マル鉄・鉄道写真館

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113系 内房・外房線:新聞輸送列車 (その2)

2016-02-23 01:50:00 | 荷物列車、荷物車
113系 内房・外房線:新聞輸送列車 (その2)


前記事からの続きになります。

ダイヤ改正前の最後の土曜日となった日。
夕刊輸送なので日曜日がなく、休みで撮影に行けるのはこの日が最後。同じような境遇の人たちが集結しました。
あまりの数の撮影者に一般人も加わり、2番線側はパニック状態。
危険を察してか、荷物ホームの3番線を急遽開放するというサービスが行われました。


※撮影は、平成22年3月6日、両国駅にて。荷物電車、最後の土曜日夕刊。




赤い絨毯が敷かれた第2ホームへ。
私は一番階段から遠いところにいたので他の人たちより出遅れてしまったのですが、発車までまだタップリ時間もありましたので、余裕で見て回ることができました。




間近に見ることができた締切幕。




3番線を開放した時には既に荷物となる夕刊の積み込みは終了しており、残念ながら窓越しからの写真しか撮ることが出来ませんでした。できれば積み込んでいる最中の撮影をしたかったですが、仕事の邪魔になってしまうでしょうから仕方ありませんね。

新聞は床に置いてあるものと座席に置いてあるものがあります。着駅順に整理されているんでしょうね。



荷2331M

先頭となる8号車。編成は206F。
「回送」表示が勿体無いですが、「荷」とか「荷物」は無いでしょうな・・・




他の駅に移動して撮る気力もなかったので、発車まで残ることにしました。テツが殆ど消えてしまったので、最後は209系500番代との並びを撮るほどの余裕が。




備品としては非常にキレイな台車たち。あと1週間で働く場所をなくしてしまう彼らは、一体どんな気持ちで明日の仕事を待っているのでしょうか・・・。




4番線側には搬路が設けられ、トラックはここに着けられるようになっていたんですね。多分、むかし急行列車が発着していた頃は、こんな風になってはいなかったんではないかと思います。




後部は115F。
もうすぐの発車に備えて車掌は待機済み。
最後の1ショットをしつこく・・・




最後にホーム端から去り行くシーンを撮影しようと思ったら・・・発車してしまいました・・・




113系になってからは全く縁がなかった新聞輸送列車。この期に及んで最後の見送りとは、自分的にも図々しいという自覚があり、気持ちは重かったです。
しかし、最後になるであろうこの日に、3番線を開放して見送りをさせていただいたことに気持ちは晴れ晴れとし、より深い思い出として心に残りました。
おそらく危険回避のために特別開放という措置を選択されたこととは思いますが、貴重な時間を与えてくださったJR東日本、両国駅の皆様に、心より感謝申し上げます。

最後にホームに残ったのは10名程度でしょうか。赤い鮮やかな絨毯を出来るだけ踏まないように、帰途につきました。

そして、平成22年3月12日(金)をもって、新聞輸送列車は終焉を迎えました。



113系 内房・外房線:新聞輸送列車

2016-02-21 19:22:00 | 荷物列車、荷物車
113系 内房・外房線:新聞輸送列車


総武本線~内房線・外房線に向け、夕刊紙の輸送が行われていました。
道路事情の悪い内房・外房各線へは、時間的に確実な新聞輸送が列車により行われました。
国鉄時代は都心でも同様な対策が行われていましたが、コストや車両維持の事情などから次々とトラック輸送に転換され、ごく一部に存続しているものの、専用列車による輸送としては房総地区が最後となり、既に鉄道ブームが到来していたこともあって、廃止に当たってはマスコミにも大々的に取り上げられました。


※撮影は、平成22年3月6日、両国駅にて。荷物電車、最後の土曜日夕刊。

荷物列車が入線する3番線ホームは立ち入れないので、2番線側からの撮影となります。
時間が経つに連れ、テツや一般人が続々と押し寄せてきます。




両国駅に到着したのは12時過ぎくらいでしょうか。
折り返し発車となる13:18までは1時間あるので、荷電の姿はまだありません。しかし、夕刊の束は既に到着しており、積み込み準備が始まっています。




トラックがホームに着けられており、次々と新聞を下ろしていました。急行列車が走っていた時代に何回か訪れた始発ホームですが、こんな構造になっているのは知りませんでした。




既に積み込み位置にセッティングされている新聞もありました。











12時50分頃、荷物電車となる回送列車がやってきました。
クモユニ143が撤退して以来、113系4連×2の8両編成と、荷電としては異例の長さです。これも配置車両の効率的運用からなる仕方のないものでした。




積み込みの光景もこんなポジションからしか撮影できません。




ホームでの異様な光景に、一般の乗客の方々も注目してます。




そして113系に群がるテツたち。「黄色い線から出ないでください!」という放送が絶え間なく鳴り響く中、言われているそばから黄色い線を越えるテツたち。耳が悪いのかアタマが悪いのか、性質が悪いのか・・・。まあ、これだけ大勢いると仕方ないですかね。←親ブログから再掲。




溢れるテツたちの間からの記念ショット。




荷物の搬入が終ると、荷物専用の仕切り幕が設置されました。これも一般車を使用する荷物輸送ならではの光景。

最初で最後となってしまいましたが、記念写真は撮れたので、「やっぱり来て良かったな・・・」と思いつつ元の錦糸町寄りに移動。さて、発車をここで見送るか、何処かの駅へ逃げて走行写真を撮るか・・・考えていたわけですが。

ここでまさかのアナウンスが・・・

「本日の夕刊電車ですが、3番線ホームを本日に限り開放いたします。秋葉原寄りの階段を下りて・・・」


そんなことがあって良いのでしょうか!またとないラッキーチャンス。締切られたりしないうちに、急いで3番線へと向かいました。

続く



国鉄 ワキ8000系列:ワサフ8800

2015-11-23 15:08:00 | 荷物列車、荷物車
国鉄 ワキ8000系列:ワサフ8800


ワキ8000系列は、パレット輸送用に製造されたワキ10000系列を基本とする構造で、荷貨物兼用車として製造された車両です。
台車は高速型ではなく、TR203を履いていました。

中間車のワキ8000は、貨車記号を有しながらも、専ら荷物列車に連結されて使用されることが殆どであり、緩急車を設備するワサフ8000も同様となっていました。


昭和50年3月10日、寝台急行「北星」が20系による寝台特急に格上げされると、それまでマニ36等で行っていた仙台地区の新聞輸送をそのまま寝台特急「北星」に引き継ぐことになり、20系に連結させる車両として専用形式とも言えるワサフ8800~8802が製造されました。

これは、20系客車に旧型客車を連結させると20系客車のブレーキ性能を害してしまうためであり、また、それまでのワキ8000系列においても元空気溜管と電磁指令ブレーキ回路のための制御信号線を付加する必要があったことから、専用車を用意する必要があったためとなっています。

外観はそれまでのワサフ8000と大差が無いようですが、性能が大幅に違うことから番台区分をし、外観も20系と同様に青色とした非常に特徴を持つ車両となっていました。



昭和50年夏頃 ワサフ8800を連結した寝台特急「北星」(再掲)

昭和50年3月改正で誕生した20系寝台特急「北星」は、運転開始当初よりワサフ8800を連結して新聞輸送を担いましたが、当時建設真っ只中の東北縦貫自動車道が昭和50年11月に仙台地区まで延伸開業したことによりトラック輸送に切り替えられ、僅か8か月でその使命を終えることになってしまいました。


その後、用途を失ってしまったワサフ8800は、本来の使命である20系寝台客車と併結される機会もなく、他のワキ8000系列と同様に、主に東北地区の荷物列車に使用されていたようです。
EF58の運用が終焉となる頃、地元などでも荷物列車の写真を撮る機会が非常に多かったですが、残念ながらその後のワサフ8800を撮影した記憶も目撃した記憶もありませんでした。



昭和60年3月26日 東大宮~蓮田間にて 回9101レ

荷物列車の運転が終焉を迎える頃の写真。EF5889が牽引する12系転属車の回送列車です。
おそらく、一関~青森方面の旧型客車を淘汰するための代替車を送り込むための回送ではないかと。全てがオハフ13のようです。
そして、機関車次位に連結されているのがワサフ8800です。被写体が遠くて車番までは残念ながら判別できません。
久し振りに会ったワサフ8800に感動してしまいましたが、この移動が何を意味するかは今もって良く分かりません。

特異な経緯で誕生したワサフ8800ですが、本来の活躍はあまりにも短く、その割には非常にインパクトが強い車両でした。




荷物・客車合造車:スハニ64

2012-10-26 00:30:00 | 荷物列車、荷物車
荷物・客車合造車:スハニ64


旧型客車で、客荷合造車と言えばオハニ61が有名ですが、オハニ61を電暖化した際に重量が変わり、結果として新形式が与えられたのがスハニ64です。
暖房方式以外はオハニ61と何ら変わりません。



昭和53年頃 黒磯駅にて スハニ642143

昭和50年代、客荷合造車は亜幹線での使用が殆どであり、需要の多い東北本線では珍しい存在だったと思います。
毎年数回、母親の実家へ行く際に、急行に乗ったり普通列車に乗って行ったりしましたが、黒磯口ではホンの数回しか見たことがありません。
そういう状況の中で、たまたま旧型客車を撮りに行ったときに偶然にも居合わせたので、非常にラッキーだったと思います。

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マニ30:現金輸送車

2012-06-22 00:30:00 | 荷物列車、荷物車
マニ30:現金輸送車


マニ30は、日本銀行所有の現金輸送車で、マニ34として6両が製造されました。
マニ34は昭和23年製の旧型客車で、車体も茶色塗装でしたが、外観は他の荷物車とは一線を画す様相をしていました。後にマニ302001~2006に改番されています。

元マニ34の老朽代替車として誕生したのがマニ302007~2012で、昭和53年~54年にかけて製造されました。



昭和56年 蕨~西川口間にて EF5859牽引のマニ30

この列車がどのような状況の下に運転されたのか、経緯はわかりませんが、高崎第二機関区所属のEF5859号機がマニ30とスニ40を連結した回送列車です。



昭和56年1月頃 上野駅にて EF5888の牽引する回送列車

東北新幹線の東京乗入れ工事が始まる以前、品川客車区から尾久客車区への回送は東京~上野間の回送線(現在の電留線)を使用していました。現在では、山手貨物線経由で東大宮操車場まで行き、折り返して尾久へ持ち込む経路となっています。


マニ30は、その車輌の特殊性から、回送であっても一般旅客車には連結されることがありませんので、このように乗客を乗せていない回送列車や荷物列車へ併結するか、単独での回送となることが殆どでした。

客車列車の場合は全てに言えるのですが、単独で暖房設備を持たない旧型車や50系客車は、原則として電気暖房又は蒸気暖房装置を搭載した機関車が限定で運用されます。
したがって、首都圏ではEF58、EF62、EF64、DD51又はDE10のSG搭載車といった機関車でないと、マニ30のような客車を牽引できないわけです。この点については、原則暖房を要しない夏季期間についても限定されていたことが多かったようです。

晩年は荷物列車が廃止されたため、高速コンテナ列車に併結されたそうですね。ちなみに、私は目撃したことはありませんが、冷房電源を持っていたところからディーゼルエンジンを搭載していると思われ、暖房も単独で使用することができたのかもしれません。

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