墨子 巻十 経下及び経説下(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠
巻十の経上、経下、経説上、経説下は、言葉の定義や概念を規定するものです。また、「経説」はおおむね「経」を解説する者です。そのため、この四篇をそれぞれ上下の区分で括り、それぞれの言葉に対し、A) 原文、B) 読み下し、C) 現代語訳を対にして紹介します。
ちなみに、表題の漢字が意味するように経編は言葉を定義し、経説編はその定義された言葉を解説します。
1
《経下》
A) 止、類以行人。説在同。
B) 止(し)、類を以って人に行う。説は同に在り。(同、共也、又和也。)
C) 「止」の定義とは、同じ類を用いて人に行う。理由は同類にある。
《経説下》
A) 止、彼以此其然也、説是其然也。我以此其不然也、疑是其然也。
B) 止(し)、彼(か)は此(し)の其(そ)の然(しか)るを以ってし、是の其の然るを説くなり。我は此(し)の其の然らずを以ってし、是の其の然るを疑うなり。(疑、又迷也。)
C) 「止」の定義について、そのことが、このことについて、それがそうであることにより、このことについて、そのことがそうであることを説明する。例えば、私が、このことについて、それがそうではないことにより、このことがそうであることを迷うようなもの。
2
《経下》
A) 推類之難。説在之大小。
B) 類(たぐい)を推(くらぶ)の之は難し。説は之の大小に在り。(推、排也、猶列也)
C) 類を並べることは難しい。理由は類の大小にある。
《経説下》
A) 謂四足獣與、牛馬與、物盡異、大小也。此然是必然。則俱。
B) 四足(しそく)は獣(けもの)の與(たぐい)、牛馬(ぎゅうば)の與(たぐい)を謂ひ、物は盡(ことごと)く異なり、大小なり。此(し)は然り是(こ)は必ず然り。則ち俱(とも)にす。(與、又類也。)
C) 四つ足は獣の類、牛馬の類を言い、物はそれぞれに異なり、大小がある。「此の」の、これがそうであれば、「是の」の、これはかならずそうである。それは同じ類である。
3
《経下》
A) 物盡同名、二與門。愛、食與招、白與視。麗與、夫與履。
B) 物は盡(ことごと)く名と同(とも)にし、二(わか)つに與(したが)ひ門(き)く。愛しむ、食ふに與(したが)ひ招(もと)め、白(みなもと)に與(したが)ひ視(あきらか)にす。麗(ぜん)に與(したが)ひて、夫(そ)に與(したが)ひ履(さいわい)す。(同、共也、又聚也。二、分而爲二。與、又許也,従也。門、聞也。招、又求也。白、素也。視、明也。麗、美也、猶善也。履、又祿也、猶福也)
C) 物はことごとく名と共にし、物を区分することによりその名を聞く。「愛しむ」、「食す」の言葉を聞くことにより名を求め、源に遡って名を明らかにする。例えば、「善」の言葉を聞くことにより、その「善」に関連するものごとの名は「福」である。
《経説下》
A) 為麋同名俱門、不俱二、二與門也。包肝肺子愛也。橘、茅、食與抬也。白馬多白、視馬不多視、白與視也。為麗不必麗、不必麗與暴也、為非以人、是不為非。若為夫勇、不為夫。為屨以買衣為屨、夫與屨也。
B) 麋(ことごと)く名を同じくし俱(とも)に門(き)きを為し、俱(とも)に二(わか)たず、二(わか)つは門(き)くに與(したが)ふなり。包(はらむ)、肝(ないぞう)、肺(はいぞう)、子を、愛しむ。橘、茅は、食らふは抬(かか)げて與(よ)するなり。白馬の白きは多しも、馬の視(すがめ)の視(め)は多からず、白は視(すがめ)に與(したが)ふ。麗(れい)と為せども必ずしも麗(うるわし)ならず、必ずしも麗(れい)は暴(はやき)に與(したが)はず。非を為して人を以ってすれども、是は非を為さず。若(も)し夫(ふ)が勇を為せども、夫(じょうぶ)とは為さず。屨(くつ)を為(つく)るに以って衣(ぬの)を買ひ屨(くつ)を為(つく)らば、夫(そ)は屨(くつ)に與(したが)ふなり。(門、聞也、守也。二、分而爲二、以象両。與、又許也、従也。包、妊也。麗、両馬也。暴、疾也。夫、男子通稱、又丈夫也。)
C) 物はことごとくその名を同じとして共にその名を聞き、共にその名を区分せず、区分することはその名を聞くことに従う。妊娠、肝臓、肺臓、子は、愛しむと云うもので区分する。橘と茅は可食を掲げて区分に従う。白馬に白い色は多いが、馬で眇めの目は多くない、そこから数の多い白馬の「白い」の区別は数の少ない馬で「眇めの目」の馬の区分に従う。区分で二頭曳の馬車といっても必ず馬が二匹とはならず、また、必ずしも二頭曳の馬車が速いことではない。区分で、非を行うことを人に行わせても、これは非を自ら行ったことではない。区分で、もし男が武勇を行っても、この男を丈夫の者とはしない。区分で、履を作るのに布を買い、履を縫って作るのなら、その布の購入は履を作ることの区分となる。
4
《経下》
A) 一、偏棄之、謂而固是也、説在因。
B) 一(いち)、之(これ)を偏棄(へんき)し、而して固(もと)より是(ぜ)なりと謂ふ。説は因に在り。(一、又均也。)
C) 「一」(均一)の定義とは、一部を取り除き捨てても、それでも元と同じと言うこと。理由は因子にある。
《経説下》
A) 二與一亡、不與一在、偏去未。有之實也、而後謂之、無之實也、則無謂也。不若敷與美、謂是則是固美也、謂也則是非美。無謂則報也。
B) 二(わか)つは一の亡(あら)ずに與(したが)ひ、一の在りに與(したが)はず、偏去(へんきょ)するは未だなり。之の實有るや、而(しかる)に後に之を謂ひ、之の實は無しなり。則ち謂ふは無しなり。敷(ひろ)く美(ぜん)に與(したが)ふが若(ごと)くにならず、是を謂へば則ち是は固(もと)より美(ぜん)なり、謂(とな)ふは則ち是(ぜ)は美(ぜん)に非ず。謂(せつ)に無くば則ち報(ろん)なり。(二、分而爲二。亡、非也。美、善也、好也。謂、説也。報、論也。)
C) 分割とは均一ではないことであり、均一の中には分割の行為はなく、一部を取り除き捨てる行為自体は、分割か、均一かについては未定である。分割する行為に実体が有るかどうかは、分割する行為の後になって、結果によりこれを分割と言い、分割する行為自体に実体はない。つまり、「言う」という行為には実体はないのと同じである。均一の例としての、「広く善を行う」と云うことが「言う」の行為となるものではなく、この「広く善を行う」と云う「是」の行為のことを云えば、きっと、「是」の行為は本より善ではあるが、「是」を唱えることだけでは、その「是」は、まだ、善の実態化ではない。その唱える行為が「説」でないのなら、それは「論」である。
5
《経下》
A) 不可偏去而二、説在見與俱、一與二、廣與修。
B) 偏去(へんきょ)して而(ま)た二(わか)つ可(べ)からず、説は、見(けん)の俱(つまびらか)にするに與(したが)ひ、一は二に與(したが)ひ、廣(ひろさ)は修(ながさ)に與(したが)ふに在り。(二、分而爲二。俱、具也。修、又長也。)
C) ものごとは一部を取り除き捨て、その後に分割することは出来ない。理由は、ものごとへの理解によりそれを審らかにすると、均一は分割に従い、広さは長さに従うことによる。
《経説下》
A) 見不見離、一二不相盈、廣修堅白。
B) 見ると見ざると離(あきらかに)すれば、一と二とは相(あい)盈(み)たず、廣(ひろさ)と修(ながさ)は堅と白なり。(二、分而爲二。離、明也。修、又長也。堅白、堅白異同説)
C) 理解することと理解できないこととを明らかにすると、均一と分割とは互いに満たさず、広さと長さは堅白異同説での堅と白との関係となる。
6
《経下》
A) 不能而不害。説在害。
B) 能(ぜん)なし而(ま)た害(がい)なし。説は害に在り。(能、善也。害、禍也、神不福也。)
C) 善を為さなければ、また、禍もない。理由は「禍害双声、神不福也。」の言葉にある。
《経説下》
A) 挙不重不與箴、非力之任也、為握者之倍、非智之任也。若耳目。
B) 挙(きょ)は重(じゅう)ならず與(しょう)ならず箴(き)なり、力は任に非ずなり。握者(あくしゃ)は倍と為すも、智は任に非ずなり。耳目の若(ごと)きなり。(挙、稱也。與、舁也、共舉也。箴、又規戒也。握,具也。任、又事也。)
C) 「挙」の定義について、支えることでも、持ち上げることではなく、守り行なうべき規範である。審らかにする行為を倍にしたとしても、智恵は事物のようなものではない。耳や目で聞き見るようなものだ。
7
《経下》
A) 異類不吡、説在量。
B) 異類は吡(くら)べず、説は量に在り。(量、又審也、猶分限也。)
C) 種類が異なると比べられない。理由は種類を審らかにする行為にある。
《経説下》
A) 異、木與夜孰長。智與粟孰多。爵、親、行、賈四者孰貴。麋與霍孰高。麋與霍孰霍。𧈳與瑟孰瑟。
B) 異(い)、木と夜は孰(いずれ)か長き。智と粟(ぞく)と孰(いずれ)か多き。爵(しゃく)、親(しん)、行(こう)、賈(か)の四者は孰(いずれ)か貴し。麋(び)と霍(かく)とは孰(いずれ)か高し。麋(び)と霍(かく)と孰(いずれ)か霍か。𧈳(じん)と瑟(しつ)と孰(いずれ)か瑟か。(霍、又飛聲也、揮霍疾貌。瑟、楽器也、又寂寞也。注意;「𧈳」は説文解字、康熙字典に載らない漢字)
C) 「異」の定義について、木と夜はどちらが長いか。智恵と粟の蓄えとはどちらが多いか。爵(爵位)、親(親密)、行(孝行)、賈(価格)の四つの中でどれが高いか。大鹿の背と霍の鳴き声とではどちらが高いのか。水牛と霍とではどちらが速やかなのか。𧈳と瑟とではどちらが寂寞なのか。これらを比べることはできない。
8
《経下》
A) 偏去莫加少、説在故。
B) 偏去するも少(すくな)きに加(か)するは莫し。説は故(こ)に在り。(加、語相增加也。)
C) 言葉の偏りを取り去っても、語彙が少ない者に新たに語彙が増えることはない。理由は「加」の言葉を説明する「言葉を増すことを『加』と云う」ことにある。
《経説下》
A) 偏、俱一無變。
B) 偏(へん)、俱(とも)に一にすれば變ずる無し。(俱、皆也。)
C) 「偏」の定義について、すべてを一つとして集めれば、そのすべてのものの全体が変わることはない。
9
《経下》
A) 假、必誖、説在不然。
B) 假(か)、必ず誖(たが)ふ、説は然(しか)らざるに在り。(假、又借也。)
C) 「假」の定義とは、必ず本物とは違う。理由は、仮(借り)のものが本物ではないことにある。
《経説下》
A) 假、假必非也而後假。狗、假霍也、猶氏霍也。
B) 假(か)、假は必ず非にして而た後に假(か)る。狗(く)を霍(かく)に假(か)るも、猶、霍(かく)を氏(うじ)とするがごとし。(假、又借也。霍、又鸖也、猶霍氏也)
C) 「假」の定義について、「假」は必ず受け入れないことがらであって、また、後に他から借りたものであること。例えば、狗は人の霍から借りたもので、その霍とは霍氏と理解するようなもの。
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《経下》
A) 物之所以然、與所以知之、與所以使人知之、不必同。説在病。
B) 物の然(しか)る所以(ゆえん)と、之を知るの所以(ゆえん)と、人をして知ら使(し)らしむ所以(ゆえん)と、必ずしも同じからず。説は病に在り。(病、短也。又困也。)
C) 物事がそうである理由と、その物事を知る理由と、人にそれを知らせる理由とは、必ずしも同じではない。理由は、病気に例を取れることにある。
《経説下》
A) 物、或傷之、然也、見之、智也。告之、使智也。
B) 物(もの)、或いは之を傷(きず)つくるは、然(しか)なり。之を見るは、智(し)るなり。之を告ぐるは、智ら使むるなり。
