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紫式部 春画野宮草紙(小柴垣草紙)を考える

2024年01月13日 | 万葉集 雑記
紫式部 春画野宮草紙(小柴垣草紙)を考える

 今回、日本が世界に誇る平安時代後期以前に由来を持つ肉筆春画である野宮草紙(小柴垣草紙)を中心に紫式部を絡めて遊びます。ただ、伝存の多くは江戸時代の模写ですし、それらの大半は個人所蔵で公開はされていませんので、研究者が好事家の世界での伝手を頼って調べるような世界です。
 小柴垣草紙は複数の場面絵にその場面を紹介する絵詞書を付けたものですから、本来は絵を紹介すべきですが著作権の関係で紹介出来ませんので、以下に言葉で内容を紹介します。なお、長文系統の絵詞書は省略します。検索すると一部の絵は見ることが出来ますのでよろしくお願いします。参照:『小柴垣草紙の変遷』(井黒佳穂子)

<短文系統>東京国立博物館収蔵『小柴垣草紙』
絵1  致光を御簾越しに見る斎宮
絵2  浜縁の端で庭に座る致光に陰部を見せて誘惑する斎宮
絵3  浜縁の斎宮の陰部に庭から顔を付ける致光
絵4  浜縁の斎宮の陰部に庭から挿入する
絵5  浜縁で斎宮が致光を抱きしめる
絵6①  致光は斎宮に覆い被さる
絵6②  斎宮が柱を抱いた姿勢で後から致光が交わる
絵6③  口を吸いながら交わる
絵6④  斎宮を膝に乗せて交わる

<絵詞書>:https://henrymito.blog.2nt.com/ 「小柴垣草紙」より引用
夜のふくるほと、こ柴のもとにふしたるところへ、いかなる神のいさめをのかれいて給へるにか、かうらむのはつれより、御あしをさしをろして、にくからす御覧しつる、つらをふませ給たるに、あきれて見あけたれは、うつくしき女房の、御小袖すかたにて、御くしはゆらくとこほれかゝりておはします、御こそてのひきあはせしとけなきに、しろくうつくしき所、又くろくとある所、月のかけに見いたしたる、心まとひいはむかたなし。
御あしにてくりつくままに、押しはだけ奉りて、舌をさしいれてねぶりまはすに、つびはものの心なかりければ、頭もいとはす水はしきのやうなるものをはせかけさせ給ひけり。
紐とくほどの手まよひ、なほとかしなきに、遅しとうなかす。七すむのきりくひはいつしか腹立ち怒りまうけたるに、ねぶりそそのかしたるししむらは御肌よりもわきて出でたるに、差し当てて、かみざまへ荒らかにやりわたすに、御べべの力もまらのかねも、いとど強くなりまさるさまは、言はむかたなし。
太く厳めしき御こしをやすくもて合はせ、跳ね上げさせ給ふに、七すむも八すむにのふる心地して、伸び上がり責め伏せ奉るに、来し方行く末、神代のことも忘れ果て給ふにや、いやしき口に吸ひつきて喚き叫み給ふさまは、理も過ぐるほどなり。
このこと世に漏れ聞こえけるゆゑに、寛和二年六月十九日に伊勢の御くだり留まりて、野宮より帰り給ひにけり。

<長文系統>東京国立博物館蔵『灌頂巻絵詞』
絵2  致光に陰部を見せて誘惑する斎宮
絵5  斎宮が致光を抱きしめる
絵7  再び野宮を訪ねる致光
絵8①  庇を歩いてくる斎宮と再会
絵8②  再び交わる二人
絵9  室内で交わる
絵10①  庭に控える致光
絵10②  二人の情事を覗く女
絵11①  斎宮は致光の手を引いて招き入れる
絵11②  再び室内で交わる二人
絵12①  致光に乗り掛かる斎宮
絵12②  屏風の陰で交わる
絵12③  致光が前傾姿勢で斎宮に被さり交わる
絵13①  斎宮を致光の膝に乗せて交わる
絵13②  斎宮を後ろから交わる
絵14  互いの性器を舐め合う

 このような男女の状況を色彩豊かな肉筆で描いたなかなかの作品で、絵のテーマは伊勢斎宮に卜定された済子女王と滝口武者平致光との潔斎の場である野宮での密通露見事件です。
