第四部定理六六の残された課題について論理的に考察していく前に,結論めいたことになってしまいますが,いっておきたいことがあります。
悪malumの確知が十全な認識cognitioであり得るということを示していく過程の中で僕は,もしも今日は100円を入手できるけれどもそれを断念すれば明日は1000円を入手できるのであれば,よほどの事情がない限りは明日の1000円の方を選択するであろうということを例として用いました。この例示が成立しているとするならば,これとは逆のこともいえるのでなければなりません。すなわち,もしも今日は100円を支払わなければならないが,それを拒否すれば明日は1000円を支払わなければならないとしたら,僕たちはよほどの事情がない限りは今日の100円を支払うことにするでしょう。この場合,100円を支払うことも1000円を支払うことも悪であって,僕たちは未来の大なる悪よりも現在の小なる悪を選択しているということになります。これは第四部定理六六にそのまま妥当しています。したがって,この例からしてこの定理Propositioは,僕たちが悪を認識するcognoscere場合にも成立しているということになるでしょう。
第四部定理六五は,僕たちが理性ratioに従っていようといまいと成立するのですから,そこから帰結する筈の第四部定理六六にもそれは妥当します。しかし,100円を入手することと1000円を入手することを比較するときには理性に従ってそれらを認識することができるけれども,100円を支払うことと1000円を支払うことについては僕たちは表象imaginatioでしかそれを認識することができないというのは無理があると思います。確かに未来の大なる悪が現在の小なる悪を上回るような悪であると表象される限り,僕たちは明日の1000円よりも今日の100円を支払おうとするでしょうが,それは理性に従っていた場合には必ず明日の1000円の方が大なる悪と認識されるわけですから,このことを一般的に示すことが可能になるのです。
このことから分かるように,おそらく第四部定理六六でいわれていることは,成立するのです。なのでそれがいかに第四部定理六四と両立するのかという観点から,この課題は探求されなければならないでしょう。
これらの点から推測すると,デカルトRené Descartesやスピノザが,空虚vacuumは存在しないということを,哲学とは無関係な物理学的な観点から主張していたという可能性はきわめて低いように僕は思います。他面からいえば,デカルトが物理学的に空虚は存在しないと主張するとき,これは万有引力説を否定して渦動説を主張するときという意味を含みますが,それは純粋に物理学的にそう主張したというよりも,自身の哲学的帰結からそのように主張したと解する方がよいと僕は思います。このことは,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleと議論するときにも該当するのであって,ボイルは哲学的観点は無関係に単に物理学的に物事を主張するのに対して,スピノザは哲学的観点からそれを帰結させようとしています。つまりこの点ではデカルトとスピノザの間に一致があるのであって,それに対応させればボイルやニュートンIsaac Newtonの間に一致があるといえるでしょう。
僕は基本的にこのような対立は,上述したようなものなのであって,物理学的な結論に関わるものではないと解します。万有引力説と渦動説の対立は万有引力説が正しかったというべきだし,スピノザとボイルとの間での硝石に関する対立も,ボイルの方が正しかったというべきだと思いますが,あくまでもそれは結論に関する正しさなのであって,空虚が存在するかしないかという点に関しての正しさではないというべきです。ニュートンについてははっきりとは分かりませんが,少なくともボイルはそういうことを主張しようとしていたわけではなく,それに限らず哲学的観点には一切の関心もなかったと僕は思います。
さらにもうひとつ,國分はボエティウスAnicius Manlius Torquatus Severinus Boethiusやトマス・アクィナスThomas Aquinasが偶然というのをどのように解しているのかという説明をしていました。このとき,偶然が発生するためには,因果関係の系列が複数ある必要があり,かつある因果関係の系列と別の因果関係の系列との間には空虚がなければならないのでした。ボエティウスやアクィナスが,偶然をどのように考えていたのかは別として,そのときに空虚があるというにせよないというにせよ,その空虚というのを物理学的な意味における空虚と考えていたとは思えません。
