「でも、先輩は、1年後にはいなくなっちゃうからさぁ♡」
『まぁ、どんな人とでも、いずれは別れが来るからね』
「…ねー。なんで、たかはしくんって、そういうこと言うの?」
気持ちが先輩そのものに向いてるわけじゃなく、自分の理想を先輩に押し付けているだけだからこそ、寂しいはずの別れを楽しそうに話しているわけで、そんな自分勝手なヤツには、せめて一般化した正論を目の前にぶつけてやったほうが、ほんの少しは今後のテメーのためになるからだよ、、などと言語化する能力を、中学生の俺は持ち合わせてはいなかった。
そう、、いずれ別れはやってくる。誰であっても、どんな関係性であっても。いずれは強制的に終了を告げる鐘の音が鳴る。
この場合の別れには二種類ある。一つは、相手がこの世を去ること。そして、もう一つは、自分がこの世を去ることである。
俺は、この辺りについて、いかに意識しているか?が、「最適化」と「努力」の圧倒的な差を生み出していると思うのだ。
多くの人は、別れと言えば、その場所から単に消え去ることを想定している。自分だけはこの場所にずっと残って、相手だけが去っていく可能性を想定していることが多いように思う。
つまりは、相手の死すら想定していないのだ。ただ、その所属している集団から離れてしまうかどうかを考えている。この場合、やがて自分に訪れる死に対してなんて、まったくの無頓着で、日々の生活の中で、自分がより自由になれるように、自分がより承認されるように、ということだけを考えるようになってしまう。この状態が、「最適化」だ。
(現在目の前にいる)周囲からの評価基準に「最適化」することを、絶対視しがちになる。今、この瞬間に、承認されなければ、認識されないのだから、仕方ないじゃないか、ってね。
一方、現代日本では一部に、自分がいずれは死ぬことを明確に意識しながら生きている人も存在する。メメント・モリだ。
死を意識しながら、突然生かされることの不条理さを感じていると、たった一度の生涯の中で、このままでいいのだろうか、これは本当に自分がやるべきことなのであろうか、と常に自問自答することが日常になる。そして、たった一回の自分の人生をいかに有意義にしようかと悩み、その悩みに対してついに一筋の光が差し込んできたところで、それに注力するようになる。それを、、「逃避」と呼ぶ。うん、まだ、これじゃあ「努力」にはならない。
「努力」とは、自分の死を意識した先に、大切な誰かの死を感じ取り、そこに不条理さとやるせなさを感じ、その生命をこの世になるべく長い間残しておくことを、どうしても、努努、怠ることができない種々の活動のこと。
確かに、承認に対して「最適化」していることだって、「他の人よりも、とにかく頑張ったのだから、認められるべきだ」と思うのかもしれない。その通りだ。認めてあげれば良い。でも、何の哲学もない状態での個人の欲求の獲得だけでは、世界に何の変革も齎さないから、認めようが認めまいが、当人以外にとっては大したことではない。そして、実は、当人にとっても、大したことではないようになる。立場だけが得られ、他者から本質的に必要とされていない状態というのは、よっぽどに鈍感でない限り、その寂しさに気が付いてしまう。
よく、承認を得られ、高い立場についた後に、世界に変革を及ぼせると思っている者がいるが、それは大きな勘違いだ。その程度では、運よく青史に名を刻めたとしても、何の変化もより良くもなっていない無意味な存在として扱われるだけだ。
自分の死を意識すれば、何も意識していないよりは、当人にとって意義があることが導かれるかもしれない。一生、地味な仕事をしていたとしても、趣味の範囲で作品を作り、それを後世に価値あるものとして提供できる可能性は残る。
でも、そんな人は、何万人に1人だ。それでも当人が満足しているなら良いんじゃないの?という声が聞こえてきそうだが、何の承認もなく、趣味だけを心の拠り所に生きていって楽しめる人も、かなりの鈍感さが必要になる。それに、たとえこのブログが500年後に世界的に脚光を浴びたとしても、俺にはそれを知る術はない。