C) 「物」の定義について、あるいはこの物を傷つけることは可能である。物を見ることは知ることである。物の存在を告げることは認知させることである。
11
《経下》
A) 疑、説在逢、循、遇、過。
B) 疑(ぎ)の、逢(ほう)、循(じゅん)、遇(ぐう)、過(か)に説は在り。(疑者、安靜之義、故爲定也。)
C) 「疑」の定義での、逢、循、遇、過の四つ区分に理由がある。
《経説下》
A) 疑、逢為務則士、為牛廬者夏寒逢也。挙之則軽、廢之則重、非有力也。沛従削、非巧也。若石羽、循也。門者之敝也、以飲酒、若以日中、是不可智也、愚也。智與、以已為然也、與愚也。
B) 疑(ぎ)、務を為すに逢へば則ち士、牛廬(ぎゅうろ)を為(つく)る者は夏に寒を逢(むかえ)む。之を挙ぐれば則ち軽く、之を廢(お)けば則ち重く、力の有るに非ざるなり。沛の削(さく)に従ふは、巧に非ざるなり。石羽(せきう)の若(ごと)し、循(ぜん)なり。門(き)く者の之を敝(くつがえ)すに、飲酒を以(もち)ひ、若し日中に以(もち)ひるは、是は智可からず、愚なり。智(ち)に與(したが)ひ、已(すで)に以って然りと為すは、愚に與(したが)ふなり。(逢、迎也。循、善也、猶良也。敝、敗也、覆也。罷也。以、又用也。)
C) 「疑」の定義について、責務を行う者に逢えば、その人を士と思い、牛小屋を作る者は夏に冬の寒さを思い迎える者のことである(逢疑)。人が物を持ち上げるのに軽く見え、下に降ろし置くのに重く見えても、その人に力が有るわけではない。削り屑が木の削り出しに従うのは技巧では無い(循疑)。岩を虎と見間違えた「射石飲羽」の故事のようなことは良きことである(遇疑)。聞く者の疑惑を覆すのに飲食を用い、さらに日中に用いるのは、智恵ではなく、愚行である。なにごとかを知って、すでにそうであることをさらに行うことは、愚行を重ねることである(過疑)。
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《経下》
A) 合、與一、或復否、説在拒。
B) 合、一(はじめ)と與(な)す、或(ある)いは復(ふく)するか否(いな)か、説は拒(きょ)に在り。(一、惟初大始。拒、違也。)
C) 「合」の定義とは、それを原初のものとする、または、これを復元したものとするかどうか。理由はその違いにある。
《経説下》
A) 合(欠文)
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《経下》
A) 歐物、一體也、説在俱一、惟是。
B) 歐物(くぶつ)は一體なり、説は一を俱(つまびらか)にし、是を惟(おもむはか)るに在り。(俱、具也。惟、凡思也。)
C) 「区物」の定義とは、原初の姿である。理由は、原初の姿を審らかにして、これを思い計ることにある。
《経説下》
A) 俱、俱一、若牛馬四足、惟是、當牛馬。數牛數馬則牛馬二、數牛馬則牛馬一。若數指、指五而五一。
B) 俱(ぐ)、一(はじめ)を俱(つまびらか)にするは、牛馬の四足の若く、是を惟(おもむはか)り、牛馬に當(あた)る。牛を數へ馬數ふは則ち牛馬は二、牛馬を數へば則ち牛馬は一。若(も)し指(ゆび)を數ふれば、指は五にして而(しかる)に五は一なり。(一、惟初大始)
C) 「俱」の定義について、原初の姿を審らかにすることとは、牛馬が四足の獣であるとの認識のようなもので、これを思い計り、牛馬に対して為すことである。それぞれに牛を数え、馬を数えれば牛馬は二匹、牛馬と云う言葉を数えれば牛馬の言葉は一つ。もし、指を数えれば、指は五本で、その五本で指のある手を示し一つとなる。
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《経下》
A) 宇、或徙、説在長宇久。
B) 宇(う)、或は徙(うつ)る、説は長と宇の久(きゅう)に在り。(長、又遠也。)
C) 「宇」(空間)の定義とは、あるいは移動することである。理由は距離と空間での時間経過にある。
《経説下》
A) 長宇、徙而有處、宇。宇南北、在且有在莫。宇徙久。
B) 長宇、徙(うつ)りて而して處(しょ)は有り、宇なり。宇は南北にして、在は且(ま)た有り在は莫し。宇の徙(うつ)ること久なり。
C) 「長宇」の定義について、移動して、それでも移動する空間がある、これは「宇(空間)」である。空間は東西南北の方向性を持ち、空間の存在認識は、また有り、また無い。空間にあって移動することとは、時間の経過でもある。
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《経下》
A) 不堅白、説在無久與宇。
B) 堅白(けんぱく)ならず、説は久と宇の無きに在り。(注;堅白異同説)
C) 堅きと白きは同時には成立せず、理由はその説において時間の経過と空間が同時にそこに無いことにある。
《経説下》
A) 無堅得白、必相盈也。
B) 堅にして白を得るは無い、必ず相(あひ)盈(み)たすなり。(盈、滿器也。参照;堅白異同論)
C) 同時に、一つの物に「堅い」の触覚と「白い」の視覚を得ることはない、必ずそのものの触覚と視覚は物質の中に内包されているからである。
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《経下》
A) 堅白、説在因。
B) 堅白、説は因に在り。(注;堅白異同説)
C) 「堅白」の定義とは、(堅白異同説が存在することについて)理由は異同説の論題設定に原因がある。
《経説下》
堅白(欠文)
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《経下》
A) 在、諸其所然未者然。説在於是推之。
B) 在、諸(もろもろ)の其の然(しか)る所と未だ然らざるものを在(あき)らかにす。説は是(ここ)に於いて之を推(しりぞけ)るに在る。(在、又察也。推、排也。)
C) 「在」(観察)の定義とは、色々なものごとの、それがそうであったことがらと、いまだにそうでないことがらとを明らかにする。明らかにする、その理由は、この時点において、いまだにそうでないことがらを取り除くことにある。
《経説下》
A) 在、堯善治、自今在諸古也。自古在之今、則堯不能治也。
B) 在(ざい)、堯の善く治むるは、今自り諸(もろもろ)の古(いにしえ)を在(あき)らかにするなり。古自り今を在らかにすれば、則ち堯は治むる能はざるなり。(在、又察也。)
C) 「在」(観察)の定義について、堯王が良く統治を行ったという故事について、今の時点からいろいろな古代のものごとを明らかにすることである。古代の時点から今の時点を明らかにすると、その場合、堯王は今の世では統治の条件が違うから統治が出来ないことになる。
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《経下》
A) 景、不徙。説在改為。
B) 景(かげ)、徙(うつ)らず。説は改め為すに在り。
C) 「景」(影)の定義とは、時間の流れの中で移動しない。理由は、影は改めて作られるからだ。
《経説下》
A) 景、光至景亡、若在盡可息。
B) 景(かげ)、光至れば景は亡(うしな)ひ、若し在れば盡(ことごと)く息(とどま)る可し。
C) 「景」(影)の定義について、前面より光が当たると景は消える。もし、影があるならば、どこまでも影はその物に留まる。
19
《経下》
A) 景、二、説在重。
B) 景(かげ)、二(わか)つ、説は重なるに在り。(二、分而爲二。)
C) 「景」(影)の定義とは、分割することが出来る。理由は複数の光源では影が重なることにある。
《経説下》
A) 景、二光、夾一光、一光者景也。
B) 景、二光なり、一光を夾(とも)にし、一光は景なり。(夾、又兼也。)
C) 「景」(影)の定義について、ものを照らし出す光は二つの光で構成され、ものを照らし出す一つの光を含む。後の一つの光は影を作る。
注意:真っ暗な中では影は生まれないが、光が有ると光を受けた物体の姿とその物体の影が現れる。この影は光の成分により生まれたと考えている。
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《経下》
A) 景、到。在午有端與景長。説在端。
B) 景(かげ)、到(さかしま)なり。午(さかさま)に在りて端は有り景の長さに與(したが)ふ。説は端に在り。(到、異体字;倒。午、屰也。與、又許也、從也。)
C) 「景」(影)の定義について、姿は倒立している。影の上下は倒立していて、端(影の上下の間の長さ)はあり、影の長さに従う。理由は端の長さの変化にある。
《経説下》
A) 景、光之人煦若射。下者之人也高、高者之人也下。足敝下光、故成景於上。首敝上光、故成景於下。在遠近有端、與於光、故景障内也。
B) 景、光は之(ゆ)きて人を煦(ねつ)すこと射(いと)ふるが若き。下(ひく)きものの人に高く、高きものの人に之(ゆ)くや下(ひく)し。足(そく)より下光を敝(はな)てば、故に景は上に成す。首(こうべ)より上光を敝(はな)てば、故に景は下に成す。遠近は在りて端は有り、光に與(したが)ふ。故に景は内に障(へだて)るなり。(煦、熱也。射,厭也。敝、罷也、又放也。與、又許也、従也。障、隔也。)
C) 「景」(影)の定義について、(実験で使用する)光源は直射して人を熱するその度合いが、時に、人が熱さを嫌うほどの強いものである。光源が低い場合は人の影は高く、光源が高い場合は人の影は低い。足元ほどの下から光を放てば、このため、影は上に出来る。頭上ほどの上から光を放てば、このため、影は下に出来る。影には遠近があり、また、上端下端の端(長さ)があり、光源の位置の条件に従う。この光源の条件のために、影はものの内側に隔てられる。
注意:篭にかがり火を入れ、それで夜間に実験をしている。
21
《経下》
A) 景、迎日、説在慱。
B) 景、日に迎(さから)ふ。説は慱(ひとつ)に在り。(迎、逆也。慱、猶專、又獨也。)
C) 「影」の定義とは、日の光の逆の位置にある。理由は影が一つの光源に対し一つであるから。
《経説下》
A) 景、日之光反燭人、則景在日與人之間。
B) 景、日の光を人に反燭(はんしょく)すれば、則ち景は日と人との間に在り。(反、覆也)
C) 「影」の定義について、日の光を、鏡を使い、人の後ろから反射して照らすと、影は太陽と人との間に出来る。
22
《経下》
A) 景、之小大、説在地正遠近。
B) 景、之に小大あり、説は地正(ちせい)遠近(えんきん)に在り。(地、底也)
C) 「影」の定義とは、小さい、大きい、の変化がある。理由は光源の高低の位置、光源との正対や傾斜の位置、光源の遠近の位置にある。
《経説下》
A) 景、木柂、景短大。木正、景長小。火小於木、則景大於木。非獨小也。遠近。
B) 景、木に柂(ななめ)なれば、景は短く大なり。木に正(せい)なれば、景は長く小なり。火(ほのお)の木より小なれば、則ち景は木より大なり。獨り小に非らざるなり。遠近なり。
C) 「影」の定義について、光が木に対し斜めであれば、影は短く太い。光が木に対して正対していれば、影は長く細い。光源に使う松明の炎の大きさが対象物の木より小さければ、その場合、影は木より大きくなる。単純に影が対象物よりも小さくなるわけではない。影の大きさは光源と対象物との距離の遠近に関係がある。
23
《経下》
A) 臨鑒而立、景到。多而若少、説在寡区。
B) 鑒(かがみ)に臨み而して立てば、景は到(さかしま)なり。多(ながく)して而(しかる)に少(しょう)の若(ごと)し、説は区(わか)ちて寡(しょう)に在り。(到、異体字:倒。多、長也。区、分也。寡、少也、單獨也。)
