スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京優駿&食あたり

2018-05-27 19:06:21 | 中央競馬
 第85回日本ダービー
 エポカドーロの逃げになりました。ジェネラーレウーノが2番手でダノンプレミアムが3番手。コズミックフォースが4番手でしたがこの3頭は集団。その後ろもテーオーエナジー,ワグネリアン,ブラストワンピースの順ではありましたが3頭が集団。ゴーフォザサミットとサンリヴァルがその後ろ。タイムフライヤーとステイフーリッシュがその後ろ。この後ろは単独でオウケンムーン。以下,ジャンダルム,グレイル,エタリオウ,と続き,キタノコマンドールとステルヴィオの2頭が一団の最後尾。少し離れてアドマイヤアルバが最後尾を単独で追走という隊列。最初の1000mは60秒8の超スローペース。
 直線に入って逃げるエポカドーロに並んでいったのがコズミックフォース。そしてその外にワグネリアン。ダノンプレミアムは内にいたため進路の確保が難しく,最終的にはエポカドーロとコズミックフォースの間へ。コズミックフォースが並ぶとエポカドーロがまた伸びるという感じで,エポカドーロはコズミックフォースの追撃は凌いだものの,コズミックフォースの外のワグネリアンが坂を上り切ってからまた伸び,エポカドーロを差し切って優勝。よく粘ったエポカドーロが半馬身差で2着。コズミックフォースがクビ差の3着。先行馬が上位を独占する中,差し脚を発揮したエタリオウがハナ差で4着。ワグネリアンとエタリオウの間のブラストワンピースがハナ差の5着でダノンプレミアムがアタマ差で6着。
 優勝したワグネリアンは昨年11月の東京スポーツ杯2歳ステークス以来の勝利で大レース初制覇。そこまで3連勝してクラシックの有力候補に。そのまま休養して今年の2戦は弥生賞が脚を測るような内容で2着。皐月賞は何らかの理由でまったく力を出せずに敗戦していましたので,巻き返せれば有力候補の1頭。スローペースになることを見越したのか,それともそうしなければダノンプレミアムを負かすことは難しいと判断したのかは不明ですが,今日は今までよりずっと前の位置でのレースになりました。それがこの優勝の大きな要因になったといえるのではないでしょうか。ペースの関係でどうしても着差がつかないレースになってしまいましたが,2着馬は皐月賞馬ですから,少なくともこの2頭は現3歳世代でトップレベルにあるのは間違いなさそうです。父は第72回を制したディープインパクトで父仔制覇。母の父は第71回の覇者であるキングカメハメハ。祖母は2000年にシルクロードステークスと根岸ステークス,2001年にかきつばた記念とシリウスステークスとプロキオンステークス,2002年にガーネットステークスを勝ったブロードアピール。Wagnerianはワーグナーのファン。
 騎乗した福永祐一騎手は川崎記念以来の大レース29勝目。日本ダービーは初勝利。管理している友道康夫調教師は昨年のジャパンカップ以来の大レース10勝目。第83回以来2年ぶりの日本ダービー2勝目。

 人間の現実的本性actualis essentiaは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっています。いい換えれば第四部定理八により,人間は現実的本性に則す限りでは善bonumを追求し悪malumを忌避するようになっているのです。したがって,ある人間にとっての悪が,その当人の現実的本性だけを原因causaとして生じることはありません。すなわち,ある人間の現実的本性が,その人間にとっての悪の十全な原因causa adaequataであることはないのです。ですから現実的に存在するある人間に悪が訪れることがあるとすれば,それはその人間が何らかの外部の物体corpusと接触する,関係を有する限りでのことです。
                                     
 ドゥルーズGille Deleuzeは『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』の中で,スピノザの哲学において悪とは喩えるなら食あたりのようなものであるという意味のことをいっています。これは喩えとして非常に秀逸であると僕は考えます。これは悪が外部の物体との関係の中でしか生じ得ないということを示すとともに,悪が諸個人によって異なり得るということも示すからです。実際,あるものAを食べたとしても,食あたりを起こす人間もいれば起こさない人間もいます。よってAは,食あたりを起こす人間にとっては悪であるでしょうが,起こさない人間にとっては悪ではあり得ません。むしろその人がAを食べて美味であると感じるなら,その人にとってAは善であるでしょう。このように,同一の物事が異なった人間によって善とみなされたり悪とみなされたりすることがあるのです。したがって,何か普遍的な善とか普遍的な悪というものがあるわけではないのです。ですから彼女の行動をある人は不快と感じ,よってその行為ならびにその行為をなす彼女を悪と判断するでしょうが,彼女自身にとってはそれは善であるということは前提にならなければなりません。その行為を彼女自身に対して否定することが誤りである,少なくともナンセンスであるということは,このことからより明らかであると思います。
 もう少し食あたりの例を用いましょう。もしあるものXがあって,そのXを食べれば万人が食あたりを起こすとします。ある種の毒はこの例を成立させる筈です。この場合には万人にとってXが悪であるということは成立し得ます。
コメント
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