スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

海と宝石①&補完

2016-08-21 19:13:41 | 歌・小説
 「波の上」や「時代」は,意味を両様に解せます。どちらかの解釈が正しいと判定できるものではありません。ですがことばの上ではいくつかの意味に解せても,ある解釈が正しいという場合もあります。僕が以前は誤って解釈していた曲に「海と宝石」があります。
                                     
 「吹雪」は部分的には意味が不明なところがあります。それはこの曲がひとつの物語にはなっていないことが影響しています。「海と宝石」はひとつの物語になっていて,全体的な意味が僕にはまったく分かりません。これらふたつの事柄をおそらく3回か4回に分けて説明します。

     臆病な女を 抱きしめて
     蒼ざめたうなじを あたためて
     かもめたち ぽつりと 振り返る
     宝石に映った 朝陽を見る


 これは冒頭部分で,僕が誤って解釈していた部分です。
 僕は当初,カモメたちが女を抱きしめつつ振り返ったら,そこに宝石が落ちていて,その宝石に昇りつつある朝日が映っていたと解釈していました。カモメが人間を抱きしめるのは異常ですが,ことば上の意味としては成立していると思います。
 ですが15年以上前,職場の同僚にそれは間違いだと教えられました。最初の二行は女が海に向かって独白しているのです。海には何羽かのカモメが飛んでいて,声が聞こえたので振り返ります。その女は宝石を身につけていて,そこに昇る朝日が映じていたのです。これなら意味も成立する上,状況的にもおかしなところはありません。
 今から思うとなぜそんなおかしな解釈をしていたのかが不可解です。けれどもこの部分に関しては,僕にも確かな意味が理解できるようになりました。

 条件①が,知性intellectusが創造されない事物を認識するために,定義される事物以外の概念conceptusに依拠してはならないという意味であるとすれば,自己原因causa suiも起成原因causa efficiensのひとつと考える限り,その定義のうちに定義される事物の起成原因が含まれていてはならないという意味ではないことになります。むしろ起成原因として,定義される事物以外の事物が含まれていてはならないということになるでしょう。逆にいえばそれは,創造されない事物は自己原因として認識できるように定義されていなければならないという意味になります。
 第一部定義一から分かるように,自己原因の本性にはその存在が含まれています。したがって知性はあるものを自己原因と認識したら,そのものが存在しないと概念するconcipereことはできません。つまり条件①をこう解するなら,それだけで条件②も満たされているといえます。さらにいうと条件②は,単に知性がそのように定義されたものが必然的に存在すると概念するという意味だけを有するのではありません。たとえ知性を離れて,その事物が知性の外にあると把握される場合にも,その事物が必然的に存在する,すなわち形相的に存在するということも担保します。条件①が満たすそれ自身によって概念されるということと,条件②が形相的な意味で満たすそれ自身によって存在するということは,スピノザはすでにみたように同じことであると考えていると解することができるからです。ですから条件①と条件②は矛盾するどころか,互いに互いを補完し合うような関係にあることが分かります。
 さらに僕の見解をいえば,創造されない事物の定義がこれらふたつの条件を満たすために,条件③は必然的に要求されるのです。抽象的に認識されたものがそれ自身によって認識されるというのは,ことばの上では可能かもしれませんが,思惟作用としては絶対に不可能です。抽象化はそれ自身から発生する思惟作用ではないからです。さらに抽象的なものが必然的に存在するというのは,ことばの上でも不条理です。これは実在的でないものすなわち無であるものが有であるといっているに等しいからです。だからこれは品詞の問題ではないと僕は解します。

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