C) 鏡に臨んで立つと、影(画像)は倒立する。映し出す画像が長い場合は細い。理由は光の量が分割されて少なくなることにある。
《経説下》
A) 臨、正鑒景寡。貌能、白黒、遠近、柂正、異於光。鑒景當俱、就、去亦當俱。俱用北。鑒者之臭於鑒、無所不鑒。景之臭無數而必過。正故同處、其體俱然。鑒分。
B) 臨(りん)、正鑒(せいかん)の景は寡し。貌能(ぼうたい)、白黒(はくこく)、遠近(えんきん)、柂正(いせい)は、光において異なる。鑒(かがみ)の景は當に俱にし、就(つ)く、去るも亦た當に俱にすべし。俱にとは用いて北(そむ)くなり。鑒(かん)するものの鑒における臭(ゆがみ)は、鑒せざる所無し。景の臭(ゆがみ)は無數にして而(しかる)に必ず過(わた)る。正は故に處を同じくし、其の體は俱(みな)なるも然り。鑒は分かつ。(柂、而又如阤。北、乖也、猶背也。臭、敗也、又潰也。過、度也、経也。)
C) 「臨」の定義について、鏡に正対した画像は小さい。画像の像の形態、画像の白黒濃淡、画像の遠近、画像の倒立正立は、光源と対象物との位置関係により異なる。鏡の画像は対象物と共にあり、対象物に付属し、画像が消え去ることも、また、対象物と共にする。共にするとは鏡を用い画像をものの背にすることである。鏡に映すものの鏡に映したその画像のゆがみ自体は、鏡に映し出さなければ生じない。画像のゆがみは無数にあり、必ず生じる。画像の正立は、映すものと画像の位置が同じであり、その画像に映る物体は元の物体の姿とまったく同じであることは、その通りである。画像は分割することが出来る。
注意:この文章は紀元前5世紀ごろのもので、文中の鏡とは表面研磨の銅鏡です。このため、現在の鏡とは違い、鏡面に歪みを持ち、そのために映し出す像も歪みを持ちます。
24
《経下》
A) 鑒位、景一小而易、一大而正。説在中之外内。
B) 鑒(かがみ)の位、景の一(ある)は小にして而して易(ぼやけ)、一(ある)は大にして而して正(あきらか)。説は之の中(ちゅう)の外内に在り。(位、又所也。中、中心也)
C) 鏡(凹面鏡)の位置について、影(画像)が、あるいは小さく、また、ぼやけ、あるいは大きく、また、はっきりすることがある。理由は凹面鏡の焦点の中心から、対象物の位置が外の場合と内の場合とにある。
《経説下》
A) 鑒、中之内、鑒者近中、則所鑒大、景亦大、遠中、則所鑒小、景亦小。而必正。起於中緣正而長其直也。中之外、鑒者近中、則所鑒大、景亦大。遠中、則所鑒小、景亦小、而必易。合於而長其直也。
B) 鑒(かん)、中の内、鑒(かん)するもの中に近ければ、則ち鑒する所は大、景(かげ)も亦た大、中に遠ければ、則ち鑒する所は小、景も亦た小、而して必ず正。中に起り正に緣りて而して其の直を長くす。中の外、鑒する者は中に近ければ、則ち鑒する所は大、景も亦た大。中の遠ければ、則ち鑒する所は小、景も亦た小、而して必ず易(かは)る。合して而(ま)た其の直は長くす。(中、又中央、四方之中也、又心也。正,長也。直、正見也。起、能立也。)
C) 「鑒」(凹面鏡)の定義について、「鑒」(鏡)に映す対象物が凹面鏡の焦点に近ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は大きく、画像もまた大きい。焦点から遠ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は小さく、また、画像は小さい。そして、画像は必ず正立している。凹面鏡の焦点に対象物を置けば正立の画像となり、その正立した像を長くすることは出来る。凹面鏡の焦点の外にあって、「鑒」(鏡)に映す対象物が焦点に近ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は大きく、その画像もまた大きい。焦点よりも遠ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は小さく、その画像も小さく、焦点と対象物の位置で画像は必ず変わる。鏡を組み合わせることで、その正立した像を長くすることは出来る。
25
《経下》
A) 鑑、團、景一天、而必正、説在得。
B) 鑑(かがみ)、團(ひとつ)なり、景は一(いち)にして天(たおれる)、而(しかる)に必ず正(ながい)。説は得(ためす)に在り。(團、又通作專、又獨也。天、顚也。正,長也。得、又賦受)
C) 「鑒」(鏡)の定義とは、画像は単独である、画像は一つであって倒立し、必ず長い。理由は実験の結果にある。
《経説下》
A) 鑒、鑒者近則所鑒大、景亦大。亣遠、所鑒小、景亦小。而必正。景過正故招。
B) 鑒(かん)、鑒(かん)するものの近ければ則ち鑒する所は大、景も亦た大。亣(なが)く遠ければ、鑒する所は小、景も亦た小。而して必ず正。景の正を過ぐれば故に招(はが)るなり。(亣、古同大、又長也。招、音翹、猶危也。)
C) 「鑒」(鏡:凹面鏡)について、(同じ対象物であっても、)「鑒」(鏡)に映す対象物の位置が近ければ鏡に映す対象物は大きく、画像もまた大きい。「鑒」(鏡)に映す対象物の位置が長く遠いと、鏡に映す対象物は小さく、画像もまた小さい。そして画像は必ず正立する。鏡を動かし画像が正立する位置を過ぎると、画像はぼやける。
26
《経下》
A) 負而不撓、説在勝。
B) 負(お)ひて而(しかる)に撓(たわ)まず、説は勝(たえ)るに在り。
C) (梁が)荷重を負ってもたわまない。理由は(梁の材質が荷重に)耐える能力にある。
《経説下》
A) 負、衡木加重焉而不撓、極勝重也。右校交繩、無加焉而撓、極不勝重也。衡加重於其一旁必捶、権重相若也。相衡則本短標長、両加焉重相若、則標必下、標得権也。
B) 負(ふ)、衡木(こうぼく)の重きを加へて而(しかる)に撓まざるは、極(むね)は重きに勝(た)へるなり。右(うえ)を校(つな)ぎ交(こもご)も繩(しば)り、加ふる無くして而(しかる)に撓むは、極(むね)は重きに勝(た)へざるなり。衡(つりあい)の重きを其の一旁に加ふれば必ず捶(た)る、権(けん)するに重きは相(あい)若(し)くなり。衡(つりあい)を相すれば則ち本(もと)は短く標(さき)は長く、両加して重さ相(あい)若(し)ければ、則ち標(さき)は必ず下る、標(さき)の権を得るなり。(衡、橫大木、又平軽重也。極、棟也。右、又上也。校、木囚也。囚、繫也。繩、索也。権、又平也。相、導也。標、木末也。)
C) 「負」の定義について、屋根の構造にあって、横梁木の荷重を加えても棟木が撓まないのは、棟木の材料が荷重に耐えるからである。上梁を繋ぎ、こもごも棟木に縛り、上梁にまだ荷重を加えないのに棟木が撓むのは、その棟木の材料が荷重に耐えないからである。
(天秤棒で)左右で均衡がとれている荷重のときに、その一方に荷重を加えれば必ず(天秤棒は荷重を加えた方に)垂れ、水平を保つには荷重は互いに同じであることが必要である。(天秤棒の)均衡を導くと、(天秤棒にあって)支点から手許が短く、先が長く状態で、両方に荷重を加える時に荷重が同じならば、先側が必ず下がる。荷重を変えれば(天秤棒の)先側の水平を保つことは出来る。
27
《経下》
A) 契與枝板。説在薄。
B) 契と枝は板(はん)す。説は薄に在り。(契、猶同挈、縣持也。枝、又支持也。板、反也。薄、又被也。)
C) ものを吊り下げ保持することと、下から支持し保持することとは反する。理由は力の受け方にある。
《経説下》
A) 挈、有力也、引無力也。不正所挈之止於施也。繩制挈之也、若以錐刺之。挈、長重者下、短軽者上、上者愈得、下下者愈亡。繩直権重相若、則正矣。收、上者愈喪、下者愈得、上者権中盡、則遂。
挈、両輪高、両輪為轉、車梯也。重其前、弦其前、載弦其前、載弧其古(車偏+古)、而縣重於其前。是梯挈且挈則行。凡重、上弗挈、下弗收、旁弗劫、則下直杝、或害之也流。梯者不得流直也。今也廢尺於平地、重不下、無旁也。若夫繩之引古(車偏+古)也、是猶自舟中引横也。
B) 挈(けつ)に力有り、引に力無し。正(せい)する所は施に於いて之を挈せずなり。繩制(じょうせい)の之を挈(けつ)するや、錐を以って之を刺すが若き。挈は、長重なるものは下り、短軽なるものは上り、上るものは愈(いよい)よ得て、下に下るものは愈(いよい)よ亡(にげ)る。繩直(じょうちょく)権重(けんちょう)相(あい)若(し)けば、則ち正なり。收(つるべ)、上るものは愈(いよい)よ喪(はな)れ、下るものは愈(いよい)よ得(と)る、上るものの権は中に盡(とま)り、則ち遂(おわ)る。
挈(けつ)、両輪は高く、両輪は轉(てん)をなし、車梯(しゃてい)なり。其の前に重あり、其の前に弦あり、其の前に弦を載せ、其の軲(こ)に弧を載せる。而して其の前に重しを縣く。是を梯挈(ていけつ)し且つ挈(けつ)すれば則ち行く。凡そ重しは、上に挈せず、下に收せず、旁(ぼう)は劫(ごう)せざれば、則ち下に直杝(ちょくち)し、或いは之を害(のこ)せば流(さが)る。梯(もたれかか)れば流(さげ)ること能はざるなり、直なり。今、尺を平地に廢(はい)すれば、重しは下らず、旁するは無しなり。若し夫の繩の軲を引くや、是は猶ほ舟中自り横を引くがごとしなり。(挈、縣持也。正、又常也。施、張也、延也。権、又平也。收、動也、橫木也。喪、失也。得、獲也。盡、止也。遂、又成也。轉、動也,旋也。前、猶故也。軲、車也、亡、逃也。害、又殘也。流、又放也、又下也。梯、又凭也。旁、猶側也。)
C) 上下鉛直の運動には強い力が必要で、左右水平の運動には強い力は必要ではない。水平方向になにごとかを施す場合には鉛直の力は働かない。
縄で吊り下げられたものに鉛直に力を作用させる場面にあって、(実験準備では)吊り下げる綱を、錐を(背後の板に)刺して、その綱を(錐で)天秤にして支える。(実験では)鉛直に力を作用させるときに、長重なもの(=重いもの)は下がり、短軽なもの(=軽いもの)は上がり、上がるものはどんどん上がり、下に下がるものはいよいよ下がる。縄で吊り下げた荷重が均等であれば、左右に縄で吊り下げたものは均衡となる。
跳ね釣瓶では、物を持ち上がる側はいよいよ地面から離れ、反対の重しの下がる側はいよいよ地面に接する。上がるものの均衡は空中で留まり、左右の均衡は保たれる。
「挈(二連滑車機構)」について、二つの滑車の輪を高い位置に置き、そして二つの滑車を回転可能にし、その二つの滑車を梯子の形に横に並べる。重りと弦(紐)を準備し、滑車に弦(紐)を懸け、この滑車を懸けた弦(紐)を弓の弦のように張る。そして滑車の先に重りを懸ける。この滑車を吊り下げて、弦(紐)を上下させれば滑車は動く。およそ、重りは、(弦を上下しなければ)上に持ちあがらず、下に引き下げられない。横から妨げられなければ、下に真っすぐに落ちるか、あるいは滑車を残せば、重りは下がる。滑車などが斜めになっていれば、下げることは出来ない。鉛直なことが必要である。今、装置を地上に置けば、重りは下がらず、横からの妨げは無い。もし、この装置が付いた綱により、それが付けられた車を引けば、舟の中から綱を横に引くように軽く動く。
注意:ここでは、「挈」を上下運動、またはその装置と理解し、「引」を水平運動、またはその装置と理解しています。
28
《経下》
A) 倚者不可正。説在剃。
B) 倚(い)なる者は正する可(べ)からず、説は剃(てい)に在り。(倚、又偏也。剃、或作剔、解也。)
C) 変形したものを元に戻すにすることは出来ない。理由は解体にある。
《経説下》
A) 倚、倍、拒、堅、䠳、倚焉則不正。
B) 倚(い)、倍(ばい)、拒(きょ)、堅(けん)、䠳(しゃ)、倚(い)すれば則ち正ならず。(倚、又偏也。倍、反也、以反者覆也。拒、違也。堅、土剛也。䠳、本作射、厭也、猶壓也。)
