昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(97)女と男(28)

2010-12-11 06:13:10 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>⑪

 毛沢東語録を掲げた<文化大革命>を先導した毛沢東は、とかく教条的な原理主義者と見られがちだが、
 実際は現実を冷静に見つめる現実主義者であった。
 歴史的な今回の米中会談の背景には、毛のアメリカに対する現実的な歴史観があった。
 つまり、アメリカは中国共産党を評価していたルーズベルト大統領を称賛し、彼が共産党の勝利を見届けるまで生きていたなら米中関係もよほど変わっていただろうと見ている。
 それがトルーマン大統領により軌道修正され国民党を支持し、共産党に背を向けるようになる。そして国共内戦の勃発は彼の所為であると言っている。

 興味深いのは、内戦で中国が勝利をおさめられたのは日本のおかげだと毛沢東が言っていることだ。

 1930年代に日本が中国に侵攻しなかったならば、日本の侵略者に対し共産党と国民党が共闘をくむようなことはなかったろうし、また共産党は脆弱すぎてとうてい権力の奪取などかなわなかっただろう。共産党からすれば、日本の侵略は悪事が善事に変換したのであり、むしろ感謝しなければならないとした。

 米中会談は実現したが、毛沢東は国際平和の新しい時代を予測していたわけではない。冷戦構造は存在し、あらゆる世代は戦争を経験しないわけにはいかないだろうと考えていた。
 この年、毛はもうひとつの現実的な外交的勝利をおさめている。

 9月に田中角栄が北京を訪れたのである。・・・
 田中首相はニクソン訪中と同等の外交的な儀礼をもって遇され、この訪中の成果は、日中間に正式の外交関係が樹立されるという共同コミュニケの発表であった。
 
 毛沢東はニクソンよりも田中との会談のほうがずっと心強く、親しみ深かったと思った。田中が日本の中国侵略を謝罪しようとしたとき、毛沢東は日本侵略の<助け>があったからこそ共産党の勝利を可能ならしめ、共産中国と日本の両首脳があいまみえるようになったのだと請け合った。
 彼はまた田中に対し、自分の健康状態があまり良好とはいえないと告白し、そう長くは生きられないだろうと日本の首相に語ったが、しかしこれは毛沢東のゲームだった。  
 彼は相変わらず自分の長寿を信じきっていたが、しばしば機をみては自分の死がそう遠くはないとほのめかして外国の反応をテストした。


 毛沢東と田中角栄には共通点が多かった。両人とも大学は出ていないし、闘争につぐ闘争のはてに最高の地位にのぼったのである。
 毛沢東は、田中が与党である自由民主党内の強い反対を排除して対中外交関係の樹立を推進したのは勇気があり、決断力があるとみた。



 ニクソン大統領と田中首相とのあいだにも共通点があった。両人とも辞任を強いられたのである。
 しかし毛はひきつづきふたりの訪中を歓迎し、いつも両人を<古い友人>とみなしていた。


 我が菅首相よ、リーダーは<決断力>ですぞ!

 ─続く─

三鷹通信(29)童話教室

2010-12-10 05:42:50 | 三鷹通信
 地元の小学校の校長先生、PTA会長さんのご理解を得て、地元在住の作家はやしたかしさんのご指導で童話教室を開催しました。

 この学校は地域のシニアのいろいろな社会生活体験を生かすことで、学童の教育を充実させる課外教育活動に熱心です。
 ぼくも囲碁教室でボランティアとしてアシストしているのに続いて参加させていただきました。

 PTA会長さんは活動的で素敵なお母さんですが、魅力的なイラスト入りのパンフレットを作成してくださりご協力いただきました。

 スマイルクラブ・作家養成教室?!
 対象は4年生と保護者、指導は作家はやしたかしさん。
 <新しいプログラムの登場です!>
 <いっしょに童話をかいてみよう!>
 <童話がかけるの?って思いませんか?? だいじょうぶ!>