 時代や事件を説明しますと、令和6年のNHK大河ドラマに関わるあの源氏物語は文献初出が寛弘五年(1008)です。この年を源氏物語の最初に書かれた時期と設定しますと、これより遡ること約20年前となる寛和2年(986年)に源氏物語を書いた紫式部の主人筋となる藤原道長が政権を掌握する一つの背景となった大きな性的スキャンダルがありました。それが花山天皇の御代に伊勢斎宮と卜定された済子女王と滝口武者平致光との密通露見事件です。そして、話題の野宮草紙(小柴垣草紙)はこの事件を絵巻物としたものです。伊勢斎宮に定められた女性は嵯峨野に設けられた仮設された潔斎所である野宮で1年間の潔斎を行い、その後に伊勢に下向する決まりです。ところが、その野宮での潔斎期間中に済子女王がそこを警護する滝口武者の平致光と肉体関係を持っていることを密告され、済子女王は伊勢斎宮を解任されています。伊勢斎宮交代の儀式は天皇御代代わりの重要な儀式ですので、斎宮自らの行いからの性的スキャンダルはその女性の選定のそもそも論に及ぶ重大な政治的な事件です。
 そして同年、花山天皇は妃の死亡を契機に出家し花山法皇となりますが、女性問題を常に持つ人物で花山法皇時代には女性問題から長徳2年(996)に「長徳の変」と言う事件が発生します。この事件の当事者として藤原道長の政敵だった藤原伊周とその子隆家は失脚し、歴史は藤原道長の政権掌握へと進みます。花山天皇(法皇)とその周辺が非常に性に対してオープンと言うか、緩いと言うか、多数の性に関わるスキャンダルなどで藤原道長が押す一条天皇へと皇位は移ります。
 参考情報として、この一条天皇の中宮が道長の娘の彰子です。時系列では、宮中の力関係で最初に花山天皇の後を継いだ一条天皇御代に政権を掌握していたのが藤原伊周の父親である藤原道隆です。この時、道隆は娘の定子を一条天皇の中宮に入れています。あの清少納言はこの中宮定子に仕えた人です。ただ、「長徳の変」により道隆の子の藤原伊周とその伊周の子の隆家は失脚し、中宮定子は道長の娘の彰子入台のために皇后宮定子の敬称を授けられ「前の御代の中宮」のような扱いになりました。
 紫式部の中宮彰子の許への出仕は寛弘2年(1006)頃と推定され、これとは別に永延元年(987)の藤原道長と源倫子との結婚の際に倫子付きの女房として婚姻手伝いに出仕していた可能性も指摘されています。これらの伝承からすると紫式部は藤原道長と藤原伊周とが政争をしていた時代からの藤原道長系の人物です。
 さて、最初に紹介した済子女王の性的スキャンダルは、最初は野宮草紙として、次に名を変えて小柴垣草紙に、さらに内容に仏教色を組み込んで灌頂絵巻として世の中に伝わり、現在に知られています。ただ、この野宮草紙(小柴垣草紙)は肉筆で済子女王と平致光との性行為をリアルに描き、そのそれぞれの異なる体位を示す絵に解説の絵詞書を付けると言う、非常に特殊なものです。この肉筆で性行為をリアルに描いたものと言う性質から、ほぼ、秘蔵されて公開されないものとなっています。
 この小柴垣草紙の研究では6場面9図への絵詞書を持つ短文系統と10場面16図への長文系統の二系統があり、最初に野宮での密通だけを扱う野宮草紙とも称される短文系統があり、それが発展して最終的に仏教要素も取り入れて灌頂絵巻とも称されるものへとなったと考えられています。伝存する10場面の長文系統のものは、絵詞書は後白河院御宸筆、絵は住吉法眼の作品を模写したものとの奥書があります。これに関係する伝承によると承安元年(1171)に高倉天皇に嫁いだ平清盛の娘平徳子に対して、彼女の叔母にあたる後白河天皇の女御だった平滋子が野宮草紙を贈ったとするものがあり、この時に後白河法皇の意向で短文系統のものを踏まえて長文系統の灌頂絵巻のものが制作された可能性が高いと考えられています。現在の小柴垣草紙の研究ではここまでが伝来の歴史の最上流に位置しますが、それでもなお6場面の短文系統の小柴垣草紙が作られた時代については不明です。
 ただし、小柴垣草紙の絵での滝口武者である平致光の扱いが短文系統と長文系統とでは違い、短文系統では高欄(実際は「浜縁」と言う縁側)の下の庭土の上に座り警護しますが、長文系統では浜縁の下の庭に畳莚を敷きそこに座り警護をしている扱いです。ほぼ、短文系統は本来の滝口武者の警備状況を示すものであり、長文系統は鎌倉幕府以降の武士の扱いが上がった時代以降の上級武者を下郎とは出来ない時代の姿からのものです。このような絵からの判断で短文系統が早い時代、長文系統が遅い時代との判断もあります。
