竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑歌 色眼鏡 八十 鏡王女から「御歌」を鑑賞する

2014年08月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑歌 色眼鏡 八十 鏡王女から「御歌」を鑑賞する

 今回は歌の標題や左注に「御歌」と紹介されるものの中から歌を鑑賞します。
 さて、『万葉集』ではその標題や左注で「御歌」と紹介される歌はおよそ三八首を見ることが出来ます。おおむね、「御歌」と云う敬語は天皇、皇后、親王相当の皇子、内親王相当の皇女が詠う歌について使われます。
 例として、歌番号とその作品の作者を紹介しますと、次のようなものが代表的なものです。

集歌10 中皇命
集歌21 皇太子(大海人皇子、後の天武天皇)
集歌60 長皇子
集歌77 御名部皇女
集歌107 大津皇子
集歌110 日並皇子(草壁皇子の尊称)
集歌117 舎人皇子
集歌119 弓削皇子
集歌147 太后(天智天皇皇后倭媛)
集歌162 推定で大后(日本書紀での立場は持統天皇)
集歌236 天皇(日本書紀での立場は持統天皇)
集歌267 志貴皇子
集歌390 紀皇女
集歌484 難波天皇
集歌530 天皇(標題注に「寧樂宮即位天皇也」とあり)

 このように『万葉集』に「御歌」の言葉を探しますと、当然ですが「王」の身分の人物や臣民に使う可能性のない言葉であることが予定されます。ところが、『万葉集』に一首だけ皇女ではなく、王女の身分の女性が詠う歌に「御歌」の敬語が使われています。それが集歌92の歌です。歌は天智天皇の詠う歌への返歌となるもので作歌者は鏡王女です。
 この鏡王女は『延喜式』「諸稜寮」に載る記事に従いますと、舒明天皇の押坂内稜の稜域内の東南、押坂墓に葬られていることになっています。ここから、鏡王女は舒明天皇の皇女または皇孫ではないかとする説があるようです。この時、鏡王女が皇女ですと、彼女と天智天皇(中大兄皇子)との間に異母兄妹の関係を想定することが出来ます。さらに、異母兄妹であれば、当時の慣習からすると、中大兄皇子と鏡王女との婚姻関係は許されることになります。
 すこし、穿った話をしますと、鏡王女が鏡女王と同一人物としますと、壬申の乱以降も額田王との相聞歌などからしますと生存していたと推定されます。すると、天武・持統天皇朝を通じて整備されなかったため正式な天智天皇稜はありませんので、もし、天智天皇(中大兄皇子)との間に婚姻関係があったとしても、王女の死に際し王女に相応しい適切な陵墓が無いと云うことになります。そこから親の陵墓域に埋葬された可能性はあると考えます。それが『延喜式』「諸稜寮」の記事の背景ではないでしょうか。
 下記に紹介する集歌91と92の歌の解釈において、集歌92の歌で使われる「念」の意味するところは恋愛感情ではなく、尊敬の感情であると指摘する解説があります。ただ、個人の鑑賞では「御念従者」の選字から想像して皇太子である中大兄皇子の寵愛に従うと解釈するのが自然なものと考えます。つまり、古代の風習から支配者から問い掛けられた時、女性が拒否しなければ求婚(=目合)を受け入れたと考えます。つまり、二人の間に婚姻関係を認める立場です。

近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇 謚曰天智天皇
標訓 近江大津宮に御宇天皇の代(みよ) 
追訓 天命開別天皇 謚(おくりな)して曰はく天智天皇
天皇賜鏡王女御謌一首
標訓 天皇の鏡王女に賜はる御謌一首
集歌91 妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾
訓読 妹し家(へ)も継(つ)ぎて見ましを大和なる大島(おほしま)嶺(みね)に家(へ)もあらましを
私訳 愛しい貴女の家をいつも見ていたいのに、大和の国にある大島の嶺に私の家があれば良いのですが。

鏡王女奉和御謌一首
標訓 鏡王女の奉和(こた)へたる御謌一首
集歌92 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者
訓読 秋山し樹(こ)し下(した)隠(かく)り逝(ゆ)く水の吾(われ)こそ益(ま)さめ御(おほ)念(も)ひよりは
私訳 秋山の木の下の枯葉に隠れ流れ行く水のように、密やかに思う心は、私の方が勝っています。貴方が私を慕いなされるより。

