 22:22:22 | 旅行

4月21日(土)    埼玉県秩父市・羊山公園の芝桜の丘へ。

秩父市の芝桜の丘には日本最大の面積を誇る芝桜の公園があると聞きました。

早速、を飛ばして一路埼玉の秩父市へ・・・。
道路は県道の前橋秩父線と云う地方の幹線を南下。

群馬県の冬桜で有名な鬼石町から神流川を渡ると埼玉県に入ります。(鬼石冬桜はここクリック) 

埼玉・神泉町の急な上り坂を越え、長瀞方面にだらだらと下り、やっと開けた山間地の人里に満開のツツジが咲いていました。

薄暗い杉林の峠道から明るい場所に出たので、ツツジの花が眩しく映ったのでしょうか?

それにしても眼を奪われるほどの見事なツツジでした。
通る車の大半がツツジ見物で徐行して・・・。   

さしずめ、秩父の山奥に花開いたツツジの桃源郷ってな感じでした。

県道近くの小川には黄金色した花も・・・。
 
太田道灌の鷹狩にまつわる話で有名な「七重八重、花は咲けども、山吹の。みの一つだに、無きぞ悲しき」(兼明親王)の句に出てくる山吹の花ですね。

鮮やかなヤシオツツジとゴージャス色の山吹花を眼に焼き付けながら、春の秩父路を芝桜の丘目指して走りました。

秩父市羊山公園の芝桜の丘は近日中に掲載予定。

2007 05 02(水)記。    前橋市     最高気温25℃

(GW中多忙に付き簡略化、悪しからず。)


第193回 埼玉県寄居町 寄居北條まつり 合戦編 下巻。

2007-04-28 15:15:15 | 旅行

4月15日(日)   寄居北條まつりもいよいよ終盤戦の佳境を迎えました。

前回の荒川・玉淀河原右岸・豊臣陣営での戦いが終わり、次には豊臣勢の左岸への攻撃に舞台は移ります。

左岸の鉢形城下に陣を配置した北條軍へ豊臣軍の渡河・攻撃が開始されました。
 
迎え撃つ北條方は大筒に加えて、小型の手筒も発射!! (和製バズーカ砲)
銃器火器の効少なく豊臣軍の上陸を許してしまいました。

上陸後、しばし両軍の弓矢の応酬合戦が行われます。
 
弓矢では勝負の帰趨は決せず、豪傑者の武将同士の闘いか展開されました。

 からん者は音にも聞け、くば寄って眼にも見よ~~!! こそは北條家の家臣・○×之介なるぞ~~!と互いに大声で名乗りを挙げます。



石だらけの河原で見事な立ち回り!!  格闘で豊臣の武将を打ち倒しました。

一騎打ちの決着がつくと同時に、豊臣軍一斉攻撃に打って出ます。
 
玉淀河原で熾烈な乱戦模様が展開・・・。
 
崖上の鉢形城を死守する北條軍の防戦が効をあげ、豊臣軍を一度阻止し、上陸陣地まで押し戻しました。

玉淀河原では次なる武者の一騎打ちが・・・。
 
河原の上では決着が着かず、荒川の水上での闘いに移りました。
 
対岸からの大観客の声援に応えて、真に迫ったズブ濡れ死闘!!

別の武将の戦闘シーンも始まりました。
  
真迫の殺陣で攻撃陣豊臣軍の名だたる武将をことごとく討ち取り、北條武士の面目躍如!!

再度、豊臣軍北條軍集団戦で激烈な戦闘が開始されます。
 
 
 
 

真に迫った戦闘シーンの連続! とても演技とは思えません。
乱戦模様を呈した玉淀左岸では勝敗の決着がつきません。

北條・豊臣両軍は共に勝利を祝い勝鬨の声を高らかに挙げていました。
 
前田利家を総大将とする2万人の豊臣軍は一ヶ月近く経ても鉢形城を陥落出来ず、秀吉は更に浅野・木村・佐竹・宇都宮軍3万を鉢形城攻撃陣に増派しました。 (前田・上杉家を主力とする豊臣軍は鉢形城を奪っても、この地は徳川の領地になる事を知って、見せ掛けだけの手抜き攻撃だったとの説もあります。)

鉢形城に篭城する北條軍は3500人、攻める豊臣軍は増援部隊を加えての5万の軍勢。 六月十一日に豊臣勢の総攻撃が開始されます。
少数の北條軍は天然の要害鉢形城で必死に防戦しましたが、これ以上の城兵の犠牲を避けるため、北條氏邦(小田原城主・四代目北條氏政の弟 所領70万石を有し,文武に秀で名君の誉れ高い。)は出家十三日に豊臣方と和睦開城、この日をもって壮絶な鉢形城攻防戦は終結となりました。

北條軍の和睦の証として北條氏邦嫡男・東国丸は人質として、北條軍将兵に見送られ北条家菩提寺・正龍寺の和尚に伴われ豊臣方へ出向きます。(史実では氏邦公正室・大福様も人質となる。)
 
 
東国丸公は無事荒川を渡って豊臣陣地に入り人質となって、寄居北條まつりの華麗な戦国合戦絵巻は終幕となりました。

上野国(群馬県)沼田の名胡桃城事件に端を発した北條征伐の鉢形城攻略は天正18年(1590年)5月13日に開始され、6月13日まで激しい攻防戦が続きました。

出家し豊臣軍に投降した北條氏邦公は前田家お預かりとなり、9名の家臣と共に金沢で前田家客分として厚い待遇を受け生涯をまっとうしたとの事。

群馬県北部の沼田・月夜野地区の小さな名胡桃城の事件から大軍が動き、小田原評定の諺を残した名家北条家滅亡(五代・氏直)をもって豊臣の天下統一達成、長く続いた戦国時代の終焉を迎えます。 まことに歴史の妙と言えるのではないでしょうか・・・。