 今時の子どもたちは童話なんか書こうという気になるかなぁ、と心配していましたが、なんと4年生だけで21名、保護者の方も10名ほど参加されました。
 パンフレットの威力です。


 授業を終えて生徒達は三々五々集まってきましたが、席は前から埋まっていきます。
 ぼくらの頃は後ろからで、「ほら、前の席に座りなさい」なんて先生に言われたっけ。
 
 はやし先生は先ず「君たちは何になりたい?」っていう質問から始めました。
 4年生だとまだ早いのかな、答えがなかなか出ません。
 それでも「パンやさんに」とか「お医者さんに」などにまじって「お母さんになりたい」というのには現代っ子のちょっと意外な面を見た気がしました。

「ぼくについて質問は?」という問いに「先生はどんな作品を書いたんですか?」という鋭い質問。
「ロビンソンクルーソーの翻訳とか、ドラマのシナリオとかいろいろ書いてますが」と説明し出したが、「銀河鉄道999を小説化して100万部も売れました」と言ったときは、みんなからオーッという声が上がりました。 
 
 まず何になりたいか決めるといいですよ。
 例えば作家になりたいと思ったぼくは、まだなっていないのに<作家・はやしたかし>という名刺を作ってみなに触れ回りました。そうすることで自分を追い込んでいくんです。


 ①ステキな主人公を作り出す
     ②場所と時間を変えていく
     ③自由に思っていることを書く
     ④得意分野を持って育てていくこと
 作家になるといいですよ。<ぐりとぐら>という童話知っているでしょう。
 その魅力的な主人公のおかげで、一生食べていけるほどこの本は売れたんです。
 作家は自分の生み出した主人公に食べさせてもらうことになったんですね。
 <さざえさん>の長谷川町子さんだってそうですよね


 先生は損得をからめて子どもたちの関心を引きつけていく。
 

 そうして、童話の楽しさを、武蔵野で昔話の紙芝居一座を立ち上げたAさんの魅力的な紙芝居で演じていただき、みんなをとりこにする。

 成りたいと思えば願いは叶う。
 一芸に秀でよ!
 という本質的なことから、成績が良くなる方法まで話は飛びました。

 教室では一番前に座って先生の話にうなずくことで先生の関心を引き、仲良くなってしまうこと。
 ノートは日付けを入れて、大きな字で余白を空けて読みやすく、先生の言わんとすることを少し書く。欲張らないことから始める。そして何度も見直すこと。だんだん書きなれてくるから。


 予定の一時間をすでに超過していた。
「授業時間は45分なんですが、みんな集中して聞いていたのには感心しました」
 後でPTA会長のKさんは感想を漏らされた。

 そしてみんなに宿題が出された。
 例えば、桃太郎とか浦島太郎とかかぐや姫とか、みんなの知っている物語を君たちなりに書き直して君の童話を作ってほしい。



 さてこの中で何人が書いてくるだろうか。
 ちょっと心配でもある。

昭和のマロの考察(96)女と男(27)

2010-12-09 04:59:00 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>⑩

 <アメリカ大統領ニクソンの訪中>このニュースは当時日本でも大変なショックだったことを思い出す。
 特に同盟国のアメリカが日本にひと言の断りもなく、敵対する中国に、しかも大統領が行った<頭越しの外交>として「何じゃこれ!」と信じられない衝撃だった。
 ニクソン訪中のきっかけは1971年3月名古屋で開催された世界卓球世界選手権大会にさかのぼる、と言われればなおさらである。

 当時日中両国間には外交関係がなかった。中国内でも選手団を派遣すべきかどうかかなり議論されたようだ。
 リチスイ主治医はその辺の経緯を書いている。

 選手権大会のおわり頃に、何人かのアメリカ選手が中国をおとずれたい、招待してもらえないだろうかと中国側にもちかけた。この申し入れはたちまち周恩来首相の注目するところとなり、周は主席あての報告に、そのような訪問は将来可能になるかもしれないと──外交的な言いまわしで丁重なお断りを──アメリカ選手団に伝えたらどうかという提案をつけくわえた。

