かつて「親が長生きするのも子にとってはストレス」とつぶやいていた母。彼女の両親つまり私の祖父母は96歳と99歳まで生きた。共に長生きだったのだから本人たちにとっては人生を全うした大往生で幸せな最期だったと思う。しかも介護は全て娘たちの手によるものでこれ以上のものはない、って感じだった。端から見ているだけの私はのん気にしていたが実際に手を貸し続けていた娘たちはどれだけ大変だったか。祖父母には娘3人と息子がひとりの4人の子がいた。介護の担当は殆どが長女である伯母。距離的に近くに住んでいた事もあるがその為に近くを選んで住んだとも言えるようだ。その次に手伝っていたのが次女の母。三女は体が弱かったし長男に至っては長々と同居こそしていたが嫁姑問題で論外。つまり長女と次女のふたりが交代で介護の負担を背負った。介護保険などない10年~20年前の話。当時60代にもかかわらず頑張っていた娘達。今、自分が介護をされる立場になって昔を思い出しているとしたら”ごめんなさい。全くその気がありません”とは言い出し難い。けど、40代でもそんなの無理でっせ、と思うのに昭和ひとケタのあの世代は何でも引き受け、耐え続けていたのは何故? やっぱり戦争の時代に育ったせいか。我慢我慢で生きてきてここでも耐えている。どこかおかしい。そして悲しい。かと言って楽な老後をプレゼント出来ずにいる自分にも腹が立つ。が、何が出来る?
両親が高齢になったので今回は実家ではなく、親族が揃って旅路で正月を迎えた。家で皆が集まると楽しいには違いないのだが、用意や後始末を殆ど母ひとりが担いかなりな負担となる。その為初めて、旅に出ての正月としたのだ。メンバーは雪山行きで忙しいダンナを除いた両親と姉夫婦、我がふたりの息子たち、それに私の計7名。行き先は雪国の越後湯沢。クリスマスまでは雪がなかったらしいが年末から年始にかけては結構な降雪量。2日から4日の滞在中も振りっぱなし。おかげで普段とは異なる情緒ってんですか、そんな雰囲気も味わい楽しかった。米どころだけあってお酒も大そう美味しく呑んべい一家にとっては何より。風呂に入り休んでは乾杯の繰り返し。これから何回このような時を持てるのかは分からないが大切に過ごしたいとしみじみ思った。のん気にこんな事が言えるのはとても幸せなのだ。こうした時間は失ってみて初めてその大切さに気づくとも言われているが、この時間が味わえる環境にいるうちにそれに気づけて良かった。「年をとる事は嫌な事ばかりではないよ」と言っていた父の言葉も耳に残ったし、いろいろと考えさせられた正月だった。うーむ!?
あー、また新しい年! 当たり前の様に迎えているがこのところ新しい年が来る事が怖い。そんなアホな。と思う人もいるだろうがそんな思いで新年を迎えている人も結構いるのでは? 特に今年はえらく大変な思いで年越しをした人も数多い事でしょうから。さて、我が身。どうやって過ごして行ったもんだか。毎度の事ながら本当に悩んでいる。これっと打ち込める物をしっかりとさせていないと生きる気力が失せていく。いい年をして何甘っちょろい事を言っているのか。情けない。が正直な気持ちは隠せない。今後どう過ごすのか。逃げていないでしっかりと向き合わねば。新年にそんな事を思う。