寄居北條まつりで筆者に甲冑を貸して足軽写真兵に取立てて頂いた三鱗会の皆様と、特にお世話になった方々に本当に感謝いたします。
  
三鱗会のこれからのご活躍とご健勝を祈念申し上げます。 (凛々しい美女戦士と筆者。)

北條まつりの合戦の動画ここをクリック、カメラ撮影中の筆者も写っています。

2007 04 28(土)記。     前橋市 のち    最高気温22℃。


第192回 埼玉県寄居町 寄居北條まつり 合戦編 中巻。

2007-04-26 05:05:05 | 旅行

4月15日(日)   寄居北條まつりの鉢形城攻防戦が開始された。

寄居町の南部を流れる清流・荒川を挟んで、右岸に寄せ手の豊臣軍、左岸の鉢形城直下の河原には北條軍が布陣し対峙、戦いの期が熟すのを今か今かと待っていす。 

北條家・寄居鉢形城の戦さとは、上野国(こうずけのくに・群馬県)北部の沼田地方で真田家と北條家が沼田城名胡桃城(なぐるみ)の領有をめぐって揉めていたのを、豊臣秀吉の調停で沼田城は北條領、名胡桃城は真田領に分割しました。

ところが、北條支城・沼田城の鼻先にある真田・名胡桃城は喉に刺さったトゲで、沼田城代・猪俣邦憲が策略をめぐらし名胡桃城代・鈴木主水以下の城兵を城外へおびき出し、その隙を衝いて名胡桃城を奪取してしまいました。名胡桃城を盗られ鈴木主水も割腹自刃し、天下に恥を晒した真田家が秀吉に北條家の非道を直訴した事が小田原城鉢形城攻防戦に至る原因となりました。(天正17年 名胡桃城事件 名胡桃城由来の「裸奇祭・ヤッサ祭り」

その事件以前から秀吉は北條家に人質を出すよう要求していましたが、北條家は言を左右にして人質を出す気配は無く、心良く思っていなかった秀吉は諸大名関の争いを禁じた「惣無事令」違反と裁定し、名胡桃城事件を切っ掛けに北條征伐の軍を起こし、小田原・北條氏政攻略(小田原征伐)の豊臣本軍とは別に前田利家を総大将とした前田・上杉・真田の別働隊(2万人)を上野国へ派遣しました。

天正18年(1590)豊臣軍は北條軍の守る沼田城・名胡桃城を攻略し、名胡桃城と沼田城を真田昌幸に与え、更に余勢を駆って北條氏邦が居城とする寄居・鉢形城攻略の軍を荒川に進め、鉢形城眼下の玉淀河原で北條軍と死闘を繰り広げる事となりました。

寄居北條まつりの合戦模様は最初に豊臣・北條両軍からの大筒の撃ち合いで開始されました。 

広い玉淀河原の川面に大筒の轟音がひびき渡ります。
 
豊臣攻撃軍は6門、対する北條軍は3門の大筒で間断なく炸裂爆音が続きました。

両軍の大筒の撃ち合いの最中、北條軍から豊臣軍陣地へ決死の切り込み戦隊が無事に渡河上陸し奇襲!! 

北條軍渡河隊と豊臣軍との間で激しい戦闘が展開されました。

上陸してしばし優勢に闘った北條隊も多勢に無勢! 

あまつさえ、外人参加の国際隊も奮戦!!
 
 


戦闘の推移と共に次第に北條軍の敗色濃くなってゆきます。

玉淀河原の各所では武将同士の一騎打ちが・・・。 
 


武器を捨て素手での格闘が行われて見物客の大声援を受けていました。

豊臣方・前田軍の腰元部隊のお姉様たちの見守る中、太刀での死闘が繰り広げられました。
  
北條攻撃隊の主将も壮絶な討ち死を遂げ、荒川右岸での北條軍・豊臣軍の華々しい戦闘は終結しました。

次回は、左岸・鉢形城崖下での豊臣軍の攻撃模様です。

2007 04 26(木)記。    前橋市     最高気温23℃


第191回 埼玉県寄居町 寄居北條まつり 合戦編 上巻。

2007-04-24 22:22:22 | 旅行

4月15日(日)    寄居北條まつりの鉢形城から市街地への武者行列もつつが無く終了。  武者行列の面々は合戦場となる荒川の河川敷に続々と集結です。

寄居・鉢形城を対岸に望む清流・荒川の河原は美しい景勝地として、昔から文人達に愛でられた処で「玉淀河原」とも呼ばれています。 

その玉淀を舞台として“寄居北條まつり”の鉢形城攻防戦が展開されます。

左岸の陣幕は北條陣地、右岸は寄せ手の豊臣陣地。(左岸の上部が鉢形城跡になります。)

寄居北條まつり武者達が豊臣陣地に集結中。


北條軍豊臣軍も威儀を正してご入城! 
 
武者行列の最終地点の玉淀河原には右岸に6門左岸に3門の大筒が配備され、戦いの火蓋が切られるのを今や遅しと待ち構え・・・。

合戦の始まる前に大筒の横でアイドル撮影会でしょうか?
 