 この報告に毛主席はいったん同意している。ところが、
 同日の深夜、毛は食事をすませて私の処方した睡眠薬をのんだあと、婦長の呉旭君を呼んでうとうととしながらも、ろれつのまわらない口ぶりで外務省の儀典長、王海容に電話してほしいと告げた。アメリカ選手団を即刻、中国に招待したいというのであった。

 周恩来は後日、この卓球選手権大会が世界の将来におよぼす影響に言及して、「小さな球が大きな球をゆさぶる」とコメントした。
 そして毛・ニクソン会談実現へとつながったのであった。

 毛沢東はニクソン訪中で上機嫌であった。・・・
 毛沢東はニクソンが気に入った。「あの男はホンネで話をする──もってまわった言い方をしない。ホンネとタテマエを使い分ける左派の連中とはわけがちがうな」
 ニクソンは毛沢東に対しアメリカの国益のために中国との関係を改善したいと言った。
「あの男の言いそうなことだ」と、毛沢東は言った。

「高い道徳的な原則を口にしながら邪悪な陰謀をたくらんでおる手合いよりずっとましだよ。アメリカとの関係を改善するのも、中国の国益にかなっておるのじゃないかね?」  毛沢東はそんな自分の考えに呵々大笑した。
 米中両国を結びつけた相互の利害とは、中国側からすれば<北極熊>の脅威にほかならなかったのである。/strong> 

 現実的な充実した首脳会談とは・・・、実に参考になるではないか。
 我が菅首相よ!


 ─続く─
 

昭和のマロの考察(95)女と男(26)

2010-12-08 05:45:54 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>⑨

 スパイ組織が毛主席の周囲に存在すると主張した江青は、毛主席の<後継者に関する遺言>を、政治局会議でこともあろうに周恩来首相の強要によるものだと強弁したのだ。

 「主席の健康状態は良好です」江青は周恩来首相に面と向かって、「それなのに、なぜあなたは権力の移譲を主席に強要したのですか」

 この江青の発言に会議は混乱したが、葉元帥が周恩来首相に説明を求め、とりあえずその場を収めた。
 しかし、問題は毛主席が治療を求めようとしないことだった。
 歴史的なニクソン大統領の訪中が目前に迫っているのだ。
 なんとしてでも毛沢東の健康状態を改善させなければならないと、リチスイ主治医は思った。

 10日たった。にもかかわらず、主席は治療を求めようとはしない。
 すると2月1日の午後、主席は私をよんだ。
「まだ望みはあると思うかね?」と、毛沢東はきく。「これでも私を助けられるかね、君は」「治療をゆるしていただければ、もちろん、望みはあります」
 私は安堵が体内にみちていくのを感じた。・・・
「わかった」と、毛沢東はついに、「治療をはじめようじゃないか」・・・
 時間がむなしくなっていたし、主席が治療を拒否してきたこともあって、私の心配は単に主席の健康回復ばかりにあったのではない。
 何週間も、まだ中国人民に極秘に付されている重荷で私はおしつぶされそうになっていた。
 中国はまさしく歴史の転機に立っていたのである。

 ニクソン大統領の訪中が目前にせまっていたのだった。2月21日、北京に到着する予定になっていたし、主席はニクソンに会いたがっていたのである。


 医師団はニクソンとの面会に向けて毛の健康回復をはかろうと24時間態勢ではたらいた。肺の感染症は抑止され、心臓の不整脈もおさまった。痰の切れもよくなったが、しかし浮腫だけは完全にとれずむくみが残り、言語障害もあった。

 ニクソンが到着した日、毛沢東はかって見たことがないほど興奮していた。
 朝早くに目を覚まして開口一番、大統領の到着予定時刻を聞く。

 
 ホスト役の周恩来が公式行事をこなしている間も、ひっきりなしに首相に電話し、早くニクソンをつれてくるようにせっつく始末だった。
 かくして、毛・ニクソン会談が実施され、リチスイ医師はあけはなたれたドア一枚へだてて書斎に隣接する廊下で両首脳のやりとりをひとつ残らず聞いた。