 それを含めて、短文系統の絵詞書では浜縁の下の庭土の上に外を向いて座っている平致光の頭を斎王の済子女王が足でつんつんして戯れたとの文章になるのです。滝口武者がどのように警護をするかは北野天神縁起絵巻の巻4の恩賜の御衣を前に泣く菅原道真の場面に浜縁の下に控える武者姿から確認が出来ます。その警護の武者は室内ではなく柴垣側の外を向いて控えて座り警護します。警護の武者が済子女王の足で頭をつんつんされた時、当然、当時の女性は下着を着用しませんから、地上から1.2mほどの高い浜縁に座って足で土間に座る男の頭をつんつんし、それを男が振り向けばそこに女性の陰部が丸見えになっても不思議ではありませんし、すぐに見えなくても怒った男に足を広げられたら丸見えです。それも月影の時間帯の設定ですので庭にかがり火があり、庭側から室内向きに光があります。庭の平致光からは光が済子女王の陰部を照らす方向です。その状況から絵詞書に示すように、その勢いで平致光に股を割られ陰部を舐めまわされる状況になるのです。こうしてみますと、絵詞書は高貴な皇族の斎宮と下級武士との荒唐無稽の有り得ないような性的な事件ではありますが、場面設定などは実際の場面としては矛盾が無い設定になっているのです。創りものの物語ではなく史実として受け取られるような緻密な導入場面の設定です。
 想像してください、夜、スタンドライトで部屋を照らし、その場面設定で下着を履かないスカートの女性がテーブルに座り、その先の床に座って本を読んでいる男の頭を女性が急に足先でつんつんするのです。邪魔をされびっくりして振り返れば、スタンドライトの光で照らされた白い肌の中に黒いものが見えるという話です。
 ここで補足情報として、飛鳥時代から平安時代、女性は初潮を迎えると大人の女性になったとして裳着とか髪上げとかという儀式を行い、その儀式の中で腰結を務める男性が女性に性交渉の方法を実技で教えます。このため、古代から中世にかけて大人の女性に生娘/処女という状態の女性はいません。伊勢斎宮の済子女王もまた成人の女性ですから斎宮の立場でも男女関係の方法は熟知しています。そのような大人の女性と滝口武者として選抜された武芸に秀でた上で美男子である平致光との関係です。小柴垣草紙が創られた時、鑑賞する人たちはこのような事柄を理解して絵を眺めているのです。
 また、伝存する短文系統の小柴垣草紙の人物描写は大和絵であり、それは伴大納言絵詞や信貴山縁起絵巻に近いとし、その信貴山縁起絵巻は平安時代後期の12世紀頃のものと推定されています。そしてこれもまた後白河法皇に関わると考えられていますが、伝存作品は、ほぼ、近世の模写ですので忠実に原作を模写・伝承されているかは不明です。近世好事家の要請で絵は源氏物語絵巻などに寄せて模写した可能性はあります。
 ここで、源氏物語には伊勢斎宮に関わる野宮の場面があります。それが賢木の巻で、六条御息所の娘が伊勢斎宮に任じられ浄い場所である野宮で潔斎をしており、それに史実の斎宮の規子内親王と母親の徽子女王との関係に習って、母親の六条御息所が付き添っている設定です。この場面で光源氏が野宮で伊勢斎宮の娘と共に居る六条御息所を訪れ、娘に同行しての伊勢下向を取りやめることを説得するのですが、なぜか、その浄い場所の潔斎の場である野宮で光源氏と六条御息所とは夜を共にするのです。本来なら天皇御代代わりの重大な儀式である伊勢斎宮交代のための潔斎の仮宮である野宮で性行為を行うことは有り得ないのです。さらに源氏物語ではちょっとひねっていますが、これは伊勢斎宮の済子女王と滝口武者の平致光との関係に似ていて、この時、光源氏の身分は近衛大将で源氏物語では武者をイメージさせています。当時の貴族の人々にとって20年前の性の大スキャンダルはまだまだ生々しい事件です。そのスキャンダルの場所は潔斎の野宮ですし、伊勢斎宮と武者との組み合わせです。当然、紫式部は主人筋の藤原道長が政権掌握する局面での一つの重要な事件を知らないはずはありません。それに主人中宮彰子のライバルである皇后宮定子側が関わる花山天皇関係者の性スキャンダルです。ほぼ、源氏物語はその読み手に済子女王のスキャンダルを思い出せることを狙っていると思います。当然、当事者関係側となる皇后宮定子側に所属する清少納言の枕草子では野宮での事件は触れていません。
