スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

夏目漱石『こころ』をどう読むか&中立的な良心

2024-07-10 19:03:16 | 歌・小説
 先月のことになりますが『夏目漱石『こころ』をどう読むか』という本を読み終えました。2014年5月に河出書房新社から発売された本が,2022年12月に増補版として出版され,僕が読んだのはその増補版の初版です。増補版には2本のエッセーと1本の評論,そして三者対談がひとつ,新しく収録されています。
                                        
 新しく収録されたものから分かるように,この本は多くのエッセーおよび評論から構成されています。編者は石原千秋です。もちろん本の題名から理解できるように,すべての評論とエッセー,そして対談はすべて『こころ』と関係しています。ただし関連の度合はきわめて高いものあればそうでないものも含まれます。評論はともかくエッセーの方はその割合が高く,『こころ』について語られているけれども,その主題は必ずしも『こころ』にあるわけではないというものも含まれています。
 三者対談も含めた対談が4本。エッセーは10本。評論は8本。このほかに柄谷行人および吉本隆明の講演が2本。これ以外に冒頭と末尾に編者である石原の文章が掲載されています。これだけのものを1冊の本に収録したわけですから,評論もそれほど長いものが含まれているわけではありません。
 なお,評論の中には,すでに僕が読んでいたものもあります。石原千秋の「眼差しとしての他者」は初出は「東横国文学」ですが,『反転する漱石』の中に収録されています。また小森陽一の「『こころ』を生成する心臓」は,初出が「成城国文学」で,ちくま文庫版の『こころ』の解説として掲載されています。
 エッセーの中にも評論の中にも,僕にとって興味深いものが多く含まれていました。それらについては徐々に紹介していくことにします。

 このことからスピノザが何を主張しているのかといえば,意識conscientiaが良心conscientiaを参照して自身の行動を決定するdeterminareというわけではないということです。あるいは同じことですが,僕たちをして善bonumにも悪malumにも舵を取らせることができる中立的な意識があるわけではないということです。むしろこの場合の意識は,僕たちの感情affectusを参照する限り,常に善か悪かの認識cognitioに至っているのです。ですからその感情の対象を善と認識するcognoscereか悪と認識するのかということは,僕たちが自身の感情を参照したときにはすでに決定されているのです。
 國分はこの部分では触れていませんが,このことは人間には自由意志voluntas liberaがないということと関連しているといえます。僕たちが善の方向にも悪の方向にも舵を取ることができないということは,僕たちは僕たち自身の自由意志によって善を選択したり悪を選択したりすることはできないということと同じだからです。ただここでは良心と意識の関係でこのことがいわれているのですから,そのことに注視する必要はありません。中立的な良心というものがないということが重要です。むしろ語源的な観点から,良心と意識が同じものであるとするならば,良心によって何事かを善であるとか悪であるというように判断するのではなくて,良心が悲しみを齎すなら僕たちはそのことを悪と判断し,逆に良心が喜びを齎すなら僕たちはそのことを善と判断するだけなのです。
 國分はこの後で,意識と良心の関係についての考察を続けていますが,そのことはすでに探求してありますからここでは省略します。ただ僕はここでひとつだけいっておきたいことがあります。それは,第四部定理三七備考一との関係です。かつて僕は,そこでいわれている宗教心religioというのが,僕たちが宗教心とか信心といった語で表そうとすることとはかなり隔たりがあるのであり,だからそこで畠中が,神を認識する限りにおいてすべての欲望cupiditasと行動を宗教心と関係させるとは訳さずに,宗教心に帰すると訳したのは適切だったといいました。ただ本来であれば,宗教心に変わる適切な日本語があるのなら,宗教心に変えてそちらの訳語を用いる方がなお適切であるだろうと僕は考えているのです。

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