和風顔の美人くの一忍者がポーズをとって・・・。 こんな可愛いくの一が筆者の寝所に忍び込んでくれたらなァ~~。

豊臣方の総大将・前田利家軍も遠路はるばる到着しました。 

右端2名の腰元衆は足軽姿になってお家の為に戦います。 

玉淀河原から北條軍は渡し舟で鉢形城直下の左岸河原に渡河作戦中。
 
筆者も北條軍の御味方に馳せ参じ、船に乗船して左岸に・・・。

北條軍最強の寄居十六騎は早々に布陣していました。
 
鉢形城主・北條氏邦公はどっしりと構え、鉢形城防衛作戦を熟考中?

右岸、豊臣軍も大勢の将兵を出陣させ、合戦の準備万端整い、いざ出陣!!
 
左岸、北條部隊の大筒も右岸豊臣軍に砲弾を浴びせるべく戦闘の開始を待ち構えています。

次回は、寄せ手・右岸の豊臣陣地での合戦模様です。

2007 04 24(火)記。    前橋市     最高気温15℃


第190回 埼玉県寄居町 寄居 北條まつり 武者行列の巻。

2007-04-22 22:22:22 | 旅行

4月15日(日)   埼玉県北部・寄居町の寄居 北條まつりを見物。

寄居町には東武電鉄・秩父鉄道とJR八高線が通っているが、特に名所・名物がある訳でなく、比較的地味な地方の町がこの日ばかりは“北條まつり”で大賑わいです。

全国から合戦ファンの方々が続々と集結して寄居町は物々しい雰囲気に包まれていました。 

寄居町の北條まつりは市内の外れを流れる荒川岸の断崖上にある鉢形城を豊臣軍が攻撃した時の北條軍との攻防合戦を再現する祭りなのです。(鉢形城は日本名城百選の一つ。)

北條まつり出陣式は12時30分に鉢形城で快晴の中、威風堂々と行われ、参加者の勝鬨の声が城跡に木霊していました。
 
出陣式のあとは鉢形城⇒寄居駅⇒荒川河原への武者行列となります。

先頭は北條武士団で後に豊臣の人質になる東国丸もよちよちと歩を進めていました。
 
様々な企業やグループの軍団が次々と鉢形城から下って来ます。
マークの幟旗はお馴染みの郵便局隊

寄居町いずみ保育園隊もちびっこ忍者の出で立ちで、日頃鍛えた忍びの術をご披露すべく馳せ参じました。
 
元気良くメッポウ明るい乙姫様は三名で飾り車に乗って御出陣。

お隣の群馬県箕郷町からは山伏を先頭にした箕輪城隊も駆けつけました。(箕輪城も日本百名城の一城)
 
外人さん達が結成した国際隊緋縅の甲冑で行進。これぞ外人部隊のハシリって事でしょうか?

武者行列は清流の荒川を渡って寄居町の市街地へ入城しました。
鉢形城攻防戦では嚇々たる武勲を立てた十六騎軍団の雄姿です。
先頭の武将は寄居町長が演じる鉢形城主の北條氏邦公。
 
本家・小田原北條家からは小田原城馬廻衆の武士団が北條家の三鱗の旗を高く掲げてて堂々の行進です。

寄せ手豊臣軍の三河・本多家武将とハィチーズ! 戦の無い平和って最高ですね。
 
小田原提灯踊り保存会の踊り手を従えた山車と共に、鉢形城攻防戦後の和議調停役の寄居北條家菩提寺・正龍寺の住職役も・・・。

小田原提灯ぶら下げて~、の音頭に合わせて小田原ちょうちん踊りの御婦人連です。
 
25℃の炎天下での武者行列で一番威勢の良かったのは小田原ちょうちん隊の面々?ですね。 本当にお疲れ様でした。

筆者もひょんな事から縁あって飛び入りで武者(足軽)の姿に変身!
(ローマの真実の口?)
日頃から嘘を云わない正直者ですから運の良いことに親切な人に出会いました。
三鱗会の衣装をお借りして足軽カメラマンに取り立てられ、この足軽衣装のお陰で見物客の入れない場所でも撮影出来ました。 
寄居・東京三鱗会の皆様には感謝、感謝です。

次回は鉢形城攻防戦です、乞ご期待!

2007 04 22(日)記。     前橋市    最高気温25℃  熱い夏日です。


第189回 群馬県 甘楽町・小幡轟 宝積寺の枝垂れ桜。

2007-04-18 22:22:22 | 旅行

4月7日(土)    甘楽町・小幡郷の織田家七代の墓のお参りを済ませた後、道路を更に上方に歩きました。

目的の場所は、「宝を積む寺」と云う縁起の良い名前の寺、宝積寺(ほうしゃくじ)です。
ムフフのお宝映像が沢山奉納されているお寺なんて考えてると罰があたりますからね。(宝は心に積むと云う意味の寺です。)
この宝積寺の境内に大きな枝垂れ桜が花開していると聞きました。
織田家の墓から宝積寺までは距離にして2kmの散歩。

道路上には最近建てたらしい立派な寺石標が立っていました。
頭に曹洞宗と刻んでありますから、禅寺なのでしょう。
 
宝積寺への路上には六地蔵と「お化け灯篭」が・・・。
夜中に常夜灯のこの灯篭を見た人がお化けが出たと腰を抜かしたことから、「お化け灯篭」と呼ばれるようになったとさ。
たしかに一風変わった形の灯篭ですが、地震の時はお化け灯篭が倒れて死神に化けるかも・・・。

宝積寺に近くなると、車で来た観光参詣客がゾロゾロと・・・。
織田家墓から徒歩30分でやっと到着、歩いて来た人は他には誰もいません。
でも、車の通行の少ない田舎道を草花
を見ながら歩くのもまた一興です。
参詣料200円支払って宝積寺の境内へ入りました。
 
