22日に指された第5期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が10勝,加藤桃子女流三段が10勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
振駒で西山三冠の先手となって5筋位取り中飛車。穴熊を目指しました。
ここで後手は☖7三桂と跳ねました。これは仕掛けを誘発する危険な一手でした。☖3三角から組み合って一局という将棋。ただ先手が香車を上がったところなので,そのまま攻めてくるのはやりにくいと判断するのは理解できます。
☗7五歩が機敏な仕掛け。後手は☖6五桂と跳ねました。ここは☗9五角も有力ですが,含みに残して☗6八角と引きました。
☖7二飛☗7四歩☖同飛としたところで☗9五角。
ここで☖7二飛と引いたのですが☗7四歩と打たれ,これ以降は先手の一方的な将棋になりました。第2図は☖7三歩と打っておけば,そんなに簡単ではなかったように思われます。
西山三冠が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負は初出場。第一局は7月12日に指される予定です。
第二部定理一六系二でいわれていることのうち,より多くということに何か特別の意味があるというように解する必要はありません。この系Corollariumで最も重要なのは,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じるXの表象像imagoは,Xの本性naturaとその人間の身体humanum corpusの状態の双方を表示しているということです。そしてこの系ではいわれていませんが,現実的に存在する人間の精神のうちに自分の身体の表象像が生じる場合も,それはその人間の身体の状態だけを表示しているわけではなくて,自分の身体の状態と,自分の身体を刺激している外部の物体corpusの本性をも表示しているということです。つまり,人間の精神のうちに生じる外部の物体の表象像が表示しているのは,自分の身体を刺激している限りでのその物体です。同様に,人間の精神のうちに生じる自分の身体の表象像は,何らかの外部の物体に刺激されている限りでの自分の身体なのです。僕たちの精神は,外部の物体に刺激されなければその物体を表象するimaginariことはありません。これは第二部定理二六でいわれていることです。同様に,僕たちは外部の物体に刺激されないのであれば自分の身体を表象するということはありません。これは第二部定理一九でいわれていることです。つまりこれらのことは,僕たちが自分の身体および外部の物体を表象する場合には,そのすべての場合に妥当することになります。
第二部定理一六系二をこのように解すれば,第二部定理一一系を援用して僕がいったこと,つまり,ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念ideaを有する限りで神Deusのうちに十全な観念idea adaequataがあるという場合に,その人間の精神のうちに混乱した観念idea inadaequataが生じるとき,ほかのものの力potentiaが人間の精神の力より多く表現されているからそれは受動passioであるということも,何らの矛盾なしに成立するといえるでしょう。僕は僕自身の見解opinioが誤っている可能性があるということは認めますが,両立すると解することができるのは間違いないので,人間の精神が何らかの混乱した観念を形成することに関する力の比較については,この路線で解釈します。
それでは第三部定理三九の愛amorと憎しみodiumを合わせてまとめておきましょう。
振駒で西山三冠の先手となって5筋位取り中飛車。穴熊を目指しました。
ここで後手は☖7三桂と跳ねました。これは仕掛けを誘発する危険な一手でした。☖3三角から組み合って一局という将棋。ただ先手が香車を上がったところなので,そのまま攻めてくるのはやりにくいと判断するのは理解できます。
☗7五歩が機敏な仕掛け。後手は☖6五桂と跳ねました。ここは☗9五角も有力ですが,含みに残して☗6八角と引きました。
☖7二飛☗7四歩☖同飛としたところで☗9五角。
ここで☖7二飛と引いたのですが☗7四歩と打たれ,これ以降は先手の一方的な将棋になりました。第2図は☖7三歩と打っておけば,そんなに簡単ではなかったように思われます。
西山三冠が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負は初出場。第一局は7月12日に指される予定です。
第二部定理一六系二でいわれていることのうち,より多くということに何か特別の意味があるというように解する必要はありません。この系Corollariumで最も重要なのは,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じるXの表象像imagoは,Xの本性naturaとその人間の身体humanum corpusの状態の双方を表示しているということです。そしてこの系ではいわれていませんが,現実的に存在する人間の精神のうちに自分の身体の表象像が生じる場合も,それはその人間の身体の状態だけを表示しているわけではなくて,自分の身体の状態と,自分の身体を刺激している外部の物体corpusの本性をも表示しているということです。つまり,人間の精神のうちに生じる外部の物体の表象像が表示しているのは,自分の身体を刺激している限りでのその物体です。同様に,人間の精神のうちに生じる自分の身体の表象像は,何らかの外部の物体に刺激されている限りでの自分の身体なのです。僕たちの精神は,外部の物体に刺激されなければその物体を表象するimaginariことはありません。これは第二部定理二六でいわれていることです。同様に,僕たちは外部の物体に刺激されないのであれば自分の身体を表象するということはありません。これは第二部定理一九でいわれていることです。つまりこれらのことは,僕たちが自分の身体および外部の物体を表象する場合には,そのすべての場合に妥当することになります。
第二部定理一六系二をこのように解すれば,第二部定理一一系を援用して僕がいったこと,つまり,ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念ideaを有する限りで神Deusのうちに十全な観念idea adaequataがあるという場合に,その人間の精神のうちに混乱した観念idea inadaequataが生じるとき,ほかのものの力potentiaが人間の精神の力より多く表現されているからそれは受動passioであるということも,何らの矛盾なしに成立するといえるでしょう。僕は僕自身の見解opinioが誤っている可能性があるということは認めますが,両立すると解することができるのは間違いないので,人間の精神が何らかの混乱した観念を形成することに関する力の比較については,この路線で解釈します。
それでは第三部定理三九の愛amorと憎しみodiumを合わせてまとめておきましょう。
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