スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日本選手権競輪&身体の能動

2018-05-07 18:56:27 | 競輪
 平塚競輪場で開催された昨日の第72回日本選手権競輪の決勝。並びは山中‐和田の千葉,浅井に香川,脇本‐三谷‐村上義弘‐村上博幸の近畿で新田は単騎。
 浅井と和田がスタートを取りにいき,内の浅井が制して前受け。新田が3番手に入り4番手に山中。6番手から脇本という周回に。残り2周のバックの入口から脇本が上昇開始。一気に浅井を叩いて打鐘から先行。4番手に浅井,7番手に新田,8番手に山中の一列棒状に。脇本のスピードが秀逸で,村上博幸と浅井の差が開いたままなかなか追いつかずに直線を迎えました。番手有利に運んだ三谷が脇本を差し切って優勝。三谷マークの村上義弘が4分の3車身差で続いて2着。逃げ粘った脇本がタイヤ差の3着。村上博幸も1車身半差の4着に続いて近畿勢の上位独占。5着は上位4選手から4車身もの差がつきました。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は3月の玉野記念以来の優勝。昨年の日本選手権以来のビッグ2勝目で日本選手権連覇。このレースは脇本の先行が有力で,近畿勢にとっては有利な展開になるだろうことは予想できました。とはいえこんなに一本調子のレースになったのは驚き。これでは無風の番手の三谷にとっては優勝してくださいというレースだったでしょう。ほかのラインがあまりに無策であったといえばそうなのですが,それよりも脇本が強すぎたという内容に感じられました。

 観念ideaの本来的特徴denominatio intrinsecaがその真理性を決定するのであり,外来的特徴denominatio extrinsecaはその決定に関与することができということ,いい換えれば観念の真理性とは観念の十全性のことを意味するのであり,その観念が観念されたものideatumと一致しているということを意味しているわけではないということ,さらにその真理性すなわち十全性の保証は現実的に存在する人間にとって可能であるということ,とりわけそれが無限知性intellectus infinitusの一部を構成するものとしてでなく,それ単独でみられる精神mensにとって可能であるということはこれで説明することができました。そしてこのゆえに,スピノザの哲学で,外来的特徴からみられる真の観念idea veraと本来的特徴からみられる十全な観念idea adaequataは,ほぼ同一の意味であるけれど相違がある,いい換えれば,事物を真に認識するというのと十全に認識するというのとでは,ほぼ同一の意味であるけれど差異があるのであって,この相違の方が重要であると僕は考えているのです。
 したがってこの部分の考察はこれで終了としてもいいのですが,ふたつばかりいい添えておきたいことがあります。
                                
 ここでは観念の十全性についての保証を求めるために,現実的に存在している人間の知性あるいは精神の能動actio Mentisとは何を意味するかということを丹念に探求してきました。しかしスピノザの哲学では人間の能動と受動は精神にあっても身体corpusにあっても一律であるので,人間の精神が働いている場合はその人間の身体も働いているのです。このことはある人間の精神というのをひとつの観念の全体としてみるなら,その観念対象はその人間の身体であるということを示した第二部定理一三と,観念と観念されたものの原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoは同一であるということを示した第二部定理七から明らかです。ただ,そもそも人間の精神をその人間の身体の観念と規定すること自体が,スピノザの哲学における特異性であるといえなくもないので,この点は注意が必要です。つまり人間の精神あるいは知性の一部を構成する十全な観念が十全な原因causa adaequataとなっているときは,その人間の身体の中でも,何らかの物体corpusが十全な原因として運動motusないしは静止quiesしていると理解しておかなければならないのです。
コメント
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