境内で最初に出会うのが、「身代り地蔵」です。
昔から「身代り地蔵」を削って飲むとお腹の病に効くと云われ、腰から上が削られてボロボロになっていました。

身代り地蔵」に諸々の災厄の身代りをお願いして境内を進むと、目的の枝垂れ桜が右手に現れてきました。


枝垂れ桜は開花は8分程でしたが、見事な桜花!(曇天で画像の発色悪し)
(樹齢約140年、樹高14m、 エドヒガンザクラ種)

枝垂れ桜の正面には菊女観世音菩薩という大きな石像が立っています。
高さ6mの新しい観音様で、子宝・安産を初め商売繁盛・無病息災などに霊験があるそうです。 行けない方は下の菊女観音画像に「南無菊女観世音菩薩」と3回お昌え下さい、きっと霊験新たかになることと思います。
 
この観音には「菊女伝説」と云う悲しい逸話があり、「怪談番町皿屋敷」のお菊噺の原形とか・・・。(菊女伝説はページ下の宝積寺HPをクリック。)

大枝垂れ桜の裏には“なでほてい”と言う布袋様の石像がありました。

参拝者が頭を撫でながら願うと何時の日か願いを叶えてくれるそうです。
この布袋様も最近作ったように見受けました。

参拝順路に従って進みますと、宝積寺本堂の横裏に天狗の腹切り石が見られます。

上部が平らな大きな岩です。直径が2.5m位でしょうか。

昔し、永禄3年(1563年)の宝積寺合戦で身の丈2mの寺僧・巌空坊覚禅が敵兵と戦い、最後にこの石の上で切腹して果てたので名付けられたそうです。
本来はこの石の上で僧侶が座禅をした、宝積寺の修行の中心石です。

更に進むと、菊女と母親の墓”なるものがありました。

悲劇の主人公菊女とその母の墓石塔です。(右が菊女の墓)
小さなものですが、相当に古びていますので真実味もありそうです。

菊女の墓の後ろには、“国峰城主・小幡氏歴代の墓が並んでいました。
 
8基の小幡家の墓ですが、小幡郷の名由来の藩主の墓としては悲しいほどの小ささです。
墓地の近くには若木の枝垂れ八重桜が鮮やかに咲いていました。

曹洞宗・鷲翎山宝積寺(じゅれいざんほうしゃくじ)には見所が随所に大盛り・特盛りです。
西上州の片田舎の寺が観光で必死に寺興しを図っている健気さを感じました。
企業家精神が旺盛な寺ですから、今後益々発展することと思います。
なお、信長子孫の織田家は三代まで宝積寺
を菩提寺としていた名刹との事です。

宝積寺のホームページには逸話が懇切丁寧に掲載されています。
菊女伝説・天狗腹切り石・身代り地蔵など読んで、ぜひ訪ねては如何でしょうか・・・。

宝積寺からの帰り道、小幡桜並木を流れる雄川堰に至る上流の雄川用水添いの遊歩道を散策。 
直角に横ぎる川の上を跨ぐ水道橋に出合いました。 名前は吹上の石樋(ふきあげのいしとい)と言います。

長さ6mの一枚岩を3枚組み合わせて川の上を通す水道橋です。
慶応元年(1865年)に七ヶ月と250人の労力で完成したそうです。
現在も立派に現役で街中の雄川堰に綺麗な用水を送っていました。
 
雄川用水添いには菜の花ダイコンバナが満開で、春の訪れを実感できる旅となりました。

読者も西群馬の歴史地区・甘楽町を散策されては如何でしょうか、きっと新たな発見に出会うことでしょう・・・。

2007 04 18(水)記。    前橋市 のち  最高気温10℃   真冬並みの寒気。

4月18日    発明の日  よい歯の日  よい刃の日

ヴァージニア工大での射殺魔韓国人チョ・スンヒと間違えられ一時容疑者扱いになった、銃器マニアの中国人・江さん


第188回 群馬県 甘楽町・小幡  織田家七代の墓。

2007-04-14 16:35:35 | 旅行

4月7日(土)   甘楽町・小幡郷の古い家並み沿いの桜並木武家屋敷見物の後、道路を500mほど上に行った処にある織田家七代の墓を訪ねることにしました。

道路沿いの民家の壁には次の日曜日(4/15)に催される城下町小幡 武者行列のポスターも・・・。
 
名庭園「楽山園」横の弓道場では女性が健気に弓を引き絞っていました。
ここ甘楽町も“群馬”でしたね、「カカァ天下と空っ風」の気風ですか・・・。 (群馬の女性に失礼しました! ホントは働き者で優しいんです。)

7分程ぶらぶら歩くと路上に織田宗家七代の墓の標識板が出ていました。
そこを左に入って短い階段を上ると立派な二股枝の松が見えてきました。

二股松の後ろに織田家の霊を供養する、織田家菩提寺の臨済宗・小幡山崇福禅寺が建っています。
(上画像の中央は本堂、左隅には織田家十代の位牌を安置する位牌堂です。)

近年に建てられた位牌堂の奥に、小幡藩主であった織田家ゆかりの織田家十代の位牌が安置されています。

小幡藩初代藩主の織田信雄(おだのぶかつ)から十代目の織田信美(のぶかず)までの位牌が整然として安置。
位牌は古色蒼然として遥かな歴史を忍ばせていました。

織田家十代の位牌を収めた位牌堂の左上が目指す織田宗家七代の墓
まずは小幡藩初代藩主・織田信雄の墓に参詣。(下左)
七代の七基の中でもひと際大きな墓で目立っていました。
 
