たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

37

2024-03-09 03:18:27 | Weblog
 新年明けてから自分の誕生日までブログもYouTubeもやらなかったのは、ネットで何らかの発信をし始めてから、初めてじゃないか。
 遅くなりましたが、なんとか現場復帰しつつあります。新年が始まってすぐに緊急事態が起きまして、生活がかなり一変しました。それについては4月ごろまでにYouTube限定公開で詳しく説明しようと思うので、俺のことを直接知ってる方で聴きたい人は連絡してください(物理会の参加者などの方には直接貼りますので大丈夫です)。今の段階で言うべきではないかもしれないけれど、そこそこは公益性があると思うのでいずれは全体に公開すると思いますが、何年先になるか分からないので、聴きたい人はぜひ。

 色々と計画がズレながらも何とか復帰できていること、その下地を作ってくれているすべての人とこの国のあらゆるシステム、そして、運良くこの時代に生まれ、サイエンスがこれだけ発達していること、何よりも現状を知って手を差し伸べてくれた人たちに、心から心から、ありがとう。
 あと、痛みがなければ生きていけない。けれど、痛みが大きすぎれば身動きが取れなくなってしまう。そんなときに必要なのは、実はほんの少しの痛みなのかもしれない。
 ・・・そんなことを思いました。

 大きな犠牲と変化とともに、素晴らしい巡り合いも同時にあった。本当はそのことだけを書きたいのに、その瞬間にすぐに記録として残したいのに、そうはできなかった。まぁそれも”運命”なのかもしれない。何よりも、どんな形であれ、”命”が”運”ばれて良かった。
 生活環境の一変と同時に、世界の観測の仕方も一変させられてしまったので、何がどう変化したのか確認しようがなかったりもする。年下の子たちを年上に感じざるを得ない心情になってしまえば、心配事のレベルもかなり変わる。もっともっと、自分自身がしっかりとこの国のこの状況を打破させていかないと、もしくはそれに準ずるより良い環境を捜し当てないと。

 無難さに収束させてしまうことがありふれた状態であるのに、より無難さから遠ざかるを得ない現状を考えてみると、これまでの軌跡はすべて間違っていなかったのだろうなと実感する。これからもっと楽しくなるし、この厳しい現状も楽しめている。
 これまでの道のりで、傷つけてしまった人、時間を無駄にさせてしまった人に対しても、どうか同じ気持ちで、今も楽しく未来も楽しいと確信できる状態でいて欲しいなと思っている。いま(たとえ俺から)絶縁を選んでいても、少なくとも俺は、あなたに対してそう思っているよ。

 憎悪を向けられても、その知覚があることそのものが嬉しい。
 どんなに言葉の刃を向けられても、どんな理不尽な扱いを受けても、それを認識できることに感謝してしまう。
 そんな自分になりたくはなかったけど、そう思う存在を感じることができるのだから、ものすごい可能性に満ちている。

 さあ、ここから、また、はじめよう。新しい絶対的な仲間もいる。
 そんなふうに思う誕生日です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年振り返り

2023-12-31 03:12:55 | Weblog
 2023年がどうであったか、という話を少しだけ書こうと思う。
 ブログをもう少し書こう書こうと思いながらここ数年間更新が滞っているのだけど、それは逆に言うとコツコツする時間が長くて、物理会やったりピアノを弾いたり、意外といわゆるインプットが多い1年だったかもしれない。物理会はインプットなのかって感じだけど、まぁあれは俺が物理学を基礎からきちんと再確認していく場であるという位置づけも強いので。

 世の中はものすごい変革の時期で、あらゆるものが崩壊していってるよね。これはハタから観ているととても面白くて、刺激ジャンキーな気持ちを掻き立てられるのだけど、この変化で人生が激変してストレスが増えてしまう人もいることを思うと、そんなに笑い事ではないはずで、実際にそれらの事件や告発を一般化して身の回りに置き換えてみると、他人事では片付けられないものばかりであった。
 この変革期をまとめて云ってしまうなら「実力不足を権威によって補って、理解する気はないけど偉ぶりたい人たちが実際に権力を持っていたのだけど、彼らが出力するモノの品質が悪すぎて、崩壊しまくっている」だと思う。こういうことを言ってしまうとバカみたいなんだけど、そういえば俺って、自分の実力について不安に思ったり恥じたり卑屈に思ったことが少ないなと思う。権力に認められる努力を一切していないことが流石にマズイかしら?と不安に思うことはあるけれど、実力をつけることに最適化していると、どうしても「このバカに認められるために使う時間がもったいないな。今ここで勝負じゃないだろうし、いいや、今は能力だけきちんとつけよう」になることが多い。

