スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロレスの神様&合併症の検査

2018-08-12 19:10:25 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第2章はプロレスの神様といわれるカール・ゴッチです。
                                     
 ゴッチは明らかに新日本プロレス寄りのレスラーで,馬場との接点はそう多くありません。ただ,対戦経験はあり,『馬場伝説』のインタビューの中では,馬場はどこかのグラウンドのような屋外の会場で,ゴッチが最も得意としていた技であるジャーマンスープレックスホールドを受けたことがあると語っています。これはたぶん日本プロレス時代に,ゴッチが来日していたときのことだと思われます。馬場にジャーマンスープレックスホールドを掛ける方も掛ける方ですが,受けた馬場も大したものです。確かに馬場とハンセンの初対決では馬場はショルダースルーを受けていますから,馬場は身体は大きかったですが柔らかさはあり,受け身はさほど苦にしなかったのでしょう。
 馬場とゴッチの接点で最も重要なのは,おそらく馬場がアメリカに遠征していた時代のことです。1962年7月25日,馬場はオハイオ州のコロンバスでNWA世界王者に挑戦することになっていました。当時の王者は馬場が真のネイチャーボーイというバディー・ロジャースです。ところがその試合直前の控室でゴッチはビル・ミラーとともにロジャースに対して暴行し,ロジャースは右腕の骨を折られてしまいました。結果的にタイトルマッチは消滅。ロジャースは3ヶ月ほど欠場した後,鉄人にNWA世界王座を明け渡すことになります。
 レスラー同士の控室での暴行といえば,超獣が殺されてしまった事件が有名です。ブロディは人格的に問題があったようですが,ロジャースもそうだったのでしょうか。門馬はこの事件の発端は興行に絡む話であったとしていますが,同時にオハイオにおいて絶対的なヒーローだったロジャースに対する妬みもあったとしています。僕はロジャースのプロレスはよく知りませんが,『1964年のジャイアント馬場』では,スターではあったがアスリートとして一流であったわけではなく,そこに馬場の憧れの原点があったとされています。ゴッチは実はスターではなく,アスリートとしては自身より劣るロジャースの人気に嫉妬したというのは,あり得ない話でもないように思えます。

 神経伝導の検査は予約時間が午前11時20分でした。ですからほぼ予約時間の通りに行われたことになります。この検査が終了すると,今度は受付に戻るようにという指示がなく,そのまま自律神経の検査が行われました。これが午前11時に予約となっていた検査です。この検査は最初の超音波の検査と同じくらいの時間を要したでしょうか。終了するとまたすぐに血圧脈波の検査を行うようにという指示が出されました。これは予約票では午後1時に予定されていたものです。検査はよっつでしたからこれが最後で,正午過ぎにはすべての検査を終えることができました。本来は最初の検査の開始が午前11時で,最後の検査の開始予定時刻が午後2時半となっていたわけですから,実にスムーズにすべての検査を終えることができたわけです。合併症の検査は以前にもしたことがありますから,検査は必ずしも予定されている時間に始まるものではなく,早く終えることができることもあり得るということは分かっていましたが,これほどすんなりと終るとは望外でした。
 僕はこの日は使用済みの注射針だけは持参していました。前週の月曜に処理したばかりなのですが,僕はわりと大きめの箱に入れますので,箱が一杯になったら処理し,次の箱が残るようになっています。その箱は一杯にはなっていませんでしたが,インスタントコーヒーの小瓶がちょうど空いたところで,大きめの箱に入れていた使用済みの針のいくつかをそちらに移し,持参していたのです。ただ中央検査室に到着したらすぐに検査が始まり,そのまま立て続けに続きましたので,すべての検査が終了してもまだその小瓶をカバンに入れたままでした。なのでこの日の注射針の処理は,すべての検査の終了後ということになりました。
 そのまま会計の受付だけして院内の食堂で昼食。その間に計算は終っていましたので,支払いをして帰りました。午後1時半には帰宅することができました。
 1月25日,木曜日。妹が卒業した養護学校の保護者による同窓会がありました。これは今までは横浜で開催されていたのですが,このときは磯子でした。これは母への配慮で,母も参加できました。
コメント
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