 行ったり来たりしていますが、問題は紫式部の時代に野宮草紙(小柴垣草紙)が存在していたとすると、現代なら政敵関係者の娘の奔放な性行為の映像が公開されたような話です。その紫式部は宇治十帖 浮舟の巻で「いと、をかしげな男女、もろともに添ひ臥したるかたを書き給ひて」と、匂宮に匂宮自身と浮舟との性行為の場面を絵として描かせ、それを不倫関係になった浮舟との思い出として浮舟に託します。なぜかこの匂宮と浮舟との関係では互いに和歌を詠って渡すのではないのです。また、当時の社会状況として奈良時代から中医学では滋養強壮の医療として若い相手との性行為を推薦していて、それを受けて貴族階級には中医学が推薦する性交渉の様子や体位を紹介する偃息図と言うものが存在しています。およそ、紫式部の周辺には性行為をビジュアル化して共有する社会があったのです。すると、平安時代末期までには創られていた長文系統の小柴垣草紙の原型となる短文系統の野宮草紙が紫式部の時代に存在する可能性があるのです。
 焦点を絵画に転じますと、藤原道長の時代には和風の大和絵が生まれていて、当時を示す伝存する最古のものが天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂壁扉画ですし、延久元年(1069)の聖徳太子絵伝です。また、源氏物語の絵合の巻では竹取物語、うつぼ物語、伊勢物語などを題材とした物語絵に加え光源氏自身による須磨を題材としたものを登場させます。状況証拠ではありますが、紫式部の時代には性行為を大和絵技法でビジュアル化する文化的な下地は存在していたと考えて良いのです。それを背景に浮舟の巻で匂宮が自身の性行為をビジュアル化することに、偃息図の伝統や大和絵の存在から当時の人々も鎌倉時代に源氏物語を整備した藤原定家も違和感を抱かなかったと思います。
 すると、一つの可能性が見えて来ます。藤原道長が野宮草紙を作成し中宮彰子を経由して一条天皇に見せた可能性ですし、中宮彰子が春画としての本来の使い方をした可能性です。花山天皇系の済子女王と平致光との性スキャンダルは対立する一条天皇には都合がいい話でしたし、その性スキャンダルの実情を具体的に知りたいとの好奇心は十分にあったと思います。非常にアハハ!の妄想ですが、藤原道長にとって全くに損はありませんし、源氏物語の絵合の巻が当時の藤原道長の生活の実態を示すものなら絵師も文章作家も持っています。それに当時の大和絵の最高峰にあるとされる平等院鳳凰堂壁扉画は藤原道長の息子の頼道が作らせたものです。
 ここで、『性で読み解く日本美術 妄想古典教室』の著作で津田塾大学学芸学部国際関係学科教授の木村朗子氏は、小柴垣草紙での短文系統側の野宮草紙の女性の描き方で、特徴的に乳房の表現に違いがあると指摘します。場面展開でいきなり直接的な性行為に直結する下半身陰部の露出から始まっている、これは男が野宮草紙の企画・制作をしたのではなく女が主導権を握っていたのではないかと指摘します。男がポルノ作品の企画・制作をしたのなら乳房が先に来て、そこの愛撫の後に下半身の露出に移るのが自然ではないかの指摘です。小柴垣草紙も時代が下ってくると、最初の場面で乳房を見せて来ます。
 野宮草紙と同様なベクトルで紫式部の源氏物語では、空蝉の巻で光源氏は夏の暑い時期に空蝉と軒端荻とが碁を打っている場面を覗き見し、このとき、「くれなゐの腰ひき結へるきはまで、胸あらはに、ばうぞくなるもてなし」と、単襲の上を腰付近まで寛がせていた軒端荻の乳房をはっきりと見るのですが、光源氏は若い娘の乳房に性的な感情を受けず、「ばうぞく=凡俗」と、だらしないとの感情を持ちます。それよりもきちんとした身なりの空蝉の黒髪が美しいとの対比的な感情を示します。研究者は物語でのこの感情の持たせ方は女性作家特有のもので、男性作家なら若い娘の乳房は乳房として性的な感情を持ち、空蝉とは別の機会で軒端荻を抱く場面を描くのではないかとします。ただ、源氏物語では軒端荻と光源氏とは、光源氏の勘違いで忍び込んだ部屋の軒端荻を空蝉と間違えて関係を持ったと示唆はしますが、部屋と相手への勘違いであって軒端荻の若い乳房を見ての夜這いではありません。ちなみにこの時の光源氏の設定年齢は数えの17歳です。