上右画像の手前の墓は二代藩主・織田信良(のぶよし)、三代・信昌、信久、信就、信右、七代・信富と続いています。

織田家七代の墓の後ろ側にはそれぞれの正室の墓が夫を見守るように立っている姿が印象的でした、
 
満開に咲いている桜花の下で眠っている織田家の霊もさぞ安らかなことでしょう。

なぜ群馬の片田舎の甘楽町・小幡郷にあの織田家の子孫が??・・・って。

豊臣家を滅ぼし、天下を取った徳川家康は出来ることなら自分より上になる者は排除・滅亡しようと考えたが、織田家は徳川の主筋にあたり、世間の体面上滅ぼす訳にいかず、八代の信邦が出羽高畠藩に移封されるまで152年間に亘り、ここ西上州の小幡郷二万石を与え幽閉同然に隔離したとのことです。

因みに、初代信雄織田信長の次男で元和元年(1615年)に小幡藩主に任命され、73歳まで存命・・・当時とすると驚異的な長寿者でした。

西上州の歴史散策の旅など如何でしょうか? 春うららの日差しを浴びながら・・・。

2007 04 14(土)記。    前橋市     最高気温25℃。   風強し。

4月14日    タイタニック号の日(1912年4月14日沈没。)
          タイタニックでの悲劇・・・!?


第186回 北本市と桶川市 桜見物の旅。

2007-04-10 20:20:20 | 旅行

4月4日(水)  北本市石戸宿の石戸蒲さくらの見物後、市内の桜名所を訪ねました。

途中で出合った見事な樹花です。
 
 
紅白入り混じった八重の枝垂れ桜でしょうか? 梅か桃かな・・・?

北本市高尾のさくら公園へ向かいました。

ですね~。 野原や畑には様々な草花が顔を覗かせていました。
 
色鮮やかなタンポポ土筆です。 ツクシは食べても美味ですよ。

テレビ東京でしょうか? 高尾さくら公園でTV番組の収録をしてました。
タレントは山田花子ガレッジセール
 
ハッピには拝借御免と書いてありましたから、付近の農家に行って何か借りてくる番組と思います。  旧モー娘・Wユーの辻 希美も参加していましたよ。
辻 希美はスタッフのガードが完璧で撮れませんでした。


高尾さくら公園」でタレントと桜花を楽しんだ後、直ぐ横の“高尾阿弥陀堂”のエドヒガンザクラの大木を見物。
 
阿弥陀堂のエドヒガンザクラは樹齢約200年との話です。
確かに大木です、高さ15m程でしょうか?
惜しいことに花の盛りは過ぎて、葉桜になりかけていました。

阿弥陀堂からで次なる桜名所城ヶ谷堤へ移動です。
城ヶ谷堤の桜は堤防上の道路を挟んで二列に植えられていました。
 
華やかなサクラのトンネルです。 仄かにサクラ香の匂いも・・・。

城ヶ谷堤は江戸時代に荒川の氾濫から田畑を守るために築かれた堤防です。
は敗戦後、堤に植えられたそうですが、約60本あるソメイヨシノ桜は全て巨木の趣きがあります。
平日にも拘らず露店も沢山出ていました。

4月4日は晴れたと思ったら氷雨が降ったりの目まぐるしい天気でした。(東京は季節はずれの小雪とか。) 城ヶ谷堤の花見時間は曇天でした。

北本市のパンフにお隣の桶川市枝垂れ桜が載っていましたので、枝垂れ桜見物へ・・・。
 
見に行った所は桶川市川田谷。源範頼公由来の諏訪山普門寺です。
見事な枝垂れ桜(エドヒガンザクラの変種でイトザクラ)が、さながら悲劇の武将・源範頼公の鎮魂のために花を咲かせて屹立している様に思えました。

普門寺は平安時代・天長年間に慈覚大師の開山と伝えられ、江戸時代には寺領3万石の朱印地を与えられ栄えましたが、現在では廃寺になり堂宇は全く有りません。

江戸時代の普門寺は源範頼公(前回の石戸蒲桜の項を参照)のドクロ(頭骨)を寺宝としていた天台宗の寺院です。
この枝垂れ桜は樹高12m、樹齢190年余と云われています。

花の美しい季節です、読者の皆様も花見物に北本・桶川へどうぞ・・・。

2007 04 10(火)記。     前橋市    最高気温19℃。

4月10日   女性の日  駅弁の日  ヨットの日  四万十の日(四国四万十川)


第185回 日本五大桜 北本市の石戸蒲桜。

2007-04-06 06:06:06 | 旅行

3月4日(水)    埼玉県北本市に有名なサクラの名木を発見。

早速高速道を走って北本市へ・・・。

桜の名木がある場所は北本市石戸宿3丁目。
朝から変な天気ですが、午前中はなんとか持ちそうな感じでした。
の花には碧い晴天が一番良く似合います。 
晴れたり曇ったりの空を心配しながら北本市の石戸宿へ・・。
目指す桜木は石戸宿3丁目の時宗・西亀山東光寺の境内です。

北本市石戸宿の桜木は日本五大桜の一つに数えられ、石戸蒲桜(いしとかばざくら)と名付けられています。
(日本五大桜 福島県三春の瀧桜、山梨県山高の神代桜、岐阜県根尾谷の淡墨桜、静岡県狩宿の下馬桜、埼玉県北本市の石戸蒲桜。)

小高い斜面の東光寺桜花に囲まれて春の日差しを浴びて華やかな雰囲気!

(上画像の右の樹が石戸蒲桜。)
門前には北本市の観光案内所が出ていました。(近くに無料駐車場あり。)

平日の午前中なので観光客は少なく桜見物には最高!!
 
東光寺への正面階段脇のサクラ木が有名な石戸蒲桜かと間違うほどの立派な古木です。

十数段の石段を上がると東光寺の右側に蒲桜がドカ~ンと・・・。
 
巨木のですね、なんでも800年余の樹齢を誇っているそうです。

もちろん、国指定天然記念物(大正11年指定。)
 

見事としか言いようがないほどの巨木です。

石戸の蒲桜の石戸はここ石戸宿の地名から名付けられたのですが、蒲ってまさかウナギの蒲焼に由来でも・・・? 

北本市のパンフの説明では、源頼朝の弟、義経の兄で源範頼(のりより)公のあだ名が蒲冠者(かばのかじゃ)と云い、源平合戦で大活躍したので猜疑心強い兄頼朝の嫉妬を買ったそうです。
頼朝によって謀反の罪をでっち上げられて1194年に伊豆の修善寺に幽閉・死去しましたが、ここ石戸宿では逃れてこの地へ隠れ住んだと云う伝説があります。 逃れて来た際についてきたから根付いたので、蒲冠者の桜で蒲桜と呼ばれるようになりました。(義経殺しと同じ、「男の嫉妬ほど恐ろしいものはない」の見本ですね。)

可愛そうな伝説とは裏腹に蒲サクラは優雅に咲いて、時おりヒラヒラと花弁を舞わしていました。
 
蒲ザクラの根元には源範頼の墓石と伝えられる石塔と供養する板塔婆などが・・・。
 
蒲桜の太い先端の枝木(幹かも?)は切られて痛々しい姿でした。
昨年までは枝に桜花を咲かせていたのでしょう。 

樹齢800年余ですから、幹にも大きな穴が開いて、向こうのサクラ花が見えていました。

老木でも健気に可憐な花を咲かせていましたよ。

石戸蒲桜は江戸時代にも有名で、文人墨客たちが訪れていたそうです。


裏横からの蒲サクラです。(逆光です。悪しからず。)
 
隣の畑では春の野菜も色づいていました。

石戸蒲桜の樹種は和名「カバザクラ」という世界でもこれ一本の品種です。
この桜木が枯れたらカバザクラは絶滅してしまいます。(見物はお早めに!)
ヤマザクラエドヒガンザクラとの自然雑種との説明でした。

蒲桜の東光寺門前にはお堂に入った六地蔵さんか微笑んで・・・。

関東埼玉の田舎にも意外な名所があるものです。
皆様も春の日にのんびりと訪ねてみては如何でしょうか・・・。

2007 04 06(金)記。    前橋市     最高気温14℃

4月6日   城の日  白の日  新聞をヨム日  北極の日(1909年 北極点到達)


第184回 茨城・古河市 桃まつり。 下巻。

2007-04-03 01:01:01 | 旅行

3月24日(土)    古河市総合公園古河桃まつり会場での熱気球フライト体験を無事終了した後、次なる観光名所を訪ねてGO!

古河市総合公園の中にも幾つかの見所があると云う。

桃の花を観ながら歩いていたら、野点の茶席が・・・。 (野点の一服は500円。)
茶席の周りにはカメラ小僧とジジ・ババが・・、何かと覗いてみたらピンクの和服を着た“桃むすめ”が休憩中です。
 
可愛い桃むすめが撮れるって、これ幸いとカメラ小僧の仲間入り。
ポーズを決めてハイ・チーズ!

大勢のカメラ撮影で野点のお茶は飲めなかったけど、神様は微笑んでくれました。
直ぐ近くに甘茶の無料サービスがありました。
 
4月8日のお釈迦様の誕生日を少し早めに祝って甘茶サービスです。
本当にお釈迦様ってアリガタヤ、有難や・・ですね。

お釈迦様の甘茶で一息ついてから近くの“古河公方・足利義氏墓所”を見学。

古河公方の墓はひっそりとした佇まいかと思いきや、周りを華やかな桃花で囲まれた一角にありました。

古河公方は鎌倉時代から続く家柄、鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が1445年古河に移り、それから五代にわたり約130年間、北関東に一大勢力を築いた名家です。
古河に居を構えたことから「古河公方」と呼ばれました。

正面の大きな石碑が足利義氏の墓と思ったら、なんと右奥の木の根元が墓所との事。墓石もなにもありません。(正面の石碑は後世に建てた足利義氏公墳墓標石です。)
見に来た人は全員戸惑って標石を拝んでいましたっけ・・。

古河市総合公園南側の小高い場所に行くと、なにやら古い農家が二棟が・・。
一つの農家は中山家住宅で1674年(延宝2年)に建築されたそうです。
 
江戸時代初期に建てられ、間口9間半、奥行き5間半の直屋(すぐや)と呼ばれる大きな農家です。
屋根を支える梁や桁には木材の自然な湾曲を利用していました。
中山家住宅は茨城県の有形文化財に指定されています。

中山家住宅の隣には飛田家住宅が建っています。

飛田家住宅は1700年代中期の建築で、L字形の大きな曲り屋です。
曲り屋の隅には馬小屋(うまや)があり、人と馬とが同じ建物で暮らした様子が判ります。
“飛田家住宅”は昭43年国の重要文化財に指定されていました。
上記二棟の古農家はいずれも昭和の戦後に当地へ移築された。

この二棟の古農家の建っている小高い台地が古河公方の館があった跡で、中山家住宅の前に史跡古河公方館跡の石碑が建っています。

桃まつり開催中の古河市総合公園を後にして、古河市内に向かいました。
先ず目指したのは、徳川幕府初期に大老を拝命した“土井利勝”の墓所。
お寺の名前は利勝山正定寺”(しょうじょうじ)と云う土井利勝が建立した古刹です。(土井家菩提寺)

正面の山門ではなく、横の黒門から見学しました。

この黒門は土井家江戸屋敷の表門でしたが、昭和8年に正定寺へ移築したそうで、お陰で戦災にも遭わなく威風堂々とした門です。 (黒門の形式は医薬門です。)

正定寺本堂前には土井利勝公の銅像
 
境内には土井利勝墓所の案内標識はありません。
本堂裏手の墓地の一番奥の隅に土井利勝公の墓がひっそりと・・・。
(土井家の墓所は浅草の誓願寺でしたが、昭和2年に正定寺に改葬されました。)
土井利勝は家康の隠し子と言われ、老中・大老となり幕政の中枢で活躍しました。
訪ねた墓所は古河藩16万石の藩主の墓としては少し寂しい風情でした。

次に訪ねた処は日本三大長谷観音の一つがある明観山長谷寺
立派な観世音菩薩は古河長谷観音と呼ばれ霊験あらたかなことで知られている。
古河長谷観音は古河公方・足利成氏が1500年頃(明応年間)に寄進した、木造十一面観世音菩薩。
 
長谷寺が古河城の鬼門にあたることから、古河城の鬼門仏として歴代藩主の祈願所でもあった。
日本三大長谷観音奈良鎌倉古河の長谷観音のこと。楠木の一木彫刻造り。)

古河長谷観音をお参りしてから、150m程歩いた場所にある鷹見泉石記念館(鷹見泉石屋敷)へ。
 
鷹見泉石(たかみせんせき)は古河藩の家老となり、江戸幕府の老中であった藩主 土井利厚・利位(としつら)の補佐役として名高い。
泉石屋敷の玄関には雛祭り人形
が飾られて古色の建物にも華やかさが・・。

鷹見泉石の資料は鷹見泉石記念館の前にある古河歴史資料館に展示されています。
 
古河歴史資料館に入館して最初に眼を引くのが鷹見泉石の掛け軸。
江戸期の文人・画家・学者で有名な渡辺崋山が描いた名品で国指定重要文化財です。
 
鷹見泉石は洋学に秀でて、当時のオランダ地図を製作したり、西洋文物の勉学で崋山など蘭学者たちと交流していました。
オランダ商館長・ブロンホフから「ヤンヘンドリックダッペル」というオランダ名を貰うほどの西洋通でした。
また政治行政でも辣腕を奮い、土井利位(としつら)が大阪城代の天保8年、大阪で起きた大塩平八郎の乱でも鷹見が指揮を執り見事鎮圧に成功した功労者です。

土井利位は古河藩主として、大阪城代や京都所司代、更に主席老中の要職を歴任。また顕微鏡を用いて日本初の雪結晶観察図鑑雪華図説を著わした雪の殿様として高名。
  
雪華図説」の雪結晶を模様化した着物や日用品などが江戸で大流行しました。(雪華模様訪問着)

最後に訪ねたのは永井路子の旧宅
 
建物は江戸末期の葉茶商家のおもむきを残しています。(葉茶の他、陶磁器や質屋も営業していた、当時では大金持ちの家と思われる。)
内部にはお雛様を飾った帳場も残っていました。

永井路子女史は芥川賞・直木賞・菊池寛賞・吉川英治文学賞等々の文学賞を総取りした日本を代表する女流文学者です。

土井家黒門の正定寺から長谷寺・鷹見泉石・古河歴史資料館・永井路子旧宅までは狭い地区内にあります。 徒歩で気楽に観光出来ますので読者の皆さんも一度古河市へ遊びに行かれて古河の歴史・風物に触れては如何でしょうか・・・。

2007 04 03(火)記。     前橋市 時々    最高気温13℃。  花冷え。

4月3日   悪天の特異日 清水寺の日  インゲン豆の日(隠元禅師忌日)


第183回 茨城・古河市 桃まつり。 中巻。

2007-03-30 20:20:20 | 旅行

3月24日(土)   古河市桃まつり熱気球体験。

古河総合公園桃まつり会場”の大空に大きな風船が舞い上がっていました。
 
天気も無風薄曇状態なので絶好の気球日和

もしかしたら乗せてもらえるかも・・と、期待しながらバルーンの着陸地へ急ぎました。
期待どおり“桃まつりお祭り広場”の片隅に、「第14回 熱気球体験フライト」の看板と古河バルーンクラブの係員が待機していました。

一回の体験フライトは少々お高く、1名1000円也。 
生まれて初めての経験なので“お金より思い出”と、清水の舞台から飛び降りたつもりで申し込みです。
 
係りの女性が熱気球ゴンドラに乗船する客の人選をしていました。
重量バランスをとるとの事で、申し込みの早い順だけでは乗れません。
ゴンドラには基本的に操作する係員が1名と体験客大人4名です。
子供は3名で大人2名扱いでした。
運よく直ぐにバルーン乗船の順番が来て、恐る恐る乗船。

籐を編んだゴンドラの片隅にはガスボンベがあります。
フライトOKの合図で操作係員がバーナー(燃焼器)のコックを開きます。
ガスボンベからホースで繋がったバーナーから勢い良く炎が立ち上り上昇開始でフライトへ・・・。
 