 昨今、皆本当に短絡的な結果を求めるようになってしまった。バズれば良いやと思う人、変なキャラ付けをして満足させようとする人、単なる馴れ合い人事を肯定化するために言い切る言葉ばかりを使う人、内容の精緻さは気にせずメディアや大衆に受け入れられそうな目標を嘯いている人。
 こういう人たちをバカにすることにも飽き飽きしてしまっていることにも、今年は久しぶりに海外にも行って現地や飛行機の中で色んな国の人と話したので、痛感させられた。合理的に考えてロジカルに方向性を見出すにはまだ若すぎる気もしていて、とりあえず手当たり次第に自分にとってやるべきことを行い続ける中で、本当にこの国で良いのか、本当にこの分野で良いのか、本当にこの人たちを自分の信頼ゾーンに置いて良いのか、ということは、繰り返し問い続けなくちゃいけないのだろう。そういったことを思い知った1年であったと思う。

 来年も、おそらく「え?これが崩壊するの?」という意外なものが音を立てて崩れ去っていくだろう。その際にも、俺の大きな武器になってくれていそうなのは、物理学である。
 今年は研究でも日常でも物理学からの知見が本当に役に立つことが多いなと感じさせられた。具体的な事象から本質だけを抽出してきて、一般化された論理展開を他の具体事象に適応し、本質をリファインしていく。この作業を精緻に行う指針をくれる物理学には本当に感謝しているし、俺が今多くの人に確実に人生観が豊かになって重要な武器になるであろうと心からオススメできるのは、これ以外にはない。
 物理学では、ついに統計力学に入り、統計力学の前提となる知識に関してはすべて纏めることができた。2022年の3月から週2回(毎回1時間)で続けている取り組みであるが(これのせいでブログの更新が滞っている気もするが、言い訳にはしたくないですw)、ここまで前提をきちんと話さないと統計力学に導入できないというところに、改めて物理学の専門性の高さを感じる。自分ですべて最初(高校知識)から伝えてみて、はじめて世間との乖離を強く感じた。そりゃ俺がいくら「数理統計知らなかったら実験まともにできないでしょ」「フーリエ変換できなかったら理系じゃないわ」と言っても伝わらないわな、と実感しましたよ。正直自分がすべて説明してみるまで「たいしたもんじゃない」という印象が強かったのだけど、やればやるほど「やってみるまで重要性に気がつけないし、だから多くのバイオ系や化学系が”自由研究”から抜け出せないよな」と痛感させられている。
 今年は、物理数学、熱力学、量子力学、数理統計学と大学2年生から3年生くらいで習う内容をお伝えしていたけど、それぞれで10記事はかけるほど言いたいことはたくさん出てきている。またいずれ、どれかの回を公開して、あの会に参加していない人にも貢献できるようにしたいと思っている。来年は週1回になるので、少しはブログを書く暇があるかも?

 そして、来年は、個人的にとても良い出会いになることが確約されている。一喜一憂するそのレスポンスが確実なものとなる時、あらゆる困難も楽しみに変わっていくだろうし、だからこそ生き方として本気でいなければいけないなと思っている。
 良いお年を。ようこそ、この乱世へ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本お気持ち国の病人たち

2023-10-09 02:48:51 | Weblog
 このブログを始める時(2005年)、「まあ別に本名だろうがハンドルネームだろうが、あまり関係ないか」と思ったことをよく覚えている。
 しかし、多くの人はそうは思わないらしく、匿名性の中で自分を暗闇に隠しながら、インターネット上で発言することを選ぶようだ。当時はTwitterがないので、2ch文化が非常に強かった。ブログもまだそこまで流行っているわけでもない頃で(ブログといえば眞鍋かをり、みたいな頃ね)、当然のようにインターネット上での渾名を自分につける人が多かったのだ。

 「ネットでは匿名」という気持ちは分からなくはない。実名で何かを発信しているということそのものが日本社会におけるタブーのようなイメージもあったし(今もある?)、何よりも、自分が変なことを言ってしまった際に守ってくれる匿名というヴェールが欲しい気持ちはあるだろう。実際俺だって(更新頻度は高くはないが)Twitterで匿名アカウントはあるし、ある種の安心感はあるし、匿名の中で面白さはあるだろう。