C) 「倚」(建物の変形)の定義について、倍(倒壊)、拒(歪み)、堅(基礎の変形)、䠳(基礎の沈下)の区別があり、変形があれば本来の正しいものではない。
29
《経下》
A) 推之必往、説在廃材。
B) 之を推(うつ)せば必ず往(い)く、説は材を廃するに在り。(推、排也。往、去也、又棄也。)
C) 排除することは必ず廃棄である。理由は材を廃することにある。
《経説下》
A) 誰、并(立偏+并)石、壘石耳、夾寝者法也。方石去地尺。關石於其下、縣絲於其上、使適至方石。不下、柱也。膠絲去石、挈也、絲絕、引也。木變而名易、收也。
B) 誰、石を并(なら)(立偏+并)べ、石を壘(つ)むのみに、寝を夾むものは法なり。方石(ほうせき)の地を去ること尺。石は其の下を關(うが)ち、絲を其の上に縣け、適(まさ)に方石に至ら使めむ。下らざるは、柱(ちゅう)なり。絲を膠(まと)つて石を去るは、挈(けつ)なり。絲の絕ゆるは、引なり。木の變じて而して名は易(かは)るは、收なり。(誰、何也、或作唯。寝、息也又、處也。關、又穿也。去、行也、離也。収、作収,訛。)
C) 「誰」の定義について、石を並べ、石を積むときに、作業で支えを挟むのは方法である。四角の石が地上から一尺の位置にあるとして、その四角の石のその底を穿ち、糸をその石に懸け、そして、その四角の石に作用させる。四角の石が下がらないのは、糸の支えがあるからである。糸を(巻き上げ機に)巻き付けて四角の石に操作を行うのは、荷の上下作業である。糸が切れるのは四角の石が下に引くからである。木を加工して名称が変わるのは訛で、別の呼び名である。
30
《経下》
A) 買無貴、説在仮其賈。
B) 買(ばい)には貴(こう)は無し、説は其の賈(か)を仮(やめ)るに在り。(貴、高也。賈、猶買賣也。仮、覆也。)
C) 売買には高値は無し。理由はその購入を止めることにある。
《経説下》
A) 買、刀、糴相為賈、刀軽則糴不貴、刀重則糴不易。王刀無變、糴有變。歳變糴、則歳變刀。若鬻子。
B) 買(ばい)、刀(とう)、糴(てき)の賈を相為し、刀の軽ければ則ち糴は貴(き)ならず、刀の重ければ則ち糴は易(い)ならず。王刀は變ずること無く、糴に變ずるは有り。歳ごとに糴を變ずれば、則ち歳ごとに刀は變ず。子(こ)を鬻(ひさ)ぐが若し。(刀、又錢名。糴、市穀也。)
C) 「買」の定義について、貨幣と穀物とで交易を行い、その穀物の貨幣価値が軽ければ穀物の値は高くならず、貨幣価値が重ければ穀物の値は安くならない。公定の一刀銭の値は変わることがないが、穀物の価格は変動することはある。年毎に穀物の価格が変動すれば、それに応じて年毎に刀銭の相対価値は変動する。
31
《経下》
A) 賈、宜則讐、説在盡。
B) 賈(か)、宜(よろ)しければ則ち讐(ととの)う。説は盡(つく)すに在り。(賈、猶買賣也。讐、猶齊也。盡、皆也、任也。)
C) 「買」の定義とは、売買は価格が適正であれば整う。理由は売買が成立することにある。
《経説下》
A) 賈、盡也者、盡去其以不讐也。其所以不讐去、則讐。正賈也。宜不宜正欲不欲。若敗邦鬻室嫁子。
B) 賈(か)、盡くすとは、盡く其の讐(ととの)はざるを以って去るなり。其の讐はざる所以(ゆえん)を去れば、則ち讐い、正に賈(か)うなり。宜(ぎ)不宜(ふぎ)は正に欲不欲なり。敗邦(はいほう)の室を鬻(ひさ)ぎ子(こ)を嫁(か)するが若き。(讐、猶齊也)
C) 「買」の定義について、売買が成立するとは、すべての売買が整わない条件を取り去ることである。その売買が整わない理由を取り去れば、売買は整い、ものは購入される。その価格が適切か、不適切かどうかは、まさに、そのものを求めるか、求めないかである。例えば、敗戦国民が家屋を売り、娘を嫁に出すようなものである。
32
《経下》
A) 無説而懼、説在弗心。
B) 説無くして而して懼(おそ)れる。説は心を弗(うしな)ふに在り。(弗、撟也。)
C) 説明が無いと人々は恐れる。理由は心が歪む(気持ちが不安定になる)からである。
《経説下》
A) 無、子在軍、不必其死生、聞戦、亦不必其生、前也不懼、今也懼。
B) 無、子(し)に軍(いくさ)は在り、其の死生を必(かならず)せず。戦(いくさ)を聞くは、亦た其の生を必せず。前には懼(おそ)れず、今や懼(おそ)る。
C) 「無」の定義について、子は戦場にあって、その死生ははっきりしないことと、戦争の話を聞くときに、その話を聞く者の、その戦争による死生ははっきりしないこととの比較にあって、最初の戦場の子の死生は恐れないが、戦争の話を聞く、己自身の死生は恐れる。
33
《経下》
A) 或、過名也、説在實。
B) 或(まよひ)は、名を過(あやま)るなり、説は實(じつ)に在り。(實、誠也、滿也。)
C) 「或」の定義とは、ものごとの名分を間違えていることである。理由は誠にある。
《経説下》
A) 或、知是之非此也、有知是之不在此也。然而謂此南北、過而以已為然。始也謂此南方、故今也謂此南方。
B) 或(まよい)、是の此に非ざるを知り、有た是の此に在らざるを知る。然り而して此の南北を謂ひ、過(あやま)ちて而(しかる)に以って已を然りと為す。始(はじめ)にや此の南方を謂ふ、故に今や此の南方を謂ふ。
C) 「或」の定義について、これがこれではないことを理解し、また、これがここにはないことを理解すること。それはつまり、あるものについて、それの方角の南北を言い、間違えていても、それの方角は南北としたことをその通りだとすること。初めに南方と言い、そのために今もこれは南方だと言うこと。
34
《経下》
A) 知、知之、否之足用也誖。説在無以也。
B) 知(ち)、之を知り、之を否とし用ふるに足るは誖(もと)る。説は以ってすること無きに在り。
C) 「知」の定義とは、あるものごとを理解し、また、あるものごとをそうではないと理解して、それで十分だとするのは間違っている。理由はそのものごとにより生じることへの理解がないことにある。
《経説下》
A) 智、論之、非智無以也。
B) 智(ち)、之を論じ、智に非ざれば以ってすること無きなり。()
C) 「智」の定義について、ものごとについて論じて、それを理解することが無いのであれば、それを用いてなにごとかを行うことは出来ない。
35
《経下》
A) 謂辯無勝、必不當。説在辯。
B) 謂(い)、辯(べん)の勝ち無きは、必ず當(あた)らず。説は辯に在り。(辯、又爭辯也。)
C) 「謂」の定義とは、弁論で勝てないこととは、必ずその論理に正当性が無いからである。理由は「辯」の言葉の意味「又爭辯也。弁を争う」にある。
《経説下》
A) 謂、所謂非同也、則異也。同則或謂之狗、其或謂之犬也。異則或謂之牛、牛或謂之馬也。俱無勝、是不辯也。辯也者、或謂之是、或謂之非、當者勝也。
B) 謂(い)、謂ふ所の同じに非ざれば、則ち異なる。同じきは則ち或ひは之を狗(く)と謂ひ、其の或ひは之を犬(けん)と謂ふ。異なるは則ち或ひは之を牛と謂ひ、牛の或ひは之を馬と謂ふ。俱(とも)に勝(まさ)るは無し、是は辯(べん)ぜずなり。辯なるものは、或いは之を是(ぜ)と謂ひ、或ひは之を非(ひ)と謂ひ、當(まさ)るものは勝(まさ)るなり。(謂、說也、報也。)
C) 「謂」の定義について、説くことがらが同じでないのなら、説くことがらは異なる。例として、「同じ」とは、「あるいは」の言葉にあって、これを「狗」と言い、その「あるいは」のこれを「犬」と言うこと。「異なる」とは、「あるいは」の言葉にあって、これを牛と言い、牛の「あるいは」のこれを馬と言うこと。弁論で比べるもの同士が共に勝ることがないなら、これは弁論ではない。弁論というものは、「あるいはこれを是」と言い、「あるいはこれを非」と言い、論理に正当性があるものが弁論で勝つようなことがらである。
36
《経下》
A) 無不讓也、不可。説在始。
B) 譲(ゆず)らざる無きや、可(べ)からず。説は始に在り。(始、音試。)
C) 譲らないことはいけないのか、それは良くない。理由はなにごとかを試みることにある。
《経説下》
A) 無、讓者酒、未讓始也、不可讓也。
B) 無、讓(ゆず)るは酒(おもむ)くなり、讓(ゆず)ること未(な)きは始(し)なり。讓る可からざるなり。(酒、就也、猶従也。始、音試。)
C) 「無」の定義について、譲ることとは相手に従うことであり、譲ることが無いこととは相手への試みであり、譲るわけにはいかない。
37
《経下》
A) 於一、有知焉、有不知焉、説在存。
B) 一(ある)に於いて、知る有りや、知らず有りや、説は存に在り。(存、察也。)
C) あるものごとにおいて、知ることと知らないことがある。理由は観察することにある。
《経説下》
A) 於石一也、堅白二也、而在石。故有智焉、有不智焉。可。
B) 石は一なり、堅白は二なり、に於いて、而して石に在り。故に智(し)るは有り、智らざるは有り。可なり。
C) 石と云う言葉は一つ、堅白は堅と白と云う言葉が二つ、それぞれにあるが、石は堅白である言葉からすれば、そこに石と云う言葉はある。これにより、石と云うものを知ることはあり、また、石が堅や白と云うことを知らないこともある。それは有り得る。
38
《経下》
A) 有指於二、而不可逃。説在以二累。
B) 二(わか)つに於いて指(のぞ)くが有るは、而して逃(の)がれ可(べ)からず。説は二(わか)つを累(かさ)ねるを以って在り。(指、斥也。二、分而爲二。)
C) ものごとを分割するにあっては、なにごとかを除くことが有るが、それは避けられないことがらである。理由は、ものごとは分割されたものを重ねたものであることによる。
《経説下》
A) 有指、子智是、有智是吾所先挙、重則。子智是、而不智吾所先挙也、是一。謂有智焉、有不智焉也。若智之、則當指之智告我。則我智之、兼指之以二也。衡指之、参直之也。若曰、必獨指吾所挙、毋挙吾所不挙、則者固不能獨指。所欲相不傳、意若未校。且其所智是也、所不智是也、則是智是之不智也。悪得為一謂而有智焉有不智焉。
B) 有指(ゆうし)、子(し)は是を智(し)り、有た是の吾が先に挙げし所を智れば、則ち重(かさ)なる。子は是を智り、而して吾が先に挙げし所を智らざれば、是は一なり。智る有りて、智らざる有りと謂ふなり。若し之を智れば、則ち當(まさ)に之の智を指し我に告ぐべし。則ち我は之を智り、之を兼ね指すに二(わか)つを以ってするなり。之を指すに衡(あら)ず、之は直(ただしき)を参(み)るなり。若し、必ず獨り吾が挙げし所を指すも、吾が挙げざる所を挙ぐる毋(な)しと曰はば、則ち固(もと)より獨り指す能はず。欲する所相(あひ)傳(つた)はらず、意は未だ校(まじ)はらざるが若(ごと)し。且つ其の智る所は是なり、智らざる所は是なり、則ち是れ是を智ると智らざるとなり。悪(いずく)むぞ一と為し而して智る有りや智らざる有りやと謂ふを得むや。(重、又尚也。一、純也。兼、幷也。衡、俗作衡、非。参、承也,覲也。直、正見也。)
C) 「有指」の定義について、あなたがこれを知り、そして、知ったことがらは私が先に指摘したことがらであることを知れば、これは認知の追従である。あなたがこれを知り、私が先に指摘したことがらであることを知らなければ、これは認知の独自である。これを、知ることが有り、また、知らないことが有ると言う。もし、このものごとを知れば、このものごとの認知を示して私に告げなさい。そうすれば、私は知らされたこのものごとを認知し、このものごとを併せて示すのに、私が知ること、知らないことに分けて、このものごとを認知する。このことは、このものごと自体を示すのではなく、このものごとの正しきものを認知するのである。もし、私が認知したことがらだけを提示するが、私が認知しなかったことがらを、提示しなかったと言うのなら、それでは私が自ら認知したことがらをあなたに提示することは出来ない。それは、私が伝えたいと願うことがらが伝わらず、真意が理解されないようなものだからだ。さらに、その認知したことがらはこれである、認知できなかったことがらはこれであると、つまり、このことがらを、これであると認知することと、これとは認知できなかったこととである。どうして、ものごとを単純化して、このものごとを認知した、認知できないと、言うことが出来るのであろうか。
