スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールドカップレース&定義の意志作用

2018-05-15 18:51:20 | 競輪
 京王閣記念の決勝。並びは吉沢‐平原‐木暮‐神山‐高橋の関東,郡司に和田‐伏見の北日本で小川は単騎。
 郡司も取りにいきましたが内の平原がスタートを確保して吉沢の前受け。周回中に上昇した小川が6番手に入り7番手に郡司の周回に。残り3周のバックの入口から郡司が上昇していきましたがバックの出口で吉沢が突っ張ったため郡司は引いて元の隊列に戻って一列棒状。残り2周のバックから再び郡司がアタック。しかし打鐘から吉沢が全開で駆けていったので郡司はホームでは浮いてしまい脱落。3コーナー手前から小川がインを上昇する動きはあったものの大勢には影響なく,直線に入ってから踏み込んだ平原が突き抜けて優勝。マークの木暮が4分の3車身差で2着。1車身差の3着は木暮の外にいった神山と内にいった高橋で接戦となり,写真判定の結果,3着は神山でタイヤ差の4着が高橋。関東勢の上位独占でした。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は1月の立川記念以来の優勝で記念競輪18勝目。京王閣記念は初優勝。このレースは関東勢が結束して競走するということに決まった時点で,よほどのことがない限り平原が優勝するだろうと予測できました。郡司に前を譲らず,吉沢が郡司に叩かせないという競走をしたので,実際にその予測通りのレースに。そもそも力量的に対抗し得るとすれば郡司以外になく,その郡司が早々に圏外となってしまったので,きわめて順当な結果に収まったというところでしょう。

 円の定義Definitioも球の定義も虚構を含んではいるのですが,それは純然たる虚偽falsitasであるというのとは違います。もっとも,スピノザはそれらが定義として成立していると認めているのですから,これは当然といえば当然でしょう。それらは虚偽であるどころか真理veritasなのです。
 これはいろいろな観点から説明できるのですが,ここではスピノザが第二部定理四九系でいっていることを中心に考えます。
 スピノザは意志voluntasというのを一般的概念notiones universalesであるとみなします。つまり個々の意志作用volitioの総体が意志といわれると解しています。一方,知性intellectusというのは観念ideaの集積のことです。ですから意志と知性が同一であるというのは,個々の意志作用と個別の観念とは同一のものであるといっているのと同じです。
 次に,スピノザが意志作用というのは,観念が観念である限りにおいて含んでいる肯定ないしは否定negatioのことです。つまり僕たちが普通に意志という語で解するような思惟の様態cogitandi modiではありません。個々の意志作用と個別の観念とが同一であるというのは,ある観念はこの意味において何らかの意志作用を必ず含んでいるということであり,このような意味での意志作用というのには,その意志作用が肯定ないしは否定している観念が必ずあるということです。したがってある観念はその観念に固有の意志作用がなければあることも考えるconcipereこともできないようなものであり,意志作用というのはそれが肯定する観念がなければあることも考えることもできないようなものであるということになります。
 これを円の定義が知性によって概念される場合についていえば,その観念を肯定する意志作用というのは,直線の一端が固定しもう一端が運動するということを肯定する思惟の様態のことであり,球の定義が知性によって概念される場合についていえば,直線部分を軸として半円が一回転することを肯定する意志作用です。各々の意志作用が円あるいは球の観念なしにはあることができないということは明白ですし,この定義によって円や球の概念が形成される場合には,各々の運動を肯定する意志作用がなければ円の観念も球の観念もあることはできないということも明白でしょう。
コメント
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