 しかしながら、この匿名文化がもたらす功罪は意外なところで実はとても大きかったのかもしれないな、と最近思うのである。
 Twitterを見ていても、YouTubeのコメント欄を見ていても、多くの人が「ジャッジしたがり」の病に冒されている。

 評価することには非常に慣れているくせに、評価されることには異常なくらいに抵抗する。ゆえにいざ舞台に上がらなければならない瞬間に、現実とのギャップを大きく感じてしまうのだ。よく「理想と現実のギャップ」などという言い方をするが、そうではなくて、どちらかといえば「普段のジャッジと現実との乖離」だ。この”普段のジャッジ”を匿名でやってしまっているところに問題がある。

 例えば私も、このブログをやりはじめた頃は浪人生であったから、今から思うと必要以上にジャッジしたがりであったのではないかと思う(ぜひブログ開設当時の記事を見てくれ、と言いたいところだが、今よりももっともっとイタイので、なるべくなら見ないで欲しい)。自分はどこの大学もまだ卒業していないのにも拘らず、「マーチ出身かよ」などと大人に対して思ってしまったりするわけである。これは大学院生になっても(自分はそうではなかったと思うが)同じような現象が起こりがちになる。4年生やM1は論文を書いていなくとも等しく許される時期であるから、「あの先輩、大学院に5年以上もいるのに1本も論文ないとか、ヤバすぎだろww」などとなりがちである。
 インターネット社会が発展していない場合、こういう例に陥っても、年月が経てば自然と治る。博士課程に進んでもなかなか論文を出せない自分に気がついたり、無事大学に入学してもサークルが楽しすぎて卒業が危なくなったりすれば、自分が幼かったのだと気がつくことができるのだ。

 だが、インターネット上で匿名でジャッジすることに慣れてしまえば、治すタイミングを見失う。自分自身は論文を書いたこともなければ、大学院で修士号すら取得できずに退学したのだとしても、まるでどこかの大学教員を装って「こいつ論文数少なくね?」「旧帝大以外で院通ってて大丈夫なの?」と調子こいたことを言えてしまうのだから。

 残念ながら、ネット上において、虚偽や秘匿を含む批判は短期的には真実を言っている有益な意見と見做されることがある。そうすると、実社会で肯定化されていない分、こんなちょっとの肯定化ですら調子乗らせるポジティヴフィードバックがかかってしまい「自分は偶然に不運で上手くいかなかったが、こいつは運があるにも拘らず、ちゃんとしていない。引き摺り下ろせ!」となる。
 俺は言っていること自体は当たってる!俺は何者でもないが、運さえあれば、有能なんだ!だから結局この社会は親ガチャじゃないか!すべては運じゃないか!と、根拠のない学説を盲信することを厭わなくなる。そして、運よく目立っている(と彼らが思い込んでいる、実名で世に出ても恥ずかしくない勇気のある)人を叩くことで、自分の承認欲求を満たそうとするのである。

 そう、匿名文化による功罪は、コンプレックスと嫉妬を増幅しやすくし、現実にも虚偽や話を盛ることに罪悪感が薄れてしまうことである。
 そして、それらをさらに煽るコンプレックス商法とも言えてしまうYouTubeチャンネルやインフルエンサーが日銭を稼ぐことに一生懸命になるのだ。そいつらを真に受ける若い世代が、あの頃の俺と同じように、自分の現状を棚上げにして、時期が来ていないことを大義名分に、「東大以外はクソ」などの腐った言説に対して自分なりの”適切な批判”を考えることに一生懸命になる。しかし、あの頃のように、その態度を治すタイミングはない。いつまででも自分を装ってしまえるから。
 時間が経てば経つほど、自分が決めた設定とキャラクターをself-consistentにするための一手を打ち辛くなり、本来の自分自身を侵食していく。もうどうしようもなくなったときに、人はアカウントそのものを消したり、名前を変えたりする。そんなことを何度も何度も繰り返す。自分が何者であるかにこだわるくせに、一貫性がまったくない。

 こうなってくれば、匿名文化を維持している皆にとって嫌なことを言う人は敵であり、それがいくら真実や再現性に基づく帰結であったとしても、批判の的となる。
 その現象をホワイト化と名前をつけたり、単に「コミュニケーション能力が重要」などと馴れ合ってみたりするのは自由なのだが、今よりも犠牲を減らすためには時に科学的事実などについては、みんなにとって嫌なことでもハッキリと主張せねばならないことも多々ある。それを日本語の使い方の問題にすり換えたりすることは簡単なのだが、そういった誤魔化しを正当化してしまうからこそ「auで復旧しないのをどうにかしろよ!」などと”お気持ち”を表明し続けることが正当化されてしまったりするのだ(みんな去年のことはもう忘れちゃったかな)。