以下、39から82に続く
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠
巻十の経上、経下、経説上、経説下は、言葉の定義や概念を規定するものです。また、「経説」はおおむね「経」を解説する者です。そのため、この四篇をそれぞれ上下の区分で括り、それぞれの言葉に対し、A) 原文、B) 読み下し、C) 現代語訳を対にして紹介します。
ちなみに、表題の漢字が意味するように経編は言葉を定義し、経説編はその定義された言葉を解説します。
1
《経下》
A) 止、類以行人。説在同。
B) 止(し)、類を以って人に行う。説は同に在り。(同、共也、又和也。)
C) 「止」の定義とは、同じ類を用いて人に行う。理由は同類にある。
《経説下》
A) 止、彼以此其然也、説是其然也。我以此其不然也、疑是其然也。
B) 止(し)、彼(か)は此(し)の其(そ)の然(しか)るを以ってし、是の其の然るを説くなり。我は此(し)の其の然らずを以ってし、是の其の然るを疑うなり。(疑、又迷也。)
C) 「止」の定義について、そのことが、このことについて、それがそうであることにより、このことについて、そのことがそうであることを説明する。例えば、私が、このことについて、それがそうではないことにより、このことがそうであることを迷うようなもの。
2
《経下》
A) 推類之難。説在之大小。
B) 類(たぐい)を推(くらぶ)の之は難し。説は之の大小に在り。(推、排也、猶列也)
C) 類を並べることは難しい。理由は類の大小にある。
《経説下》
A) 謂四足獣與、牛馬與、物盡異、大小也。此然是必然。則俱。
B) 四足(しそく)は獣(けもの)の與(たぐい)、牛馬(ぎゅうば)の與(たぐい)を謂ひ、物は盡(ことごと)く異なり、大小なり。此(し)は然り是(こ)は必ず然り。則ち俱(とも)にす。(與、又類也。)
C) 四つ足は獣の類、牛馬の類を言い、物はそれぞれに異なり、大小がある。「此の」の、これがそうであれば、「是の」の、これはかならずそうである。それは同じ類である。
3
《経下》
A) 物盡同名、二與門。愛、食與招、白與視。麗與、夫與履。
B) 物は盡(ことごと)く名と同(とも)にし、二(わか)つに與(したが)ひ門(き)く。愛しむ、食ふに與(したが)ひ招(もと)め、白(みなもと)に與(したが)ひ視(あきらか)にす。麗(ぜん)に與(したが)ひて、夫(そ)に與(したが)ひ履(さいわい)す。(同、共也、又聚也。二、分而爲二。與、又許也,従也。門、聞也。招、又求也。白、素也。視、明也。麗、美也、猶善也。履、又祿也、猶福也)
C) 物はことごとく名と共にし、物を区分することによりその名を聞く。「愛しむ」、「食す」の言葉を聞くことにより名を求め、源に遡って名を明らかにする。例えば、「善」の言葉を聞くことにより、その「善」に関連するものごとの名は「福」である。
《経説下》
A) 為麋同名俱門、不俱二、二與門也。包肝肺子愛也。橘、茅、食與抬也。白馬多白、視馬不多視、白與視也。為麗不必麗、不必麗與暴也、為非以人、是不為非。若為夫勇、不為夫。為屨以買衣為屨、夫與屨也。
B) 麋(ことごと)く名を同じくし俱(とも)に門(き)きを為し、俱(とも)に二(わか)たず、二(わか)つは門(き)くに與(したが)ふなり。包(はらむ)、肝(ないぞう)、肺(はいぞう)、子を、愛しむ。橘、茅は、食らふは抬(かか)げて與(よ)するなり。白馬の白きは多しも、馬の視(すがめ)の視(め)は多からず、白は視(すがめ)に與(したが)ふ。麗(れい)と為せども必ずしも麗(うるわし)ならず、必ずしも麗(れい)は暴(はやき)に與(したが)はず。非を為して人を以ってすれども、是は非を為さず。若(も)し夫(ふ)が勇を為せども、夫(じょうぶ)とは為さず。屨(くつ)を為(つく)るに以って衣(ぬの)を買ひ屨(くつ)を為(つく)らば、夫(そ)は屨(くつ)に與(したが)ふなり。(門、聞也、守也。二、分而爲二、以象両。與、又許也、従也。包、妊也。麗、両馬也。暴、疾也。夫、男子通稱、又丈夫也。)
C) 物はことごとくその名を同じとして共にその名を聞き、共にその名を区分せず、区分することはその名を聞くことに従う。妊娠、肝臓、肺臓、子は、愛しむと云うもので区分する。橘と茅は可食を掲げて区分に従う。白馬に白い色は多いが、馬で眇めの目は多くない、そこから数の多い白馬の「白い」の区別は数の少ない馬で「眇めの目」の馬の区分に従う。区分で二頭曳の馬車といっても必ず馬が二匹とはならず、また、必ずしも二頭曳の馬車が速いことではない。区分で、非を行うことを人に行わせても、これは非を自ら行ったことではない。区分で、もし男が武勇を行っても、この男を丈夫の者とはしない。区分で、履を作るのに布を買い、履を縫って作るのなら、その布の購入は履を作ることの区分となる。
4
《経下》
A) 一、偏棄之、謂而固是也、説在因。
B) 一(いち)、之(これ)を偏棄(へんき)し、而して固(もと)より是(ぜ)なりと謂ふ。説は因に在り。(一、又均也。)
C) 「一」(均一)の定義とは、一部を取り除き捨てても、それでも元と同じと言うこと。理由は因子にある。
《経説下》
A) 二與一亡、不與一在、偏去未。有之實也、而後謂之、無之實也、則無謂也。不若敷與美、謂是則是固美也、謂也則是非美。無謂則報也。
B) 二(わか)つは一の亡(あら)ずに與(したが)ひ、一の在りに與(したが)はず、偏去(へんきょ)するは未だなり。之の實有るや、而(しかる)に後に之を謂ひ、之の實は無しなり。則ち謂ふは無しなり。敷(ひろ)く美(ぜん)に與(したが)ふが若(ごと)くにならず、是を謂へば則ち是は固(もと)より美(ぜん)なり、謂(とな)ふは則ち是(ぜ)は美(ぜん)に非ず。謂(せつ)に無くば則ち報(ろん)なり。(二、分而爲二。亡、非也。美、善也、好也。謂、説也。報、論也。)
C) 分割とは均一ではないことであり、均一の中には分割の行為はなく、一部を取り除き捨てる行為自体は、分割か、均一かについては未定である。分割する行為に実体が有るかどうかは、分割する行為の後になって、結果によりこれを分割と言い、分割する行為自体に実体はない。つまり、「言う」という行為には実体はないのと同じである。均一の例としての、「広く善を行う」と云うことが「言う」の行為となるものではなく、この「広く善を行う」と云う「是」の行為のことを云えば、きっと、「是」の行為は本より善ではあるが、「是」を唱えることだけでは、その「是」は、まだ、善の実態化ではない。その唱える行為が「説」でないのなら、それは「論」である。
5
《経下》
A) 不可偏去而二、説在見與俱、一與二、廣與修。
B) 偏去(へんきょ)して而(ま)た二(わか)つ可(べ)からず、説は、見(けん)の俱(つまびらか)にするに與(したが)ひ、一は二に與(したが)ひ、廣(ひろさ)は修(ながさ)に與(したが)ふに在り。(二、分而爲二。俱、具也。修、又長也。)
C) ものごとは一部を取り除き捨て、その後に分割することは出来ない。理由は、ものごとへの理解によりそれを審らかにすると、均一は分割に従い、広さは長さに従うことによる。
《経説下》
A) 見不見離、一二不相盈、廣修堅白。
B) 見ると見ざると離(あきらかに)すれば、一と二とは相(あい)盈(み)たず、廣(ひろさ)と修(ながさ)は堅と白なり。(二、分而爲二。離、明也。修、又長也。堅白、堅白異同説)
C) 理解することと理解できないこととを明らかにすると、均一と分割とは互いに満たさず、広さと長さは堅白異同説での堅と白との関係となる。
6
《経下》
A) 不能而不害。説在害。
B) 能(ぜん)なし而(ま)た害(がい)なし。説は害に在り。(能、善也。害、禍也、神不福也。)
C) 善を為さなければ、また、禍もない。理由は「禍害双声、神不福也。」の言葉にある。
《経説下》
A) 挙不重不與箴、非力之任也、為握者之倍、非智之任也。若耳目。
B) 挙(きょ)は重(じゅう)ならず與(しょう)ならず箴(き)なり、力は任に非ずなり。握者(あくしゃ)は倍と為すも、智は任に非ずなり。耳目の若(ごと)きなり。(挙、稱也。與、舁也、共舉也。箴、又規戒也。握,具也。任、又事也。)
C) 「挙」の定義について、支えることでも、持ち上げることではなく、守り行なうべき規範である。審らかにする行為を倍にしたとしても、智恵は事物のようなものではない。耳や目で聞き見るようなものだ。
7
《経下》
A) 異類不吡、説在量。
B) 異類は吡(くら)べず、説は量に在り。(量、又審也、猶分限也。)
C) 種類が異なると比べられない。理由は種類を審らかにする行為にある。
《経説下》
A) 異、木與夜孰長。智與粟孰多。爵、親、行、賈四者孰貴。麋與霍孰高。麋與霍孰霍。𧈳與瑟孰瑟。
B) 異(い)、木と夜は孰(いずれ)か長き。智と粟(ぞく)と孰(いずれ)か多き。爵(しゃく)、親(しん)、行(こう)、賈(か)の四者は孰(いずれ)か貴し。麋(び)と霍(かく)とは孰(いずれ)か高し。麋(び)と霍(かく)と孰(いずれ)か霍か。𧈳(じん)と瑟(しつ)と孰(いずれ)か瑟か。(霍、又飛聲也、揮霍疾貌。瑟、楽器也、又寂寞也。注意;「𧈳」は説文解字、康熙字典に載らない漢字)
C) 「異」の定義について、木と夜はどちらが長いか。智恵と粟の蓄えとはどちらが多いか。爵(爵位)、親(親密)、行(孝行)、賈(価格)の四つの中でどれが高いか。大鹿の背と霍の鳴き声とではどちらが高いのか。水牛と霍とではどちらが速やかなのか。𧈳と瑟とではどちらが寂寞なのか。これらを比べることはできない。
8
《経下》
A) 偏去莫加少、説在故。
B) 偏去するも少(すくな)きに加(か)するは莫し。説は故(こ)に在り。(加、語相增加也。)
C) 言葉の偏りを取り去っても、語彙が少ない者に新たに語彙が増えることはない。理由は「加」の言葉を説明する「言葉を増すことを『加』と云う」ことにある。
《経説下》
A) 偏、俱一無變。
B) 偏(へん)、俱(とも)に一にすれば變ずる無し。(俱、皆也。)
C) 「偏」の定義について、すべてを一つとして集めれば、そのすべてのものの全体が変わることはない。
9
《経下》
A) 假、必誖、説在不然。
B) 假(か)、必ず誖(たが)ふ、説は然(しか)らざるに在り。(假、又借也。)
C) 「假」の定義とは、必ず本物とは違う。理由は、仮(借り)のものが本物ではないことにある。
《経説下》
A) 假、假必非也而後假。狗、假霍也、猶氏霍也。
B) 假(か)、假は必ず非にして而た後に假(か)る。狗(く)を霍(かく)に假(か)るも、猶、霍(かく)を氏(うじ)とするがごとし。(假、又借也。霍、又鸖也、猶霍氏也)
C) 「假」の定義について、「假」は必ず受け入れないことがらであって、また、後に他から借りたものであること。例えば、狗は人の霍から借りたもので、その霍とは霍氏と理解するようなもの。
10
《経下》
A) 物之所以然、與所以知之、與所以使人知之、不必同。説在病。
B) 物の然(しか)る所以(ゆえん)と、之を知るの所以(ゆえん)と、人をして知ら使(し)らしむ所以(ゆえん)と、必ずしも同じからず。説は病に在り。(病、短也。又困也。)
C) 物事がそうである理由と、その物事を知る理由と、人にそれを知らせる理由とは、必ずしも同じではない。理由は、病気に例を取れることにある。