 このように推定しますと、天智天皇(中大兄皇子)との間に婚姻関係や天智天皇(中大兄皇子)との異母兄妹(=親の格が低いが、皇女の立場)の関係から「御歌」と云う敬語が使われたことが説明出来そうです。
 ところが、『万葉集』には次のような鏡王女と内大臣藤原卿との相聞歌が載せられており、一般の解釈では歌の標題から二人には妻問い関係(婚姻関係)があったとします。不思議です。先の即位前の中大兄皇子と鏡王女との相聞歌で中大兄皇子と鏡王女との間には婚姻関係があり、そのために皇孫の身分を持つ「妃」として作品に「御歌」と敬称されると想定しました。ところが、集歌93と94の相聞歌からしますと、鏡王女は親王級の皇族ではなく三世以上の王族の女性ではないかとの推定が生まれます。実に困りました。では、二つの相聞歌での敬称問題を解決する可能性はあるのかと云うと、それは従来から想像されている臣下への下賜です。
 一方、時代として皇族でも皇女の身分を持つ「妃」を臣下に下賜することはあり得るのかという疑問が生じます。それも、身分は皇族から平民への格下げとなる「臣籍降下」の形でなければいけません。そうでなければ、公式には相手の男性は内縁の夫の立場でしかありません。卑猥な言葉ですと、高齢の夫と政略結婚した高貴な身分の女性が持つとされる「セックスハズバント」の立場です。確かに歴史に示す例からしますと、この「セックスハズバント」の可能性は有り得ます。有名な例として光仁天皇の時代、井上皇后と山部王(後の桓武天皇)との関係です。山部王は賭けの景品として光仁天皇が井上皇后に与えた公認の「セックスハズバント」です。では、同様に内大臣藤原卿は天智天皇が鏡王女に与えた公認の「セックスハズバント」だったのでしょうか。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)ば君し名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

内大臣藤原卿報贈鏡王女謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女に報(こた)へ贈れる歌一首
集歌94 玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之目
訓読 玉(たま)匣(くしげ)見(み)む円山(まどやま)の狭名(さな)葛(かづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましめ
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を開けて見るように貴女の体を開いて抱く、その丸い形の山の狭名葛の名のような丸いお尻の間の翳り。そんな貴女と共寝をしないでいることはあり得ないでしょう。

 ここで、集歌93の歌の標にも使われる「娉」の漢字を調べますと『万葉集』では「よばふ」と訓みますし、日本語としてはネット辞書では「ヘイ・ホウ」と音読みし、意味は「めとる、嫁を迎える、召す」とします。また、古語の世界での「召す」と云う言葉の解釈は「高貴な人物が女性を召す=性的関係を持つ」と解釈する約束事から、「娉」の漢字をそのように解釈するようです。当然、「よばふ」から「夜這ふ」の当て字を与えて、さらなる拡大解釈は存在するでしょう。およそ、『万葉集』の鑑賞では集歌93の歌の標題の「娉」の漢字の意味を「召す」と解釈し、そして、その行動から白文訓読みにおいて「よばう」と云う訓を与えたと考えます。ちょうど、古語で「言い寄る・求婚する」という所作を「よばふ」と呼びますから、その意味合いで解釈していることは明らかと考えます。その帰結が、内大臣藤原卿と鏡王女との関係で、「藤原卿の下に鏡王女を召した=鏡王女は藤原卿の要求で参上し、そこで抱かれた」と解釈するのでしょう。それで、一般には鏡王女が天智天皇から藤原卿の許に下賜されたと解釈するのだと想像します。
 ここで、先の「セックスハズバント」の問題に戻ります。
 個人の帰結は、「セックスハズバント」説や下賜説は成立しないと考えます。単に平安時代に藤原系貴族が意図的に誤読したものを検証も無しに、近代の人々がそれを受け入れ、さらにその意図的誤読から想像を膨らませただけと考えます。厳しく言えば、それらは手抜きからの空想が由来です。
 ここで、確認をして頂きたい漢字があります。それが「聘」と云う漢字です。では、この「聘」の漢字の意味や解釈どうでしょうか。調べますと、ネット辞書では「ヘイ」と音読みし、意味は「贈り物を持って人を訪問する・礼を尽くして人を招く」とあります。なぜ、この「聘」を紹介したかと云うと、公式文章の世界では格式を求める文章では「娉」が正式な漢字で、「聘」は格式が落ちる略式の漢字となっているからです。漢字の世界では、その身分や場面からして皇族の鏡王女や公卿の藤原卿に対しては「聘」の文字より「娉」の文字を使うのが正しいと云うことになります。
 それを有名なHP「漢典」から「娉」の漢字の意味を調べますと、次のように解説します。