 もはや「日本お気持ち国」と「日本科学立国」に分けるしかないのだが、問題はもっと深刻である。

 「お気持ち」を重視する人が「科学的事実」を重視する人よりも多いことは世の常である。俺もどちらかを選べと言われれば、事実よりも気持ちを選ぶし、実際多くの人はそうではないかと思うのだ。
 が、「匿名で人を叩きたい」という腐った気持ちを踏みにじらないようにと、さらに、その望みを叶え続けてしまった結果生じてしまっている"ジャッジと現実の乖離"を目の当たりにさせないためにと、個々人の(どうでもいい)立場と顔に泥を塗らないようにしていくのは、昨今の日本社会では限界なのだ。ただでさえ危機的状況なのに、自分はレベル100の人間をジャッジする暗闇に潜むエージェントだと信じてやまない多くの愚かな人たちのために、本当にレベル70くらいある人たちの言動を規制してしまうことになるのだから、危機はもっと増す。

 と、ここまで言われても、この記事に対しても、匿名で何かを言いたがってしまう。まだ気がつけない。

 「実名で書かないと何の意味もない」という価値観を浸透させ、匿名文化がもたらす功罪の根幹を潰さない限りは、相手にとって心地の良い、しかし長期的に見ればとんでもないことになる「薄っぺらな嘘」は肯定化され続けるので、今の体制派はほくそ笑むだろうし、一般庶民がみんなで損をし続けることになるだろうと思う。

 さて、ここまで読む体力があるくらいには賢いレベル10くらいの諸君、自分を晒すだけの勇気は持てたかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由の代償

2023-10-08 01:56:40 | Weblog
 戦いに疲れて呆れてしまった側から眺める景色は、どうしたって滑稽に観えてくる。
 いつまでもいつまででも何かの政治力学に翻弄され、その波に飲まれるせいで急かされて恐怖を抱きながら、一つのことに最適化していくことで陣地取りゲームをしていくやる気のない態度をせせら嗤って、自分だけ本質を掴みながらコスパ良く生きていけることは気分の良さを感じることだってある。

 バカげた勝負に一生懸命になる前に積分の一つでもまともにできるようになったらどうだろう。
 それに気がつくためにはまず寝ないといけないけど、寝る暇なんて無いと思い込むことで自分を正当化しているのだから、無理だろうなぁ。
 そういう時代が自分自身にもあったことを憂いながらも、差し伸べた手がいつも傷つけられてしまう状況では、どうにもできないじゃないか。

 などと思いながら夜空に煌く星々を見上げ、まだ会えたことのない、しかし誰よりも会いたいあなたへの想いを馳せる。

 近い将来、もう一度この不毛な戦いを繰り返す必要があるのだろう。それはきっと代理戦争というカタチになってしまうだろうし、だとしたら、まったく新しい世界に繰り出して、そこで戦ってみるほうがいくらかマシなんじゃないか、と思ったりする。

 この世界では、何かの繋がりを保とうとした際には、必ずこの空間に描像させなければならない。寒ければ寒いと言わなければ分からないし、ムカついたらその場を離れなければ理解されないし、この世界からいなくなりたい時は必死にアピールをしなければ支援してもらうことはできない。
 そして、大人になればなるほど、誰が誰よりも上だとか下だとか思いたい子供っぽい気持ちを巧妙に隠しながらも、上手に主張する術を学んでしまう。それを過学習してしまうようなシステムに身を置き、そのシステムのバカバカしさに気がついたとしても、システム全体から距離を置くことで孤立化することを自ら望み、自分以外のものすべてを蔑むことで溜飲を下げるやり方に帰着させたくはない。

 競争なんて起こさなくとも既に世界は危機に瀕している。すぐに競争にかかる取引コストの多さに気がつき、徐々に協力していかねばならない。
 馴れ合いを辞め、本当の意味で戦うべき物理現象に対抗していかなくちゃいけない。そのためには、この世界にあなたが必要で、俺たちは助けてもらうことを期待している。