《経説下》
A) 物、或傷之、然也、見之、智也。告之、使智也。
B) 物(もの)、或いは之を傷(きず)つくるは、然(しか)なり。之を見るは、智(し)るなり。之を告ぐるは、智ら使むるなり。
C) 「物」の定義について、あるいはこの物を傷つけることは可能である。物を見ることは知ることである。物の存在を告げることは認知させることである。
11
《経下》
A) 疑、説在逢、循、遇、過。
B) 疑(ぎ)の、逢(ほう)、循(じゅん)、遇(ぐう)、過(か)に説は在り。(疑者、安靜之義、故爲定也。)
C) 「疑」の定義での、逢、循、遇、過の四つ区分に理由がある。
《経説下》
A) 疑、逢為務則士、為牛廬者夏寒逢也。挙之則軽、廢之則重、非有力也。沛従削、非巧也。若石羽、循也。門者之敝也、以飲酒、若以日中、是不可智也、愚也。智與、以已為然也、與愚也。
B) 疑(ぎ)、務を為すに逢へば則ち士、牛廬(ぎゅうろ)を為(つく)る者は夏に寒を逢(むかえ)む。之を挙ぐれば則ち軽く、之を廢(お)けば則ち重く、力の有るに非ざるなり。沛の削(さく)に従ふは、巧に非ざるなり。石羽(せきう)の若(ごと)し、循(ぜん)なり。門(き)く者の之を敝(くつがえ)すに、飲酒を以(もち)ひ、若し日中に以(もち)ひるは、是は智可からず、愚なり。智(ち)に與(したが)ひ、已(すで)に以って然りと為すは、愚に與(したが)ふなり。(逢、迎也。循、善也、猶良也。敝、敗也、覆也。罷也。以、又用也。)
C) 「疑」の定義について、責務を行う者に逢えば、その人を士と思い、牛小屋を作る者は夏に冬の寒さを思い迎える者のことである(逢疑)。人が物を持ち上げるのに軽く見え、下に降ろし置くのに重く見えても、その人に力が有るわけではない。削り屑が木の削り出しに従うのは技巧では無い(循疑)。岩を虎と見間違えた「射石飲羽」の故事のようなことは良きことである(遇疑)。聞く者の疑惑を覆すのに飲食を用い、さらに日中に用いるのは、智恵ではなく、愚行である。なにごとかを知って、すでにそうであることをさらに行うことは、愚行を重ねることである(過疑)。
12
《経下》
A) 合、與一、或復否、説在拒。
B) 合、一(はじめ)と與(な)す、或(ある)いは復(ふく)するか否(いな)か、説は拒(きょ)に在り。(一、惟初大始。拒、違也。)
C) 「合」の定義とは、それを原初のものとする、または、これを復元したものとするかどうか。理由はその違いにある。
《経説下》
A) 合(欠文)
13
《経下》
A) 歐物、一體也、説在俱一、惟是。
B) 歐物(くぶつ)は一體なり、説は一を俱(つまびらか)にし、是を惟(おもむはか)るに在り。(俱、具也。惟、凡思也。)
C) 「区物」の定義とは、原初の姿である。理由は、原初の姿を審らかにして、これを思い計ることにある。
《経説下》
A) 俱、俱一、若牛馬四足、惟是、當牛馬。數牛數馬則牛馬二、數牛馬則牛馬一。若數指、指五而五一。
B) 俱(ぐ)、一(はじめ)を俱(つまびらか)にするは、牛馬の四足の若く、是を惟(おもむはか)り、牛馬に當(あた)る。牛を數へ馬數ふは則ち牛馬は二、牛馬を數へば則ち牛馬は一。若(も)し指(ゆび)を數ふれば、指は五にして而(しかる)に五は一なり。(一、惟初大始)
C) 「俱」の定義について、原初の姿を審らかにすることとは、牛馬が四足の獣であるとの認識のようなもので、これを思い計り、牛馬に対して為すことである。それぞれに牛を数え、馬を数えれば牛馬は二匹、牛馬と云う言葉を数えれば牛馬の言葉は一つ。もし、指を数えれば、指は五本で、その五本で指のある手を示し一つとなる。
14
《経下》
A) 宇、或徙、説在長宇久。
B) 宇(う)、或は徙(うつ)る、説は長と宇の久(きゅう)に在り。(長、又遠也。)
C) 「宇」(空間)の定義とは、あるいは移動することである。理由は距離と空間での時間経過にある。
《経説下》
A) 長宇、徙而有處、宇。宇南北、在且有在莫。宇徙久。
B) 長宇、徙(うつ)りて而して處(しょ)は有り、宇なり。宇は南北にして、在は且(ま)た有り在は莫し。宇の徙(うつ)ること久なり。
C) 「長宇」の定義について、移動して、それでも移動する空間がある、これは「宇(空間)」である。空間は東西南北の方向性を持ち、空間の存在認識は、また有り、また無い。空間にあって移動することとは、時間の経過でもある。
15
《経下》
A) 不堅白、説在無久與宇。
B) 堅白(けんぱく)ならず、説は久と宇の無きに在り。(注;堅白異同説)
C) 堅きと白きは同時には成立せず、理由はその説において時間の経過と空間が同時にそこに無いことにある。
《経説下》
A) 無堅得白、必相盈也。
B) 堅にして白を得るは無い、必ず相(あひ)盈(み)たすなり。(盈、滿器也。参照;堅白異同論)
C) 同時に、一つの物に「堅い」の触覚と「白い」の視覚を得ることはない、必ずそのものの触覚と視覚は物質の中に内包されているからである。
16
《経下》
A) 堅白、説在因。
B) 堅白、説は因に在り。(注;堅白異同説)
C) 「堅白」の定義とは、(堅白異同説が存在することについて)理由は異同説の論題設定に原因がある。
《経説下》
堅白(欠文)
17
《経下》
A) 在、諸其所然未者然。説在於是推之。
B) 在、諸(もろもろ)の其の然(しか)る所と未だ然らざるものを在(あき)らかにす。説は是(ここ)に於いて之を推(しりぞけ)るに在る。(在、又察也。推、排也。)
C) 「在」(観察)の定義とは、色々なものごとの、それがそうであったことがらと、いまだにそうでないことがらとを明らかにする。明らかにする、その理由は、この時点において、いまだにそうでないことがらを取り除くことにある。
《経説下》
A) 在、堯善治、自今在諸古也。自古在之今、則堯不能治也。
B) 在(ざい)、堯の善く治むるは、今自り諸(もろもろ)の古(いにしえ)を在(あき)らかにするなり。古自り今を在らかにすれば、則ち堯は治むる能はざるなり。(在、又察也。)
C) 「在」(観察)の定義について、堯王が良く統治を行ったという故事について、今の時点からいろいろな古代のものごとを明らかにすることである。古代の時点から今の時点を明らかにすると、その場合、堯王は今の世では統治の条件が違うから統治が出来ないことになる。
18
《経下》
A) 景、不徙。説在改為。
B) 景(かげ)、徙(うつ)らず。説は改め為すに在り。
C) 「景」(影)の定義とは、時間の流れの中で移動しない。理由は、影は改めて作られるからだ。
《経説下》
A) 景、光至景亡、若在盡可息。
B) 景(かげ)、光至れば景は亡(うしな)ひ、若し在れば盡(ことごと)く息(とどま)る可し。
C) 「景」(影)の定義について、前面より光が当たると景は消える。もし、影があるならば、どこまでも影はその物に留まる。
19
《経下》
A) 景、二、説在重。
B) 景(かげ)、二(わか)つ、説は重なるに在り。(二、分而爲二。)
C) 「景」(影)の定義とは、分割することが出来る。理由は複数の光源では影が重なることにある。
《経説下》
A) 景、二光、夾一光、一光者景也。
B) 景、二光なり、一光を夾(とも)にし、一光は景なり。(夾、又兼也。)
C) 「景」(影)の定義について、ものを照らし出す光は二つの光で構成され、ものを照らし出す一つの光を含む。後の一つの光は影を作る。
注意:真っ暗な中では影は生まれないが、光が有ると光を受けた物体の姿とその物体の影が現れる。この影は光の成分により生まれたと考えている。
20
《経下》
A) 景、到。在午有端與景長。説在端。
B) 景(かげ)、到(さかしま)なり。午(さかさま)に在りて端は有り景の長さに與(したが)ふ。説は端に在り。(到、異体字;倒。午、屰也。與、又許也、從也。)
C) 「景」(影)の定義について、姿は倒立している。影の上下は倒立していて、端(影の上下の間の長さ)はあり、影の長さに従う。理由は端の長さの変化にある。
《経説下》
A) 景、光之人煦若射。下者之人也高、高者之人也下。足敝下光、故成景於上。首敝上光、故成景於下。在遠近有端、與於光、故景障内也。
B) 景、光は之(ゆ)きて人を煦(ねつ)すこと射(いと)ふるが若き。下(ひく)きものの人に高く、高きものの人に之(ゆ)くや下(ひく)し。足(そく)より下光を敝(はな)てば、故に景は上に成す。首(こうべ)より上光を敝(はな)てば、故に景は下に成す。遠近は在りて端は有り、光に與(したが)ふ。故に景は内に障(へだて)るなり。(煦、熱也。射,厭也。敝、罷也、又放也。與、又許也、従也。障、隔也。)
C) 「景」(影)の定義について、(実験で使用する)光源は直射して人を熱するその度合いが、時に、人が熱さを嫌うほどの強いものである。光源が低い場合は人の影は高く、光源が高い場合は人の影は低い。足元ほどの下から光を放てば、このため、影は上に出来る。頭上ほどの上から光を放てば、このため、影は下に出来る。影には遠近があり、また、上端下端の端(長さ)があり、光源の位置の条件に従う。この光源の条件のために、影はものの内側に隔てられる。
注意:篭にかがり火を入れ、それで夜間に実験をしている。
21
《経下》
A) 景、迎日、説在慱。
B) 景、日に迎(さから)ふ。説は慱(ひとつ)に在り。(迎、逆也。慱、猶專、又獨也。)
C) 「影」の定義とは、日の光の逆の位置にある。理由は影が一つの光源に対し一つであるから。
《経説下》
A) 景、日之光反燭人、則景在日與人之間。
B) 景、日の光を人に反燭(はんしょく)すれば、則ち景は日と人との間に在り。(反、覆也)
C) 「影」の定義について、日の光を、鏡を使い、人の後ろから反射して照らすと、影は太陽と人との間に出来る。
22
《経下》
A) 景、之小大、説在地正遠近。
B) 景、之に小大あり、説は地正(ちせい)遠近(えんきん)に在り。(地、底也)
C) 「影」の定義とは、小さい、大きい、の変化がある。理由は光源の高低の位置、光源との正対や傾斜の位置、光源の遠近の位置にある。
《経説下》
A) 景、木柂、景短大。木正、景長小。火小於木、則景大於木。非獨小也。遠近。
B) 景、木に柂(ななめ)なれば、景は短く大なり。木に正(せい)なれば、景は長く小なり。火(ほのお)の木より小なれば、則ち景は木より大なり。獨り小に非らざるなり。遠近なり。
C) 「影」の定義について、光が木に対し斜めであれば、影は短く太い。光が木に対して正対していれば、影は長く細い。光源に使う松明の炎の大きさが対象物の木より小さければ、その場合、影は木より大きくなる。単純に影が対象物よりも小さくなるわけではない。影の大きさは光源と対象物との距離の遠近に関係がある。
23
《経下》
A) 臨鑒而立、景到。多而若少、説在寡区。
B) 鑒(かがみ)に臨み而して立てば、景は到(さかしま)なり。多(ながく)して而(しかる)に少(しょう)の若(ごと)し、説は区(わか)ちて寡(しょう)に在り。(到、異体字:倒。多、長也。区、分也。寡、少也、單獨也。)
C) 鏡に臨んで立つと、影(画像)は倒立する。映し出す画像が長い場合は細い。理由は光の量が分割されて少なくなることにある。
《経説下》
A) 臨、正鑒景寡。貌能、白黒、遠近、柂正、異於光。鑒景當俱、就、去亦當俱。俱用北。鑒者之臭於鑒、無所不鑒。景之臭無數而必過。正故同處、其體俱然。鑒分。
B) 臨(りん)、正鑒(せいかん)の景は寡し。貌能(ぼうたい)、白黒(はくこく)、遠近(えんきん)、柂正(いせい)は、光において異なる。鑒(かがみ)の景は當に俱にし、就(つ)く、去るも亦た當に俱にすべし。俱にとは用いて北(そむ)くなり。鑒(かん)するものの鑒における臭(ゆがみ)は、鑒せざる所無し。景の臭(ゆがみ)は無數にして而(しかる)に必ず過(わた)る。正は故に處を同じくし、其の體は俱(みな)なるも然り。鑒は分かつ。(柂、而又如阤。北、乖也、猶背也。臭、敗也、又潰也。過、度也、経也。)
C) 「臨」の定義について、鏡に正対した画像は小さい。画像の像の形態、画像の白黒濃淡、画像の遠近、画像の倒立正立は、光源と対象物との位置関係により異なる。鏡の画像は対象物と共にあり、対象物に付属し、画像が消え去ることも、また、対象物と共にする。共にするとは鏡を用い画像をものの背にすることである。鏡に映すものの鏡に映したその画像のゆがみ自体は、鏡に映し出さなければ生じない。画像のゆがみは無数にあり、必ず生じる。画像の正立は、映すものと画像の位置が同じであり、その画像に映る物体は元の物体の姿とまったく同じであることは、その通りである。画像は分割することが出来る。
注意:この文章は紀元前5世紀ごろのもので、文中の鏡とは表面研磨の銅鏡です。このため、現在の鏡とは違い、鏡面に歪みを持ち、そのために映し出す像も歪みを持ちます。
24
《経下》
A) 鑒位、景一小而易、一大而正。説在中之外内。
B) 鑒(かがみ)の位、景の一(ある)は小にして而して易(ぼやけ)、一(ある)は大にして而して正(あきらか)。説は之の中(ちゅう)の外内に在り。(位、又所也。中、中心也)
C) 鏡(凹面鏡)の位置について、影(画像)が、あるいは小さく、また、ぼやけ、あるいは大きく、また、はっきりすることがある。理由は凹面鏡の焦点の中心から、対象物の位置が外の場合と内の場合とにある。
《経説下》
A) 鑒、中之内、鑒者近中、則所鑒大、景亦大、遠中、則所鑒小、景亦小。而必正。起於中緣正而長其直也。中之外、鑒者近中、則所鑒大、景亦大。遠中、則所鑒小、景亦小、而必易。合於而長其直也。
B) 鑒(かん)、中の内、鑒(かん)するもの中に近ければ、則ち鑒する所は大、景(かげ)も亦た大、中に遠ければ、則ち鑒する所は小、景も亦た小、而して必ず正。中に起り正に緣りて而して其の直を長くす。中の外、鑒する者は中に近ければ、則ち鑒する所は大、景も亦た大。中の遠ければ、則ち鑒する所は小、景も亦た小、而して必ず易(かは)る。合して而(ま)た其の直は長くす。(中、又中央、四方之中也、又心也。正,長也。直、正見也。起、能立也。)
C) 「鑒」(凹面鏡)の定義について、「鑒」(鏡)に映す対象物が凹面鏡の焦点に近ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は大きく、画像もまた大きい。焦点から遠ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は小さく、また、画像は小さい。そして、画像は必ず正立している。凹面鏡の焦点に対象物を置けば正立の画像となり、その正立した像を長くすることは出来る。凹面鏡の焦点の外にあって、「鑒」(鏡)に映す対象物が焦点に近ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は大きく、その画像もまた大きい。焦点よりも遠ければ、「鑒」(鏡)に映す対象物は小さく、その画像も小さく、焦点と対象物の位置で画像は必ず変わる。鏡を組み合わせることで、その正立した像を長くすることは出来る。
25
《経下》
A) 鑑、團、景一天、而必正、説在得。
B) 鑑(かがみ)、團(ひとつ)なり、景は一(いち)にして天(たおれる)、而(しかる)に必ず正(ながい)。説は得(ためす)に在り。(團、又通作專、又獨也。天、顚也。正,長也。得、又賦受)
C) 「鑒」(鏡)の定義とは、画像は単独である、画像は一つであって倒立し、必ず長い。理由は実験の結果にある。
《経説下》
A) 鑒、鑒者近則所鑒大、景亦大。亣遠、所鑒小、景亦小。而必正。景過正故招。
B) 鑒(かん)、鑒(かん)するものの近ければ則ち鑒する所は大、景も亦た大。亣(なが)く遠ければ、鑒する所は小、景も亦た小。而して必ず正。景の正を過ぐれば故に招(はが)るなり。(亣、古同大、又長也。招、音翹、猶危也。)
C) 「鑒」(鏡:凹面鏡)について、(同じ対象物であっても、)「鑒」(鏡)に映す対象物の位置が近ければ鏡に映す対象物は大きく、画像もまた大きい。「鑒」(鏡)に映す対象物の位置が長く遠いと、鏡に映す対象物は小さく、画像もまた小さい。そして画像は必ず正立する。鏡を動かし画像が正立する位置を過ぎると、画像はぼやける。
26
《経下》
A) 負而不撓、説在勝。
B) 負(お)ひて而(しかる)に撓(たわ)まず、説は勝(たえ)るに在り。
C) (梁が)荷重を負ってもたわまない。理由は(梁の材質が荷重に)耐える能力にある。
《経説下》
A) 負、衡木加重焉而不撓、極勝重也。右校交繩、無加焉而撓、極不勝重也。衡加重於其一旁必捶、権重相若也。相衡則本短標長、両加焉重相若、則標必下、標得権也。
B) 負(ふ)、衡木(こうぼく)の重きを加へて而(しかる)に撓まざるは、極(むね)は重きに勝(た)へるなり。右(うえ)を校(つな)ぎ交(こもご)も繩(しば)り、加ふる無くして而(しかる)に撓むは、極(むね)は重きに勝(た)へざるなり。衡(つりあい)の重きを其の一旁に加ふれば必ず捶(た)る、権(けん)するに重きは相(あい)若(し)くなり。衡(つりあい)を相すれば則ち本(もと)は短く標(さき)は長く、両加して重さ相(あい)若(し)ければ、則ち標(さき)は必ず下る、標(さき)の権を得るなり。(衡、橫大木、又平軽重也。極、棟也。右、又上也。校、木囚也。囚、繫也。繩、索也。権、又平也。相、導也。標、木末也。)
C) 「負」の定義について、屋根の構造にあって、横梁木の荷重を加えても棟木が撓まないのは、棟木の材料が荷重に耐えるからである。上梁を繋ぎ、こもごも棟木に縛り、上梁にまだ荷重を加えないのに棟木が撓むのは、その棟木の材料が荷重に耐えないからである。
(天秤棒で)左右で均衡がとれている荷重のときに、その一方に荷重を加えれば必ず(天秤棒は荷重を加えた方に)垂れ、水平を保つには荷重は互いに同じであることが必要である。(天秤棒の)均衡を導くと、(天秤棒にあって)支点から手許が短く、先が長く状態で、両方に荷重を加える時に荷重が同じならば、先側が必ず下がる。荷重を変えれば(天秤棒の)先側の水平を保つことは出来る。
27
《経下》
A) 契與枝板。説在薄。
B) 契と枝は板(はん)す。説は薄に在り。(契、猶同挈、縣持也。枝、又支持也。板、反也。薄、又被也。)
C) ものを吊り下げ保持することと、下から支持し保持することとは反する。理由は力の受け方にある。
《経説下》
A) 挈、有力也、引無力也。不正所挈之止於施也。繩制挈之也、若以錐刺之。挈、長重者下、短軽者上、上者愈得、下下者愈亡。繩直権重相若、則正矣。收、上者愈喪、下者愈得、上者権中盡、則遂。
挈、両輪高、両輪為轉、車梯也。重其前、弦其前、載弦其前、載弧其古(車偏+古)、而縣重於其前。是梯挈且挈則行。凡重、上弗挈、下弗收、旁弗劫、則下直杝、或害之也流。梯者不得流直也。今也廢尺於平地、重不下、無旁也。若夫繩之引古(車偏+古)也、是猶自舟中引横也。
B) 挈(けつ)に力有り、引に力無し。正(せい)する所は施に於いて之を挈せずなり。繩制(じょうせい)の之を挈(けつ)するや、錐を以って之を刺すが若き。挈は、長重なるものは下り、短軽なるものは上り、上るものは愈(いよい)よ得て、下に下るものは愈(いよい)よ亡(にげ)る。繩直(じょうちょく)権重(けんちょう)相(あい)若(し)けば、則ち正なり。收(つるべ)、上るものは愈(いよい)よ喪(はな)れ、下るものは愈(いよい)よ得(と)る、上るものの権は中に盡(とま)り、則ち遂(おわ)る。
挈(けつ)、両輪は高く、両輪は轉(てん)をなし、車梯(しゃてい)なり。其の前に重あり、其の前に弦あり、其の前に弦を載せ、其の軲(こ)に弧を載せる。而して其の前に重しを縣く。是を梯挈(ていけつ)し且つ挈(けつ)すれば則ち行く。凡そ重しは、上に挈せず、下に收せず、旁(ぼう)は劫(ごう)せざれば、則ち下に直杝(ちょくち)し、或いは之を害(のこ)せば流(さが)る。梯(もたれかか)れば流(さげ)ること能はざるなり、直なり。今、尺を平地に廢(はい)すれば、重しは下らず、旁するは無しなり。若し夫の繩の軲を引くや、是は猶ほ舟中自り横を引くがごとしなり。(挈、縣持也。正、又常也。施、張也、延也。権、又平也。收、動也、橫木也。喪、失也。得、獲也。盡、止也。遂、又成也。轉、動也,旋也。前、猶故也。軲、車也、亡、逃也。害、又殘也。流、又放也、又下也。梯、又凭也。旁、猶側也。)
C) 上下鉛直の運動には強い力が必要で、左右水平の運動には強い力は必要ではない。水平方向になにごとかを施す場合には鉛直の力は働かない。
縄で吊り下げられたものに鉛直に力を作用させる場面にあって、(実験準備では)吊り下げる綱を、錐を(背後の板に)刺して、その綱を(錐で)天秤にして支える。(実験では)鉛直に力を作用させるときに、長重なもの(=重いもの)は下がり、短軽なもの(=軽いもの)は上がり、上がるものはどんどん上がり、下に下がるものはいよいよ下がる。縄で吊り下げた荷重が均等であれば、左右に縄で吊り下げたものは均衡となる。
跳ね釣瓶では、物を持ち上がる側はいよいよ地面から離れ、反対の重しの下がる側はいよいよ地面に接する。上がるものの均衡は空中で留まり、左右の均衡は保たれる。
「挈(二連滑車機構)」について、二つの滑車の輪を高い位置に置き、そして二つの滑車を回転可能にし、その二つの滑車を梯子の形に横に並べる。重りと弦(紐)を準備し、滑車に弦(紐)を懸け、この滑車を懸けた弦(紐)を弓の弦のように張る。そして滑車の先に重りを懸ける。この滑車を吊り下げて、弦(紐)を上下させれば滑車は動く。およそ、重りは、(弦を上下しなければ)上に持ちあがらず、下に引き下げられない。横から妨げられなければ、下に真っすぐに落ちるか、あるいは滑車を残せば、重りは下がる。滑車などが斜めになっていれば、下げることは出来ない。鉛直なことが必要である。今、装置を地上に置けば、重りは下がらず、横からの妨げは無い。もし、この装置が付いた綱により、それが付けられた車を引けば、舟の中から綱を横に引くように軽く動く。
注意:ここでは、「挈」を上下運動、またはその装置と理解し、「引」を水平運動、またはその装置と理解しています。
28
《経下》
A) 倚者不可正。説在剃。
B) 倚(い)なる者は正する可(べ)からず、説は剃(てい)に在り。(倚、又偏也。剃、或作剔、解也。)
C) 変形したものを元に戻すにすることは出来ない。理由は解体にある。
《経説下》
A) 倚、倍、拒、堅、䠳、倚焉則不正。
B) 倚(い)、倍(ばい)、拒(きょ)、堅(けん)、䠳(しゃ)、倚(い)すれば則ち正ならず。(倚、又偏也。倍、反也、以反者覆也。拒、違也。堅、土剛也。䠳、本作射、厭也、猶壓也。)
C) 「倚」(建物の変形)の定義について、倍(倒壊)、拒(歪み)、堅(基礎の変形)、䠳(基礎の沈下)の区別があり、変形があれば本来の正しいものではない。
29
《経下》
A) 推之必往、説在廃材。
B) 之を推(うつ)せば必ず往(い)く、説は材を廃するに在り。(推、排也。往、去也、又棄也。)
C) 排除することは必ず廃棄である。理由は材を廃することにある。
《経説下》
A) 誰、并(立偏+并)石、壘石耳、夾寝者法也。方石去地尺。關石於其下、縣絲於其上、使適至方石。不下、柱也。膠絲去石、挈也、絲絕、引也。木變而名易、收也。
B) 誰、石を并(なら)(立偏+并)べ、石を壘(つ)むのみに、寝を夾むものは法なり。方石(ほうせき)の地を去ること尺。石は其の下を關(うが)ち、絲を其の上に縣け、適(まさ)に方石に至ら使めむ。下らざるは、柱(ちゅう)なり。絲を膠(まと)つて石を去るは、挈(けつ)なり。絲の絕ゆるは、引なり。木の變じて而して名は易(かは)るは、收なり。(誰、何也、或作唯。寝、息也又、處也。關、又穿也。去、行也、離也。収、作収,訛。)
C) 「誰」の定義について、石を並べ、石を積むときに、作業で支えを挟むのは方法である。四角の石が地上から一尺の位置にあるとして、その四角の石のその底を穿ち、糸をその石に懸け、そして、その四角の石に作用させる。四角の石が下がらないのは、糸の支えがあるからである。糸を(巻き上げ機に)巻き付けて四角の石に操作を行うのは、荷の上下作業である。糸が切れるのは四角の石が下に引くからである。木を加工して名称が変わるのは訛で、別の呼び名である。
30
《経下》
A) 買無貴、説在仮其賈。
B) 買(ばい)には貴(こう)は無し、説は其の賈(か)を仮(やめ)るに在り。(貴、高也。賈、猶買賣也。仮、覆也。)
C) 売買には高値は無し。理由はその購入を止めることにある。
《経説下》
A) 買、刀、糴相為賈、刀軽則糴不貴、刀重則糴不易。王刀無變、糴有變。歳變糴、則歳變刀。若鬻子。
B) 買(ばい)、刀(とう)、糴(てき)の賈を相為し、刀の軽ければ則ち糴は貴(き)ならず、刀の重ければ則ち糴は易(い)ならず。王刀は變ずること無く、糴に變ずるは有り。歳ごとに糴を變ずれば、則ち歳ごとに刀は變ず。子(こ)を鬻(ひさ)ぐが若し。(刀、又錢名。糴、市穀也。)
C) 「買」の定義について、貨幣と穀物とで交易を行い、その穀物の貨幣価値が軽ければ穀物の値は高くならず、貨幣価値が重ければ穀物の値は安くならない。公定の一刀銭の値は変わることがないが、穀物の価格は変動することはある。年毎に穀物の価格が変動すれば、それに応じて年毎に刀銭の相対価値は変動する。
31
《経下》
A) 賈、宜則讐、説在盡。
B) 賈(か)、宜(よろ)しければ則ち讐(ととの)う。説は盡(つく)すに在り。(賈、猶買賣也。讐、猶齊也。盡、皆也、任也。)
C) 「買」の定義とは、売買は価格が適正であれば整う。理由は売買が成立することにある。
《経説下》
A) 賈、盡也者、盡去其以不讐也。其所以不讐去、則讐。正賈也。宜不宜正欲不欲。若敗邦鬻室嫁子。
B) 賈(か)、盡くすとは、盡く其の讐(ととの)はざるを以って去るなり。其の讐はざる所以(ゆえん)を去れば、則ち讐い、正に賈(か)うなり。宜(ぎ)不宜(ふぎ)は正に欲不欲なり。敗邦(はいほう)の室を鬻(ひさ)ぎ子(こ)を嫁(か)するが若き。(讐、猶齊也)
C) 「買」の定義について、売買が成立するとは、すべての売買が整わない条件を取り去ることである。その売買が整わない理由を取り去れば、売買は整い、ものは購入される。その価格が適切か、不適切かどうかは、まさに、そのものを求めるか、求めないかである。例えば、敗戦国民が家屋を売り、娘を嫁に出すようなものである。
32
《経下》
A) 無説而懼、説在弗心。
B) 説無くして而して懼(おそ)れる。説は心を弗(うしな)ふに在り。(弗、撟也。)
C) 説明が無いと人々は恐れる。理由は心が歪む(気持ちが不安定になる)からである。
《経説下》
A) 無、子在軍、不必其死生、聞戦、亦不必其生、前也不懼、今也懼。
B) 無、子(し)に軍(いくさ)は在り、其の死生を必(かならず)せず。戦(いくさ)を聞くは、亦た其の生を必せず。前には懼(おそ)れず、今や懼(おそ)る。
C) 「無」の定義について、子は戦場にあって、その死生ははっきりしないことと、戦争の話を聞くときに、その話を聞く者の、その戦争による死生ははっきりしないこととの比較にあって、最初の戦場の子の死生は恐れないが、戦争の話を聞く、己自身の死生は恐れる。
33
《経下》
A) 或、過名也、説在實。
B) 或(まよひ)は、名を過(あやま)るなり、説は實(じつ)に在り。(實、誠也、滿也。)
C) 「或」の定義とは、ものごとの名分を間違えていることである。理由は誠にある。
《経説下》
A) 或、知是之非此也、有知是之不在此也。然而謂此南北、過而以已為然。始也謂此南方、故今也謂此南方。
B) 或(まよい)、是の此に非ざるを知り、有た是の此に在らざるを知る。然り而して此の南北を謂ひ、過(あやま)ちて而(しかる)に以って已を然りと為す。始(はじめ)にや此の南方を謂ふ、故に今や此の南方を謂ふ。
C) 「或」の定義について、これがこれではないことを理解し、また、これがここにはないことを理解すること。それはつまり、あるものについて、それの方角の南北を言い、間違えていても、それの方角は南北としたことをその通りだとすること。初めに南方と言い、そのために今もこれは南方だと言うこと。
34
《経下》
A) 知、知之、否之足用也誖。説在無以也。
B) 知(ち)、之を知り、之を否とし用ふるに足るは誖(もと)る。説は以ってすること無きに在り。
C) 「知」の定義とは、あるものごとを理解し、また、あるものごとをそうではないと理解して、それで十分だとするのは間違っている。理由はそのものごとにより生じることへの理解がないことにある。
《経説下》
A) 智、論之、非智無以也。
B) 智(ち)、之を論じ、智に非ざれば以ってすること無きなり。()
C) 「智」の定義について、ものごとについて論じて、それを理解することが無いのであれば、それを用いてなにごとかを行うことは出来ない。
35
《経下》
A) 謂辯無勝、必不當。説在辯。
B) 謂(い)、辯(べん)の勝ち無きは、必ず當(あた)らず。説は辯に在り。(辯、又爭辯也。)
C) 「謂」の定義とは、弁論で勝てないこととは、必ずその論理に正当性が無いからである。理由は「辯」の言葉の意味「又爭辯也。弁を争う」にある。
《経説下》
A) 謂、所謂非同也、則異也。同則或謂之狗、其或謂之犬也。異則或謂之牛、牛或謂之馬也。俱無勝、是不辯也。辯也者、或謂之是、或謂之非、當者勝也。
B) 謂(い)、謂ふ所の同じに非ざれば、則ち異なる。同じきは則ち或ひは之を狗(く)と謂ひ、其の或ひは之を犬(けん)と謂ふ。異なるは則ち或ひは之を牛と謂ひ、牛の或ひは之を馬と謂ふ。俱(とも)に勝(まさ)るは無し、是は辯(べん)ぜずなり。辯なるものは、或いは之を是(ぜ)と謂ひ、或ひは之を非(ひ)と謂ひ、當(まさ)るものは勝(まさ)るなり。(謂、說也、報也。)
C) 「謂」の定義について、説くことがらが同じでないのなら、説くことがらは異なる。例として、「同じ」とは、「あるいは」の言葉にあって、これを「狗」と言い、その「あるいは」のこれを「犬」と言うこと。「異なる」とは、「あるいは」の言葉にあって、これを牛と言い、牛の「あるいは」のこれを馬と言うこと。弁論で比べるもの同士が共に勝ることがないなら、これは弁論ではない。弁論というものは、「あるいはこれを是」と言い、「あるいはこれを非」と言い、論理に正当性があるものが弁論で勝つようなことがらである。
36
《経下》
A) 無不讓也、不可。説在始。
B) 譲(ゆず)らざる無きや、可(べ)からず。説は始に在り。(始、音試。)
C) 譲らないことはいけないのか、それは良くない。理由はなにごとかを試みることにある。
《経説下》
A) 無、讓者酒、未讓始也、不可讓也。
B) 無、讓(ゆず)るは酒(おもむ)くなり、讓(ゆず)ること未(な)きは始(し)なり。讓る可からざるなり。(酒、就也、猶従也。始、音試。)
C) 「無」の定義について、譲ることとは相手に従うことであり、譲ることが無いこととは相手への試みであり、譲るわけにはいかない。
37
《経下》
A) 於一、有知焉、有不知焉、説在存。
B) 一(ある)に於いて、知る有りや、知らず有りや、説は存に在り。(存、察也。)
C) あるものごとにおいて、知ることと知らないことがある。理由は観察することにある。
《経説下》
A) 於石一也、堅白二也、而在石。故有智焉、有不智焉。可。
B) 石は一なり、堅白は二なり、に於いて、而して石に在り。故に智(し)るは有り、智らざるは有り。可なり。
C) 石と云う言葉は一つ、堅白は堅と白と云う言葉が二つ、それぞれにあるが、石は堅白である言葉からすれば、そこに石と云う言葉はある。これにより、石と云うものを知ることはあり、また、石が堅や白と云うことを知らないこともある。それは有り得る。
38
《経下》
A) 有指於二、而不可逃。説在以二累。
B) 二(わか)つに於いて指(のぞ)くが有るは、而して逃(の)がれ可(べ)からず。説は二(わか)つを累(かさ)ねるを以って在り。(指、斥也。二、分而爲二。)
C) ものごとを分割するにあっては、なにごとかを除くことが有るが、それは避けられないことがらである。理由は、ものごとは分割されたものを重ねたものであることによる。
《経説下》
A) 有指、子智是、有智是吾所先挙、重則。子智是、而不智吾所先挙也、是一。謂有智焉、有不智焉也。若智之、則當指之智告我。則我智之、兼指之以二也。衡指之、参直之也。若曰、必獨指吾所挙、毋挙吾所不挙、則者固不能獨指。所欲相不傳、意若未校。且其所智是也、所不智是也、則是智是之不智也。悪得為一謂而有智焉有不智焉。
B) 有指(ゆうし)、子(し)は是を智(し)り、有た是の吾が先に挙げし所を智れば、則ち重(かさ)なる。子は是を智り、而して吾が先に挙げし所を智らざれば、是は一なり。智る有りて、智らざる有りと謂ふなり。若し之を智れば、則ち當(まさ)に之の智を指し我に告ぐべし。則ち我は之を智り、之を兼ね指すに二(わか)つを以ってするなり。之を指すに衡(あら)ず、之は直(ただしき)を参(み)るなり。若し、必ず獨り吾が挙げし所を指すも、吾が挙げざる所を挙ぐる毋(な)しと曰はば、則ち固(もと)より獨り指す能はず。欲する所相(あひ)傳(つた)はらず、意は未だ校(まじ)はらざるが若(ごと)し。且つ其の智る所は是なり、智らざる所は是なり、則ち是れ是を智ると智らざるとなり。悪(いずく)むぞ一と為し而して智る有りや智らざる有りやと謂ふを得むや。(重、又尚也。一、純也。兼、幷也。衡、俗作衡、非。参、承也,覲也。直、正見也。)
C) 「有指」の定義について、あなたがこれを知り、そして、知ったことがらは私が先に指摘したことがらであることを知れば、これは認知の追従である。あなたがこれを知り、私が先に指摘したことがらであることを知らなければ、これは認知の独自である。これを、知ることが有り、また、知らないことが有ると言う。もし、このものごとを知れば、このものごとの認知を示して私に告げなさい。そうすれば、私は知らされたこのものごとを認知し、このものごとを併せて示すのに、私が知ること、知らないことに分けて、このものごとを認知する。このことは、このものごと自体を示すのではなく、このものごとの正しきものを認知するのである。もし、私が認知したことがらだけを提示するが、私が認知しなかったことがらを、提示しなかったと言うのなら、それでは私が自ら認知したことがらをあなたに提示することは出来ない。それは、私が伝えたいと願うことがらが伝わらず、真意が理解されないようなものだからだ。さらに、その認知したことがらはこれである、認知できなかったことがらはこれであると、つまり、このことがらを、これであると認知することと、これとは認知できなかったこととである。どうして、ものごとを単純化して、このものごとを認知した、認知できないと、言うことが出来るのであろうか。
以下、39から82に続く
弊ブログでは、3月中には経、経説、大取、小取の現代語訳を紹介する予定ですので、平安中期までの古典を楽しまれるときに、その時代の論理の組み立てや考え方への理解への参考としてみてください。