だが、自分よりも他者や弱者に自分以上の価値を感じ、その誰かをほんの少しでも生きながらえさせたいと思う気持ちを叶えることには価値がある。青史に名を残せても未来に書物を残せてもただただ空しいが、自分が心からかけがえのないと思っている存在に対して、ほんのちょっとでも、ほんの数日、数分でも、数秒でも、とにかく長くこの世にいて欲しいと思いながら、何かを頑張る行為は、世界に圧倒的な変革を齎す。
誰かの死であれ、自分の死であれ、ただの所属の意味での別れであれ、、そう、大好きな先輩が先に卒業してしまうことであれ、、程度の差こそかなりあれど、悲しいことには変わりない。
でも、死を直面することに臆病になりすぎるあまり、相手に対して自分のレゾンデートルへの侵入を絶対に死守し、挑戦するような目で「だったら、自分でやったら?」「私なんか捨てて、出ていけば?」と、先に別れを切り出してしまうことで悲しさを半減させようとする絶望に染まることは、たった一度の人生で良い戦略だとは思えない。だからといって、自分の死を意識しすぎるあまり、数年後の未来が存在しないことを言い訳に、刺激的で比較的小さな仕事ばかりを繰り返し、大きな価値ある仕事に注力しないことも、また、良い戦略とは思えない。
だったら、どうすればいいか、もうわかるでしょ?
結局のところ、誰かに理想を夢見てしまおうが、本当に新しい価値観に出会ってそれを信仰してしまおうが、、とにかく、自分自身が本当の意味で満足するかどうかというのは、他者に委ねられてしまっている、というところが、この世の最も面白いシステムであり、同時に最も残酷な人類の普遍性なんじゃないかなぁと、思う。
『いや、つまりだな、俺が言いたかったのは、先輩は大学に行くだけで、、先輩が死んじゃうわけでもなければ、貴女が死んじゃうわけでもない。だから、今できることを考えろよ、ってこと』
「それって、コクれ、ってこと?無理無理無理ー」
…ったく、だから、薄っぺらい恋愛脳は、嫌いなんだよ笑。
『まぁ、どんな人とでも、いずれは別れが来るからね』
「…ねー。なんで、たかはしくんって、そういうこと言うの?」
気持ちが先輩そのものに向いてるわけじゃなく、自分の理想を先輩に押し付けているだけだからこそ、寂しいはずの別れを楽しそうに話しているわけで、そんな自分勝手なヤツには、せめて一般化した正論を目の前にぶつけてやったほうが、ほんの少しは今後のテメーのためになるからだよ、、などと言語化する能力を、中学生の俺は持ち合わせてはいなかった。
そう、、いずれ別れはやってくる。誰であっても、どんな関係性であっても。いずれは強制的に終了を告げる鐘の音が鳴る。
この場合の別れには二種類ある。一つは、相手がこの世を去ること。そして、もう一つは、自分がこの世を去ることである。
俺は、この辺りについて、いかに意識しているか?が、「最適化」と「努力」の圧倒的な差を生み出していると思うのだ。
多くの人は、別れと言えば、その場所から単に消え去ることを想定している。自分だけはこの場所にずっと残って、相手だけが去っていく可能性を想定していることが多いように思う。
つまりは、相手の死すら想定していないのだ。ただ、その所属している集団から離れてしまうかどうかを考えている。この場合、やがて自分に訪れる死に対してなんて、まったくの無頓着で、日々の生活の中で、自分がより自由になれるように、自分がより承認されるように、ということだけを考えるようになってしまう。この状態が、「最適化」だ。
(現在目の前にいる)周囲からの評価基準に「最適化」することを、絶対視しがちになる。今、この瞬間に、承認されなければ、認識されないのだから、仕方ないじゃないか、ってね。
一方、現代日本では一部に、自分がいずれは死ぬことを明確に意識しながら生きている人も存在する。メメント・モリだ。