 面白いもので、小柴垣草紙でも時代が下って場面が増補されて10場面の長文系統の灌頂絵巻になると、済子女王をすぐに全裸姿にして乳房がきちんと描くようになります。また、奈良時代の万葉集では「みどり子の ためこそ乳母(おも)は 求むと言へ 乳飲めや 君が乳母 求むらむ」と、ここに貴方の大好きな乳房があるから赤子のように吸いなさいと露骨に詠う歌もあります。このように奈良時代の貴族の男達は男女関係では乳房にしゃぶりつくのが大好きですし、女達も男はみんな乳房が大好きと承知しています。この状況からすれば、およそ、男がポルノ作品の企画・制作をするなら、若い娘の乳房の露出と愛撫される姿を抜いた作品は作らないと思われるのです。それで、小柴垣草紙を研究する井黒佳穂子氏や木村朗子氏は小柴垣草紙の原型と思われる短文系統の野宮草紙に、女の手による企画・制作の可能性を疑うのです。男の企画じゃないとの判断です。
 じゃ誰か、可能性で学識優秀で古くから藤原道長と知古があり、中宮彰子を主人とする紫式部です。『紫式部と絵』を著述する大阪樟蔭女子大学の竹内美千代氏は、紫式部日記には絵に関する記述が7例あり、それらは現実の状況や出会った人物と紫式部が絵で見て来たものとの比較・比喩の表現であると指摘し、背景に藤原道長の正妻倫子やその子彰子に仕えた紫式部の生活圏には写実性の高い絵が数多くあったと考えます。そこから竹内美千代氏は源氏物語に現れる95例に示す絵の情景描写には当時の貴族社会を反映する写実性があると考えます。およそ、平等院鳳凰堂壁扉画の背景に示されるもので源氏物語に現れる絵を想像しても良いようです。逆に見ますと紫式部は文章力で企画する絵を表現する能力がありますし、同時に写実性の高い絵への知識も豊富なのです。そして、藤原道長はそのような言葉や文章で示すものを絵として表現できる絵師を持ちます。すこしに年代は下って鎌倉時代の『古今著聞集』巻十一に春画技法について絵師が論争する場面があります。「ふるき上手どものかきて候ふおそくづの絵などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きにかきて候ふ事、いかでは実にはさは候ふべき。ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候。」と、性交の様子に対して表現では実物の写実ではなくデフォルメすることを非難されたことへの反論で、性交の実物をデフォルメすることは偃息図(=平安時代の春画の呼称)からの伝統と根拠に取りますので、ここから平安時代に既に春画を創作していた状況が判ります。つまり、平安貴族階級には春画の需要があり、それ専門の絵師もいたのです。
 この背景があるから、あの宇治十帖 浮舟の巻で匂宮の春画を描くシーンが生まれたのでしょう。紫式部の立場、知識、動機、これらを総合しますと、藤原道長と紫式部とが共犯関係なら花山天皇系の政敵を追い落とすために道長の要請で花山天皇系の済子女王の性スキャンダルの暴露本のような春画野宮草紙の企画・制作をし、流布させても不思議ではないのです。そして、そのダメ押しが、当時、宮中貴族で評判になっていた源氏物語の賢木の巻です。
 非常にとぼけた結論に無理矢理に持ち込みました。ただ、2024年はNHKの大河ドラマの影響から卒論で源氏物語や紫式部あたりを取り上げることがブームになるのではないでしょうか。その時に「紫式部と絵」と言う切り口で、野宮草紙(小柴垣草紙)、宇治十帖浮舟の巻、賢木の巻の野宮、これに紫式部日記での絵の写実性を組み合わせると、人とはちょっと違ったものが組み立てとして出来るのではないでしょうか。
 おまけとして、ネット検索では、『小柴垣草紙の変遷』(井黒佳穂子)をどうぞ、書籍では長文系統ですが『浮世絵グラフィック6 艶色説話絵巻(福田和彦)』が中古本ですがアマゾンから¥1円から入手が可能です。
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