 やりとりのなかで、とりわけ印象深い部分があった。
 こんご両国の関係は改善されるだろうが、中国の新聞は相変わらずアメリカ攻撃をつづけるだろうし、アメリカの新聞も中国への批判をつづけてもらいたいものだ、毛沢東がニクソンにそう述べたくだりである。両国民は相互非難になれすぎているため、新しい友好関係になじむまで時間がかかるだろう。


 <女と男>のテーマから離れていくようだが、毛沢東の政治戦略というか、政治感覚に注目して、もう少し触れてみることにする。
 現北朝鮮の金正日首領は、この毛戦略をなぞっているような気がしてならない。

 ─続く─

昭和のマロの考察(94)女と男(25)

2010-12-07 07:03:33 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>⑧

「いいか、これが私の遺言だ」という毛沢東の言葉を聞いた周恩来首相は両足を椅子にひきよせ、両手を膝において、体じゅうをこわばらせていた。

 私は極度の緊張から身体のふるえがとまらず、じっとあぶら汗をかいていた。毛沢東発言の重みをまだ充分に理解しているとはいえなかった。いまにして思えば、このときはじめて、毛沢東はみずからの死に直面したのではないだろうか。
「これでおしまいだ」毛沢東は最後に言った。
「みんなさがってよい」
 汪東興が待つ執務室に入るや、江青は軍帽を床に投げつけた。
「まわりにスパイがいるわ」と吐きすてるように言って、「徹底的に調べあげてやるから」
 そしてさっと周恩来のほうをふりむいた。
「すぐ政治局の会議を招集しなさい、懐仁堂で」
 江青はそう言ったきり憤然と歩み去った。
 江青がだれをスパイだと思っていたのか推測の域を出ないが、そのなかに私も入っていたことはたしかだ。


 政治局会議が始まって2時間後、リチスイ医師は他の二人の医学博士と一緒に呼び出され控え室で待機した。
 会議の途中、江青から話を伺うように言われたと会議から出てきた江青派のよう文元に「諸君は政治的混乱をつくりだそうとしているのではないか」と嫌味を言われる。
 その後、葉剣英元帥と李先念副首相が出てきて毛沢東の健康状態について質問を受ける。
 そのあと、葉剣英元帥は毛主席、リチスイ、周恩来、江青らとのあいだでかわされた、後継者問題について質問、リチスイが説明すると元帥は理解を示した。

 汪東興は前夜の政治局会議の模様を教えてくれた。
 主席の周辺にスパイ組織があると江青は主張し、政治局は調査を実施すべきだと要求した。王洪文、張春橋、よう文元ら江青派がその提案を支持した。
 激論になった。

 
 葉元帥や周恩来が場を静めようとしたが、

 にもかかわらず、江春は会議を混乱におとしいれてしまった。

 ─続く─

昭和のマロの考察(93)女と男(24)

2010-12-06 06:12:00 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>


 毛沢東夫人、江青の罵倒に、毛沢東の主治医、忍従のリチスイ先生もついにキレた。

もはや何がなんだろうと問題ではなくなった。私はすっくと立ち上がる。こうなっては逮捕されるだろう。主席に害をおよぼそうとした廉で死刑を宣告されるのは必死だ。私はあきらめた。ついに最期がおとずれたのだ。
 ドアに向かってゆっくりと歩きながら、周恩来の様子だけが目に入る。
 首相は金縛りにあったかのごとく硬直し、顔からはまったく血の気がうせている。両の手もぶるぶる震えていた。

 私がドアにちかづこうとしたとき、「待て」毛沢東のとどろくような声が聞こえた。
「もし君に対し不利な証言がなされるのなら、おおっぴらに述べられなくちゃいかん」
 そう言って毛は江青のほうをふりむき。「なぜ陰口をきくような真似をするのだ?」と妻をきめつける。
 私は崖っぷちから落下しながら軟着する岩のように感じた。もし自己弁護の機会があたえられるなら、私には勝てる自信があった。周恩来もほっとしているのが見てとれる。