 人は誰でも歳を取るし、歳を取れば自然と智謀知略も思いつくし、しかしそれと共に自分にとっての必然性が増えていき、確立したお決まりのパターンが原因で次第に何もできなくなっていってしまう。
 その鼓動がいつか止まってしまう時、このヘンテコな世界をめいいっぱい楽しめたなという気持ちに、どうかなっていて欲しい。

 きっと、短いようで長くて、長いようで短い。きっと、大人っぽい子供のままに、子供っぽいままの大人になっていく。
 そんな日々を笑い合えるように、自分自身の自由の代償として矢面に立たせてしまっている人たちに一瞥を投げることでリスペクトしながらも、自分なりに先に進んでいきたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君に期待しているよ

2023-07-13 02:00:43 | Weblog
 煩雑なことは何も理解しないままに尊敬されたい。
 この国に住む大多数の自分勝手な連中の、このちょっとしたズルい気持ちを叶えるために、有能な人間は常に抑制され、忙殺され続ける。

 きちんとステップを踏みさえすれば、誰でもきちんと理解できるような論理体系しか、この世には存在していない。しかし、ステップを踏めば・・・というエクスキューズはいつだって忘れがちであり、理解できる人と理解できない人には遺伝子レベルでの差異があるかのように語る人も珍しくない。
 そして、それを本気で捉えた人が、悔しさを滲ませ苦し紛れに、難しいことをしている人は趣味である、という解釈をする。それを流布することで立場を得ていき、徒党を組んでいく。きっとそれが何重にも起きてしまっているのが、今の状況なのかもしれないね。

 自分に理解できないものは価値のないものだ、という発想は稚拙だ。偉そうに上から「ワラワにわかるように説明してみよ」というバカは、まずは立場を下りてもらわねば公益性に欠ける。
 ひとがみんなのために実直にやっていることをまともに理解しようともせずに「必要な研究をしろ」「趣味の研究をするな」「儲かる研究をしろ」などと研究者に偉そうに話すわりに、具体性のない精神論に終始しながら、何かの制度やルール造りだけをするのであれば、そもそもあなたが邪魔なのであり、きちんと周囲を見渡して羞恥心を思い出せば良いだけなのではないだろうか、ということを、政治力学に翻弄されすぎて、理系ですらもみんな忘れているのである。必要なことしかしていないのにも拘らず、そういうことを風潮するクズが一人でもいれば、有能で本当に期待ある人からいなくなってしまうだけである。そして、別の場所で、本当に好き勝手にやり始めてしまう。

 好きなことをやることと、好き勝手にやることとは、圧倒的に違う。好き勝手にやりはじめてしまえば、それは、その時間を無駄にしてしまう。
 たとえば、「研究は自分だけのためにやるものだ」「自分の満足が目的だ」と開き直れば、それは結局のところ、自分自身の満足にもならない。というよりも、スタートラインにも立てないまま死んでしまうだろう。
 好きなことはどんなことだって、誰かのためになるし、実益になる。必然性を追いかけて、まともな誰かに心から「ありがとう」と言われるたび、それは間違っていなかったと噛み締めることができるだろう。

 くだらないヤツほど、君に対して「期待している」と言ってくるだろう。俺様が退屈にならないように何か面白いものを持ってきてくれ、と言っているのに他ならない。そんな状態のヤツは物理現象だと思った方が有意義だ。
 定型文を簡単に言うことで、とりあえず対応できたと思い込んでいる人を、実質的にも精神的にもきちんと捨て去って、身の程を気がつかせてあげるためには、その期待の言葉に具体性と気持ちを同時に抽出してくること。君は、それができなきゃいけない。

 そのためにはまず何よりも、君自身が本気で「できる」と思っていなきゃ、どこまでいっても達成されないし、最悪の場合、誰かに「達成した」ということにさせられるだけである。
 達成できていないのに、その力が備わっていないのに、カタチだけ達成してしまうことほど怖いことはない。どんどん生気がなくなっていき、目が死に、身も心も不健康になるだろう。それほどに麻薬は恐ろしいものだし、怖いのは本人は良いものを摂取しているのに悪化するから、自分だけでなく他者にも、とんでもない不利益を被る可能性がある。

 自分で押したやる気スイッチなら自分以外の誰も消すことはできないが、誰かに押されたやる気スイッチはいつでも消される可能性がある。その恐怖と常に隣り合わせで生きていくよりも、まずは自分自身が「できる」と思いながら、煩雑なことでも一つひとつのステップをちゃんと踏んで、レベルアップしていこうぜ。
 ・・・きっとこれを読んでいるであろう君に、俺は期待しているよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする