桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

DNA鑑定に付いて

2010-06-08 | Weblog
裁判所に提出する必要と言われて住民票を貰いに行った。窓口には子供のころから親しい家の娘がいて、少し話したが、検察の抵抗を案じていた。
DNA鑑定と言えば、社会の人はみな、足利事件を考えて「犯人を見つける、無罪を証明する」と思うようだ。そう単純じゃないのに。
当たり前の話だが、DNA鑑定をするには、その対象物の証拠品を慎重に取り扱い、厳重に保管しなければならない。触った人のDNAも鑑定では発見されるから、触れた人の全員を明確にして、そのDNAを調べて発見される数値から取り除かなければ、正しい鑑定は出来ない。
ところが布川事件では、俺たちのしか鑑定しないらしいのだ。証拠品として目の前に出され、机に置かれたのだから、その際、唾が飛んだかも知れないし、皮膚片が付着したかも知れない。だから絶対に付かないと証明されない限り、たとえDNAの俺の数値が現れても犯人の証明とはならない。もちろん、43年も過ぎた証明品だからDNAが出なかったとしても無実の証明とはならない。有罪の証明にも無罪の証明にもならない鑑定を、なぜやりたいと拘るのか。そこに検察の本心があるね。

取材

2010-06-08 | Weblog
このところ三者協議が近くなったせいか、取材の要請も多くなった。
昨日も新聞社からの取材が3時間くらいあった。獄中日記から始まり、総ての月日にわたる質問があって、自分では忘れていることなども思い出しながら話した。
その記者の話の中で、一番考えさせられたのは、俺の獄中日記にある記述を指摘してくれたことだ。
「日記の中に、自分が将来、無実になったときはマスコミを使って捜査機関に復習する」と書いてあると言う。もちろん、忘れている。今、俺がしていることは捜査機関に苦渋を与えていると記者の方は言うのだが、確かに、そうかも知れない。捜査手段を改められない警察と検察は、如何にして布川事件の再審裁判を切り抜けるか、今は必死だろう。DNA鑑定などと言い、何の意味もないことをしたがるのも、誤りを認めないで検察は正しいと主張する手掛かりを求めているからだろう。しかし、無駄な抵抗だし、悪あがきき過ぎない。醜い抵抗をすればするほど、マスコミは私の怒りに共感してくれるし、無実の証拠を隠しても許される検察官の問題性や裁判制度の欠陥に対して改正すべきだと訴える私の言葉に力を貸してくれる。
言葉は怖いね。43年前、無実の罪の憤慨を吐き出したに過ぎない言葉だったのだろうが、確かに今、マスコミを使って捜査機関に復習を始めている。まだ始まったばかりだけどもの。