悪malumの確知が十全な認識cognitioであり得るということを示していく過程の中で僕は,もしも今日は100円を入手できるけれどもそれを断念すれば明日は1000円を入手できるのであれば,よほどの事情がない限りは明日の1000円の方を選択するであろうということを例として用いました。この例示が成立しているとするならば,これとは逆のこともいえるのでなければなりません。すなわち,もしも今日は100円を支払わなければならないが,それを拒否すれば明日は1000円を支払わなければならないとしたら,僕たちはよほどの事情がない限りは今日の100円を支払うことにするでしょう。この場合,100円を支払うことも1000円を支払うことも悪であって,僕たちは未来の大なる悪よりも現在の小なる悪を選択しているということになります。これは第四部定理六六にそのまま妥当しています。したがって,この例からしてこの定理Propositioは,僕たちが悪を認識するcognoscere場合にも成立しているということになるでしょう。
第四部定理六五は,僕たちが理性ratioに従っていようといまいと成立するのですから,そこから帰結する筈の第四部定理六六にもそれは妥当します。しかし,100円を入手することと1000円を入手することを比較するときには理性に従ってそれらを認識することができるけれども,100円を支払うことと1000円を支払うことについては僕たちは表象imaginatioでしかそれを認識することができないというのは無理があると思います。確かに未来の大なる悪が現在の小なる悪を上回るような悪であると表象される限り,僕たちは明日の1000円よりも今日の100円を支払おうとするでしょうが,それは理性に従っていた場合には必ず明日の1000円の方が大なる悪と認識されるわけですから,このことを一般的に示すことが可能になるのです。
このことから分かるように,おそらく第四部定理六六でいわれていることは,成立するのです。なのでそれがいかに第四部定理六四と両立するのかという観点から,この課題は探求されなければならないでしょう。
これらの点から推測すると,デカルトRené Descartesやスピノザが,空虚vacuumは存在しないということを,哲学とは無関係な物理学的な観点から主張していたという可能性はきわめて低いように僕は思います。他面からいえば,デカルトが物理学的に空虚は存在しないと主張するとき,これは万有引力説を否定して渦動説を主張するときという意味を含みますが,それは純粋に物理学的にそう主張したというよりも,自身の哲学的帰結からそのように主張したと解する方がよいと僕は思います。このことは,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleと議論するときにも該当するのであって,ボイルは哲学的観点は無関係に単に物理学的に物事を主張するのに対して,スピノザは哲学的観点からそれを帰結させようとしています。つまりこの点ではデカルトとスピノザの間に一致があるのであって,それに対応させればボイルやニュートンIsaac Newtonの間に一致があるといえるでしょう。
僕は基本的にこのような対立は,上述したようなものなのであって,物理学的な結論に関わるものではないと解します。万有引力説と渦動説の対立は万有引力説が正しかったというべきだし,スピノザとボイルとの間での硝石に関する対立も,ボイルの方が正しかったというべきだと思いますが,あくまでもそれは結論に関する正しさなのであって,空虚が存在するかしないかという点に関しての正しさではないというべきです。ニュートンについてははっきりとは分かりませんが,少なくともボイルはそういうことを主張しようとしていたわけではなく,それに限らず哲学的観点には一切の関心もなかったと僕は思います。
さらにもうひとつ,國分はボエティウスAnicius Manlius Torquatus Severinus Boethiusやトマス・アクィナスThomas Aquinasが偶然というのをどのように解しているのかという説明をしていました。このとき,偶然が発生するためには,因果関係の系列が複数ある必要があり,かつある因果関係の系列と別の因果関係の系列との間には空虚がなければならないのでした。ボエティウスやアクィナスが,偶然をどのように考えていたのかは別として,そのときに空虚があるというにせよないというにせよ,その空虚というのを物理学的な意味における空虚と考えていたとは思えません。
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