25日と26日に花の里温泉で指された第69期王将戦七番勝負第二局。
広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。僕には先手に華麗な決め手が出た将棋と思えたのですが,実際は途中で後手の渡辺明王将に選択ミスがあり,その前から先手がリードを奪っていたようです。
後手が6三の銀を上がったところ。ここで先手は☗5六桂とその銀取りに打ちました。後手は☖7五歩で攻め合い。先手は☗4四歩☖同歩の突き捨てを入れておいて☗6四桂と銀を取りました。これは☖同馬の一手。そこで☗6五桂とただのところに跳ねたのが,僕が最初にいった華麗な決め手と感じた一手です。
ここでは☖7六歩から攻め合えないといけないのですが,それは無理なのだそうです。よって☖同馬と取りましたが☗2四飛が継続の一手。☖同歩は☗4三銀ではっきり負けなので☖4二王と逃げ出そうとしましたが,飛車は見捨てて☗2二馬と取ってしまい☖2四歩に☗6二銀と打ちました。
先手玉に対しては攻め手がないため,これで大勢が決しています。
広瀬八段が勝って1勝1敗。第三局は来月8日と9日です。
第五部定理二九は,自分の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に考えるconcipereことによって,現実的に存在する個物res singularisを永遠の相の下に認識するcognoscereといっていると解するのが適切です。この認識cognitioというのは,理性ratioによる認識ではなく,第三種の認識cognitio tertii generisです。すでに説明したように,理性による認識の基礎は共通概念notiones communesですが,この認識の基礎となっている,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識というのは,共通概念ではないからです。いい換えれば理性による認識の基礎となるのが共通概念であるとすれば,第三種の認識の基礎となるのが,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識であるということをこの定理Propositioはいっているのです。
この認識を基礎として,現実的に存在する個物を永遠の相の下に認識するのですから,ものを永遠の相の下に認識することは,第三種の認識の本性naturaに属するということができるでしょう。ですから第一部定理一六でいわれている無限に多くのinfinitaものは,必ずしも一般的なものの本性だけをいうのではなくて,現実的に存在するものの本性を含んでいると解することもできます。ただし第一部定理一六をどのように解するべきであるかということについては,ここでは結論を留保します。少なくともこの定理は,第一部定理二三や第二部定理八および第二部定理八系とも齟齬を来さないように解することもできますし,第五部定理二九とも齟齬を来さずに理解することができることは確かです。
第二部定理八や第二部定理八系は,理性による認識によって個物を一般的な意味で永遠aeterunusであるとみなすことができるということを示します。少なくとも第二部定理八備考の比喩が成功しているならそうです。それを永遠であるとみなすことができることは第二部定理四四系二から不自然ではありません。ですがそこでは永遠であるとみなすことができるという条件から外されている,現実的に存在する個々のものもまた,永遠の相の下に認識することができるのです。してみると,理性による認識の永遠の相と,第三種の認識における永遠の相は,理性と第三種の認識が区別されるのと同じように,本来的には区別されるべき永遠の相なのではないかという疑問が生じます。
広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。僕には先手に華麗な決め手が出た将棋と思えたのですが,実際は途中で後手の渡辺明王将に選択ミスがあり,その前から先手がリードを奪っていたようです。
後手が6三の銀を上がったところ。ここで先手は☗5六桂とその銀取りに打ちました。後手は☖7五歩で攻め合い。先手は☗4四歩☖同歩の突き捨てを入れておいて☗6四桂と銀を取りました。これは☖同馬の一手。そこで☗6五桂とただのところに跳ねたのが,僕が最初にいった華麗な決め手と感じた一手です。
ここでは☖7六歩から攻め合えないといけないのですが,それは無理なのだそうです。よって☖同馬と取りましたが☗2四飛が継続の一手。☖同歩は☗4三銀ではっきり負けなので☖4二王と逃げ出そうとしましたが,飛車は見捨てて☗2二馬と取ってしまい☖2四歩に☗6二銀と打ちました。
先手玉に対しては攻め手がないため,これで大勢が決しています。
広瀬八段が勝って1勝1敗。第三局は来月8日と9日です。
第五部定理二九は,自分の身体corpusの本性essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に考えるconcipereことによって,現実的に存在する個物res singularisを永遠の相の下に認識するcognoscereといっていると解するのが適切です。この認識cognitioというのは,理性ratioによる認識ではなく,第三種の認識cognitio tertii generisです。すでに説明したように,理性による認識の基礎は共通概念notiones communesですが,この認識の基礎となっている,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識というのは,共通概念ではないからです。いい換えれば理性による認識の基礎となるのが共通概念であるとすれば,第三種の認識の基礎となるのが,自分の身体の本性を永遠の相の下に考える認識であるということをこの定理Propositioはいっているのです。
この認識を基礎として,現実的に存在する個物を永遠の相の下に認識するのですから,ものを永遠の相の下に認識することは,第三種の認識の本性naturaに属するということができるでしょう。ですから第一部定理一六でいわれている無限に多くのinfinitaものは,必ずしも一般的なものの本性だけをいうのではなくて,現実的に存在するものの本性を含んでいると解することもできます。ただし第一部定理一六をどのように解するべきであるかということについては,ここでは結論を留保します。少なくともこの定理は,第一部定理二三や第二部定理八および第二部定理八系とも齟齬を来さないように解することもできますし,第五部定理二九とも齟齬を来さずに理解することができることは確かです。
第二部定理八や第二部定理八系は,理性による認識によって個物を一般的な意味で永遠aeterunusであるとみなすことができるということを示します。少なくとも第二部定理八備考の比喩が成功しているならそうです。それを永遠であるとみなすことができることは第二部定理四四系二から不自然ではありません。ですがそこでは永遠であるとみなすことができるという条件から外されている,現実的に存在する個々のものもまた,永遠の相の下に認識することができるのです。してみると,理性による認識の永遠の相と,第三種の認識における永遠の相は,理性と第三種の認識が区別されるのと同じように,本来的には区別されるべき永遠の相なのではないかという疑問が生じます。
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