秋葉原無差別殺人事件こ犯人の死刑が執行された。
如何に重大犯罪者であってても命も大事。変わりはない。
その大切な命を無差別に奪い、多くの人の人生を絶ち切った彼の行為は許されない。絶対に許されない。しかし、いかに許されない罪を犯した人であっても、国家は人の命を奪ってはならないのだ。死刑は許されないのだ。
国家は人によって形成され、支えられる。もし人が居なれば国家は存在し得ない。国家が人を殺すということは自己の存在を否定することでもあると、俺は思っている。
無惨に殺害された人の悲しみ、苦しみ、悔しさ、痛みは想像を絶する。突然に愛する人を奪われた人の苦悩も同じだ。癒やすことなど出来ない。
だから、殺された人の傷みを抱える国民に対して、国家は癒やすシステムを作って対応すべきなのだ。日本は、ここでも自助しかない。
癒やされない人が「犯人を殺せ、許すな」と叫ぶのは当然だ。その声を隠れ蓑にした日本国家は民の声だとして死刑を存在させているが、それは個々の命の尊さを認めていない証であるのに国民の多くは正義の証でもあるかのように考えている。錯覚している。
日本に産まれ、日本に生きて、日本に暮らしている国民の人権と命を尊び、1人ひとりの人生を護り、総ての人々が幸せに生きられる国家とは、例え犯罪者の命であっても護るとする国家でなければならないと、俺は確信している。
国民の多くは秋葉原無差別殺人事件では、犯罪者を誹り、被害者に同情し、他人の不幸は蜜の味として事件を飲んでは忘れ去る。
そして、その不幸が自らに降り掛かって、初めて理不尽を知るのだ。
人による殺人が許されないように国家による殺人である死刑も許されない。
これを許し続ける限り、日本は人の人生と命が大切にされる国家にはなれないだろう。