死を意識しながら、突然生かされることの不条理さを感じていると、たった一度の生涯の中で、このままでいいのだろうか、これは本当に自分がやるべきことなのであろうか、と常に自問自答することが日常になる。そして、たった一回の自分の人生をいかに有意義にしようかと悩み、その悩みに対してついに一筋の光が差し込んできたところで、それに注力するようになる。それを、、「逃避」と呼ぶ。うん、まだ、これじゃあ「努力」にはならない。
「努力」とは、自分の死を意識した先に、大切な誰かの死を感じ取り、そこに不条理さとやるせなさを感じ、その生命をこの世になるべく長い間残しておくことを、どうしても、努努、怠ることができない種々の活動のこと。
確かに、承認に対して「最適化」していることだって、「他の人よりも、とにかく頑張ったのだから、認められるべきだ」と思うのかもしれない。その通りだ。認めてあげれば良い。でも、何の哲学もない状態での個人の欲求の獲得だけでは、世界に何の変革も齎さないから、認めようが認めまいが、当人以外にとっては大したことではない。そして、実は、当人にとっても、大したことではないようになる。立場だけが得られ、他者から本質的に必要とされていない状態というのは、よっぽどに鈍感でない限り、その寂しさに気が付いてしまう。
よく、承認を得られ、高い立場についた後に、世界に変革を及ぼせると思っている者がいるが、それは大きな勘違いだ。その程度では、運よく青史に名を刻めたとしても、何の変化もより良くもなっていない無意味な存在として扱われるだけだ。
自分の死を意識すれば、何も意識していないよりは、当人にとって意義があることが導かれるかもしれない。一生、地味な仕事をしていたとしても、趣味の範囲で作品を作り、それを後世に価値あるものとして提供できる可能性は残る。
でも、そんな人は、何万人に1人だ。それでも当人が満足しているなら良いんじゃないの?という声が聞こえてきそうだが、何の承認もなく、趣味だけを心の拠り所に生きていって楽しめる人も、かなりの鈍感さが必要になる。それに、たとえこのブログが500年後に世界的に脚光を浴びたとしても、俺にはそれを知る術はない。
だが、自分よりも他者や弱者に自分以上の価値を感じ、その誰かをほんの少しでも生きながらえさせたいと思う気持ちを叶えることには価値がある。青史に名を残せても未来に書物を残せてもただただ空しいが、自分が心からかけがえのないと思っている存在に対して、ほんのちょっとでも、ほんの数日、数分でも、数秒でも、とにかく長くこの世にいて欲しいと思いながら、何かを頑張る行為は、世界に圧倒的な変革を齎す。
誰かの死であれ、自分の死であれ、ただの所属の意味での別れであれ、、そう、大好きな先輩が先に卒業してしまうことであれ、、程度の差こそかなりあれど、悲しいことには変わりない。
でも、死を直面することに臆病になりすぎるあまり、相手に対して自分のレゾンデートルへの侵入を絶対に死守し、挑戦するような目で「だったら、自分でやったら?」「私なんか捨てて、出ていけば?」と、先に別れを切り出してしまうことで悲しさを半減させようとする絶望に染まることは、たった一度の人生で良い戦略だとは思えない。だからといって、自分の死を意識しすぎるあまり、数年後の未来が存在しないことを言い訳に、刺激的で比較的小さな仕事ばかりを繰り返し、大きな価値ある仕事に注力しないことも、また、良い戦略とは思えない。
だったら、どうすればいいか、もうわかるでしょ?
結局のところ、誰かに理想を夢見てしまおうが、本当に新しい価値観に出会ってそれを信仰してしまおうが、、とにかく、自分自身が本当の意味で満足するかどうかというのは、他者に委ねられてしまっている、というところが、この世の最も面白いシステムであり、同時に最も残酷な人類の普遍性なんじゃないかなぁと、思う。
『いや、つまりだな、俺が言いたかったのは、先輩は大学に行くだけで、、先輩が死んじゃうわけでもなければ、貴女が死んじゃうわけでもない。だから、今できることを考えろよ、ってこと』
「それって、コクれ、ってこと?無理無理無理ー」
…ったく、だから、薄っぺらい恋愛脳は、嫌いなんだよ笑。