ガス燃焼の輻射熱で頭が暖かくなってきました。

バルーンゴンドラは1.2m四方ほどで超狭い空間です。
そこに大人5人のすし詰め状態、乗船内の写真撮影もままなりません。
ゴーー!と云うバーナーの燃焼音が頭上で聞こえ、上昇開始。でも、上昇時のショックは全くありません。
エレベーターより穏やかな上昇です。 次第に地面が遠ざかり夢見る心地。
熱気球がこれ程快適とは創造だに出来ませんでした。
 
 
見下ろす下界は鮮やかな桃の花で埋め尽くされて、まさしく桃源郷の境地!!
時おり高度調節のためガスバーナーを点火・燃焼しますが、ゴンドラは全く揺れることも無く快適そのものです。 
乗って楽しめる熱気球を、ぜひ皆様にもお奨めいたします。
 
桃まつり広場”では沢山の露店が並び、声を枯らしての観桃客の呼び込み中。
昼食時間でしたから、山菜キノコ蕎麦と太巻寿司で腹ごしらえです。

古河市の名産品は鮒の甘露煮との話です。 
早速、鮒の甘露煮の売店を探しました。
 
甘露煮では有名店の“野村甘露煮店”が出店していましたので、一箱購入しました。(四尾入り600円)
家の帰着後食しましたが、塩っぱさが無く、甘めで美味しかったです。
これぞ誠の甘露!甘露!!

古河市総合公園“古河・桃まつりを見て・乗って・食べて充分に楽しんだひと時でした。

折角遠い古河市まで来たのですから、名所旧跡を訪ねて市内を回ることにしました。

2007 03 30(金)記。    前橋市 薄 時おり強風    最高気温17℃。

3月30日    マフィアの日    味噌の日   国立競技場落成記念日(東京)


第182回 茨城・古河市 桃まつり。 上巻。

2007-03-27 22:22:22 | 旅行

3月24日(土)     桃の花を観に遥々と遠征しました。

出かけた先は茨城県の古河市。 位置は関東のど真ん中! 
地の利から昔しは、古河は徳川譜代大名が治めた日光・奥州街道の要衝の土地です。

朝の10時に古河市総合公園に到着です。
この古河市総合公園で古河桃まつりが開催中。

公共施設なのに駐車場代500円ちゃっかりと取られました。

総合公園ゲートまでの遊歩道の途中には有名な?碑が・・・。
 
この石碑は古河市総合公園が2003年9月18日に第3回「文化環境の保護と管理に関するメリナ・メルクーリ賞」(主催ユネスコ/ギリシャ)を受賞した記念で建てたそうです。
メリナ・メルクーリって何所かで聞いた名前と思ったら、40年ほど前に「日曜はダメよ」の歌で世界的ヒットしたギリシャ女性歌手でした。
歌手のあとで国会議員と国務大臣になって活躍したそうですね。

古河市総合公園入口周辺は既に桃花が満開!!
なぜか鯉のぼりまでが大空に泳いでいました。
でも、桃の花に鯉のぼりって意外と良く似合いますね。

総合公園ゲートから入ると左手の御所沼の脇で珍しい大道芸の開陳です。
 
最近ではめったにお目に掛らなくなったがまの油売り”!! 

「サア サア~ お立ち会い、ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいでよ見ておいで。 遠目・山越・傘の内~~。サァテ、ガマと云ってもただのガマとガマが違うよ。手前のガマは四六のガマだ、~~」って昔し懐かしい口上です。

「一枚が二枚、二枚が四枚、~~ フッと散らせば、春は三月筑波山落花の吹雪とござい! 」って刀で細かく切った紙を扇子で舞い上げて紙吹雪の演出。

堂に入った大道芸もここまで演じれば一級品、古河市の桃まつりは期待出来そうですね。

がまの油売り”芸を見物してから桃花観賞に桃林へブラブラとお散歩です。
 
この古河市総合公園には約2000本桃の木が植えられているそうです。

古河の桃林の歴史は古く、江戸初期に古河藩(16万石)藩主・土井利勝の命により、江戸市中で捨てられていた桃の種を拾い集めて木材利用と食用と観賞の為、この地に埋めて育てたそうです。(桃栗3年柿8年と桃の生長が早いのも助かりますね。)
ゴミの収集と植林を兼ねたエコロジーの先駆です。 江戸の先人たちはエライ!!
 
ただ、食用のは明治時代に外来種との交配で作られるまでは小さくて不味かったようです。
木材と食用と花なら梅の木の方が良かったのではと、当時から不思議がられていました。
鮮やかなピンクの桃花の中に白いコブシの花も咲いていましたし、薄っすらと黄色く色着いた菜の花も桃花を引き立てていました。
 
 
江戸期・天保年間(1764~1780年)に桃の植え替えを期に、桃の花見名所として知られるようになったそうです。
江戸時代末期に炭素病(炭疽病とは違う)で古河の桃林は全滅しましたが、また明治初期に植えられて見事に復活しました。 
明治時代からは東京から花桃見物の臨時列車が出た程の賑わいでした。

第二次世界大戦では食料増産のため桃林は麦畑や田圃に変えられましたが、昭和48年に総合公園つくりが始まり、49年に花桃の林が作られました。

古河市総合公園の現在の桃林花桃で果実は食用にならないそうです。

眼に鮮やかな花桃の観賞に古河市へ行かれては如何でしょうか。

2007 03 27(火)記。     前橋市      最高気温13℃

3月27日   さくらの日 (3さ×9く=27)