 リチスイ医師は毛が食欲をうしなった理由について説明しだした。

 だが、毛沢東は聞いていなかった。頭をふりふり、手でソファをたたいていた。「江青、君がよこしたあのハスの茎をだれかが持てって煮た。飲んだら吐いてしまった。君の煎じ薬だってちっとも効かないぞ」

 毛沢東が江青に対しずけずけ言うのを聞いてリチスイ医師は思わず笑顔になりそうになった。江青はむっつりと額にハンカチをおしあて、ため息をついた。
 

「君たちがくれた薬はどれも効く気がしないな」と言ってから、私のほうをふりむき、「投薬は全部やめた。私に薬を飲ませたい者がいたら、とっとと出てってくれ」私はぞくっとした。
 毛沢東は病んでいるのだ。薬なしでは死んでしまうだろう。


 毛は周恩来のほうに向きなおった。
「私の健康は最悪だ。助かるとは思わない。いまや何もかも君の双肩にかかっておる・・・」
 周恩来はあわてた。「いや、いや、主席の健康問題は深刻じゃありません」とさえぎって、「私どもはみんな主席の指導力をたよりにしているのです」
 毛は弱々しげに頭をふった。
「だめだ。助かりっこない。とうてい助からないよ。私が死んだあとは、君がすべてをとりしきってくれ」
 毛沢東は消え入りそうな声で言った。
「いいか、これが私の遺言だ」
 江青はぎょっとした。目を大きく見開き、両の手を小さく握り締める。いまにも怒りが爆発しそうであった。


 ─続く─

 

昭和のマロの考察(92)女と男(23)

2010-12-05 05:47:32 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>⑥

 1967年1月になると、中国は大混乱の真っただ中にあった。
 

 武闘が突発していたし、党も政府機関も麻痺状態におちいった。
 工場の生産は急落した。交通機関も停止しつつあった。
 林彪と江青が造反派を率いていたのである。
「何もかもぶっ倒せ」「内戦をおこせ」が彼らのスローガンだった。

 毛沢東は造反派の側にたった。保守的な党委員会を追放したかったのである。
 1月下旬、造反の左派を支援すべく解放軍の協力を求める。
 かかる挙に出たのはわれわれが左派を支援しないかぎり成功しえないからだ、と主席は私に語った。
 軍の仕事は左派の人民大衆、産業、農業を支援し、あらゆる行政官庁の軍隊化をはかり、高校や大学の全学生に軍隊訓練を課すことであった。


 リチスイの<毛沢東の私生活>を読んでいると、今の北朝鮮の金正日が三男、正恩に政権を引き継ぐにあたって、いかに人民を統御すべきか、<先軍政治>の考え方が彷彿としてくる。

 1968年の春、江青は毛沢東の主治医リチスイに激しく敵対した。

 リチスイが、彼女の歯の治療を施し抗生物質を注射した時、体じゅうをかゆがってヒステリーを起こし、毒殺しようとしたとわめきたてた。そして、
「この一件を主席に話さなくては」と問題化した。
 しかし、毛主席は「もしこの医者が反革命分子なら、江青じゃなくてなぜ私に危害をくわえないのか。 前にも江青は医者や看護婦たちが自分を害しようとしていると告発した。睡眠薬の一部がにせものだったからだ。私は言ってやったよ、私の睡眠薬のなかにもにせものがまじっておるとな。にせものとしてまぜてあるのだよ。そのおかげで、本物を飲む量が少なくてすむってわけだ」とリチスイを弁護した。

 林彪の死後、毛の衰弱が顕著になっていった。
 そんな時、江青と周恩来首相が毛沢東を見舞った。

 首相はついで私のほうをふりむく。

「ご病状と、いま考えている治療法をもういっぺん主席に説明しなさい」とうながした。 毛は私に説明させてくれなかった。
「君がくれたあの薬は何だったのかね?」とたずねる。
「おかげで食欲がなくなってしまったぞ。おまけにあんまり注射を打つもんだからケツが痛いし、むずがゆい」
 江青はそのチャンスを見逃さなかった。
「1968年リチスイはわたしを毒殺しようとしていました。この男が主席でなくて、わたしを毒殺しようとしたか、主席は不思議がっておられましたね・・・お前よりおれを毒殺するほうが簡単じゃないか、と主席はいわれたのですよ。おぼえていらっしゃいますか。これでやっとはっきりしました。この男は主席に害をおよぼそうとしているんです。
「ほう、じゃあ君は大手柄をたてたってわけだな」
 毛沢東は私の方を向き直りながら皮肉っぽく言った。
 私は胃の腑をなぐられたように感じた。にわかに口の中がからからになった。  
 恐怖で体じゅうがこわばった。・・・
「この部屋を出て行きなさい」と江青は言いはなつ。
「ここでもうこれ以上、へたな手をつかわせないわ」


 ─続く─

昭和のマロの考察(91)女と男(22)

2010-12-04 05:13:58 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>

 毛沢東も80歳を越えるあたりから健康状態は年ごとに衰えていった。
 
 特に毛主席みずから後継者に指名した林彪が主席に反旗をひるがえし、陰謀を企み、計画が露見したとみるや航空機で妻子ともどもソ連に脱出しようとして外モンゴルのウンドル・ハン近くに墜落し全員が死亡した事件で彼はふさぎこむようになって不眠症となり、そのあげく病人になった。

 1972年2月、ニクソン大統領が歴史的訪中をはたす数週間前から、毛沢東はいぜんとして病状があらたまらず、医師団に反抗したり、あらゆる治療を拒否したりしていた。・・・
 いざニクソンが到着したときも、毛沢東は弱りきっていて、ろくに口がきけなかった。


 1974年に彼は筋萎縮性側索硬化症─ルー・ゲーリッグ病─にかかっていると診断される。治る見込みも、有効な治療法もなかった。

 毛沢東の病状はちょうど専門医が断定したとおりに進行した。ところがいまや、主席の息の根をとめようとしていたのは、筋萎縮性側索硬化症ばかりではなかった。 心臓もそうだった。・・・
 毛は1976年5月中旬、張玉鳳と口論している最中に一回目の心筋梗塞、6月26日二回目、そして9月2日に3回目の心筋梗塞にみまわれた。
 医師団はひとりとして口に出さなかったが、死期はせまっていると知っていた。


 華国鋒、張春橋、王洪文、汪東興らが無言で毛の枕頭にあつまる。
 4人の政治局員を背にして毛沢東の脈をみていると、江青が突如、荒々しく踏み込んできて金切り声をあげた。
「何がどうなってるのかだれか話してくれない?」


 江青は毛沢東の4人目の妻だった。
 1936年延安で結婚したが、延安時代の江青は他の幹部とうまくやっていると私は聞かされていた。

 だが、中華人民共和国が成立した1949年以降は、活動の場がなくなった人生に飽きてしまい、かくて最高指導者の妻も日ましに怒りっぽく、無理難題を口にするようになった。 
 <文化大革命>にたちいたってようやく江青は自分をとりもどし、しまいには党中枢の政治局員に任ぜられると、私怨を晴らせる機会をつかんだのだった。


 ─続く─

昭和のマロの考察(90)女と男(21)

2010-12-03 06:05:11 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>④

 ふたり(毛沢東と張玉鳳)の仲は時として険悪なものになった。毛沢東がほかに多くの女を引きこんでいたからである。
 いまわの際でも、かつて毛とベッドをともにしたふたりの若い踊り子が非公式に臨時の看護婦として勤務し、毛のからだをスポンジでふいたり、食事を口もとにはこんだりしていた。
 しかし毛との関係は張玉鳳が一番長く、その間に品性も粗野になって──酒におぼれていったにもかかわらず──なんとか毛の信頼だけはつなぎとめていた。
 1974年、長きにわたって主席の機密秘書を務めた徐業夫が肺ガンで入院すると、毛沢東が日々、目を通して所見をつけくわえるおびただしい文書類の受領、送達という責務を張玉鳳がひきつぎ、また毛が視力をうしなったあとも彼女が文書類を読んで聞かせた。 同年、張玉鳳は党中央弁公庁主任の汪東興から正式に主席付きの機密秘書に任命されたのだった。


 独裁者の急所をつかんだ彼女は、国を運営する幹部といえども無視できない存在となった。

 主治医として私はいつでも自由に主席と面会を許されたが、私をのぞく人たちは張玉鳳を通さなければならなかった。
 毛夫人の江青はじめ政治局のお歴々でさえ張を介さなければならなかったし、彼女は相手が党の最高首脳だろうと尊大にとりあつかった。
 1976年6月某日、華国鋒首相が毛主席を訪ねたとき、張は昼寝をとっていて、勤務中の服務員は彼女を起こすのをおそれた。張が起きだしてこないので、毛につぐ党内第二位の実力者は二時間後、とうとう主席に面会することなくひきあげていった。


 国を運営するシステムがたかがひとりの女に左右される。そこまで行くか! だれも異常な事態だと思わなかったのか! なんとも人間的<情>の世界ではないか!

 同年の初頭、小平は病にたおれたうえ政治的攻撃にさらされ、家族からひきはなされていた。
 の末娘、ようは父の世話をしたいので許可されたいという嘆願書を主席あてにだしたが、張はそれを主席に見せるかわりに親しくしている毛の甥・毛遠新にわたした。 毛遠新は、その嘆願書を小平の決定的な政敵である江青におくった。
 主席はついにその書簡を目にしなかったし、ようは父の面倒をみることもとうとう許されなかったのだ。

 (リチスイ<毛沢東の私生活>より)

 ─続く─

昭和のマロの考察(89)女と男(20)

2010-12-02 05:21:40 | 昭和のマロの考察
 <独裁者、毛沢東をめぐる女と男>③

 <毛沢東の私生活>に寄せて、コロンビア大学教授、アンドリュー・ネイサンが書いている。

 史上、毛沢東ほど数多くの人々のうえに、それもあれほど長期にわたって権力をふるった指導者はほかにいないし、また自国民にあれだけの破局をもたらした指導者は皆無である。毛沢東のあくなき権力欲と裏切られることへの恐怖は、足もとの<身内>や国家を混乱の坩堝に陥れつづけた。
 毛沢東のビジョンと手練手管は中国を<大躍進>とその戦慄すべき結末である大飢饉や<文化大革命>に突入させ、数千万人の死者を出したのだった。


 現、北朝鮮の首領金正日があたかも同じ道をなぞっているかのようだ。独裁者に依存する政治体制の恐ろしいところである。
 
 教授は続ける。
 皇帝権力というのは、究極の贅でもある簡素に行きつく。
 毛沢東は大半の時間をベッドか、プール・サイドの寝椅子に横たわるかしてすごし、・・・農村出の娘たちとベッドを共にした。・・・
 毛主席の名において男女間の純潔主義が唱導されながら、彼の性生活は宮廷の中心プロジェクトだった。・・・
 このような絶対権力が毛沢東の精神的、肉体的な健康、その人間関係、さらにはこれを通じて自国および世界に影響を及ぼしたのだった。

 結局のところ、中国でもっとも愛された人物には友人がひとりもいなかったのである。
 長い老衰期の間じゅう、世話係たちの主たる強迫観念は、主席の死を自分たちの責任にされないようにすることであった。
 もっともお気に入りの女性、張玉鳳だけが毛と口論することで彼を人間並みに扱う人間らしさがあり、彼を怒らせて死にいたらしめるという非難を恐れなかった。
 

 しかし毛の衰弱が進むにつれて、張玉鳳は女として別の行き方を求めつつも、宮廷内では不可欠の存在となっていった。
 毛沢東のろれつがまわらない言葉を解読できるのは彼女だけだったからである。

 
 ─続く─