《說文》「娉」、問也。凡娉女及聘問之禮古皆用此字。娉者專詞也。聘者汎詞也。耳部曰。聘者訪也。言部曰。汎謀曰訪。故知聘爲汎詞也。

 ここで、個人の解釈である格式ある人物に対しては「聘」の文字より「娉」の文字を使うのが正しいと云う仮説について『万葉集』を調べてみますと、次のようなデータを得ることが出来ます。僧侶である久米禅師を特別としますと、それ以外の男性はすべて「卿」の身分を有する人物であることが判ります。およそ、『万葉集』の標題や左注に載せられる漢文は正しく身分による漢字の選定が為されています。なお、「禅師」は宮中内道場での加持祈祷を許された特別格の僧侶ですから、公卿相当格とみなすことは可能ではないでしょうか。この場合、例外は無くなることになります。
 万葉集が好きなお方は、当惑するかもしれません。恋多き女性として紹介される石川郎女や大伴坂上郎女はどうなるのか、大伴安麻呂と巨勢郎女との恋愛はどうなっちゃうのか等々、諸問題が起きて来ます。

集歌93 内大臣藤原卿娉鏡王女
集歌96 久米禅師娉石川郎女
集歌101 大伴宿祢娉巨勢郎女 (大伴安麻呂、贈従二位:正三位大納言兼大将軍)
集歌407 大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢 (贈従三位:正四位上参議)
集歌528 藤原麿大夫娉之郎女 (従三位参議兵部卿)

 『萬葉集釋注(集英社文庫版)』で伊藤博氏は、集歌91と92の歌は国見行事での宴会で詠われた、疑似歌垣のような場での歌ではないかと推定し、同様に集歌93と94の歌もまたそのような男女が参集する宴で詠われた歌ではないかとします。つまり、その宮中行事に伴う宴での歌が宮中に残り、それが『万葉集』に収容されたとするのが自然な解釈ではないでしょうか。残念ながら、正確に標題や左注の漢文を解釈した場合、「娉」の意味するところは「歌垣のような歌会で問答歌を詠った」というもののようです。男女の恋愛や婚姻関係をここに求めることは出来ません。
 帰結として、集歌91と92の歌からは天智天皇と鏡王女の婚姻の可能性はあると考えますが、それ以外の内大臣藤原卿と鏡王女、久米禅師と石川郎女、大伴安麻呂と巨勢郎女、大伴駿河麿と坂上家之二嬢や藤原麿と大伴坂上郎女との間に恋愛関係や婚姻関係を「娉」という漢字を使う標題を持つ歌から導き出すことは出来ません。宴会で歌垣のような歌会で歌を交換したと認めるだけです。

 現代は厳しい時代のようです。インターネットが発達し、瞬時に必要なデータを求めることが出来るようになりました。旧来のような板書を写し取り、高価な図書を借用・購入しなくてはいけない時代とは違います。そのため、一般の素人でもここでのような趣味の遊びが出来るようになりました。もし、機会がありましたら、ここでのものを漢字辞典などで正確に調べられ、そして納得していただけたらと希望します。
 最後に、ここでのものは素人の趣味の遊びです。学問ではありません。学問では「娉」は「よばふ」と訓むべき言葉です。そうでなければ、鎌倉時代から室町時代に作られた『尊卑分脈』などの人名事典は奈良時代以前の部分について大幅な改訂が必要になります。また、『万葉集』での藤原京から前期平城京時代の人物相関関係の解釈が変わります。

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