スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

死んだ犬&老眼と乱視

2015-05-22 18:58:29 | 哲学
 汎神論論争ヤコービにスピノザ主義者であったことを暴露されたレッシングは,生前はそれを公言していたわけではありません。むしろスピノザのことを死んだ犬と評していました。この死んだ犬という表現に関して,ヨベルが『スピノザ 異端の系譜』の中で短評しています。
                         
 ヨベルの解釈では,死んだ犬という表現には二重の意味があります。ひとつはスピノザが犬のように嘲笑を浴びせられていたということです。そしてもうひとつは死んだものとして黙殺されていたということです。しかしヨベルが解するところによれば,この二重の意味は両立し得ません。もしもスピノザが死んだものとして黙殺されていたのであれば,嘲笑の対象にすらなり得なかったとヨベルは解するからです。もしも死んだ犬とスピノザを表することが可能であるとしたなら,それは文字通りの意味で死んだと解することは不可能で,公的には死んだものとされているというように解する必要があるというのがヨベルの主張です。
 この解釈によれば,公的に死んでいるということは,私的な意味では死んでいないということになります。したがって,スピノザが死んだ犬であるということは,それを公言することは憚られるけれども,秘かにスピノザの哲学について語ることや,その哲学に魅了される余地はあったという意味であることになります。
 僕は死んだ犬という表現が,成立不可能なものであるとは考えません。しかしここでヨベルが主張しようとしていることの中心部分,すなわちスピノザの哲学に魅了される人が存在したという点に関しては同意します。そしてレッシングがそうした人のひとりであったということは,疑い得ないことだと考えます。なぜなら,もしも本当に黙殺された存在であるなら,レッシングはスピノザについて,死んだ犬などと酷評する必要すらなかった筈だと考えるからです。少なくとも公的にはそのように酷評せざるを得ない何かを,レッシングはスピノザから感じ取っていたと思うのです。
 レッシングがスピノザを死んだ犬と表現したこと。それはいかに表現が否定的であったとしても,レッシングがスピノザに関心を抱いていたことの何よりの証拠であるといえるのではないでしょうか。

 近視の変化に関しては僕自身が気付いていないようなものであったのですが,見るということに関していえば,以前とは明らかに違って知覚されるようなことが,ふたつほどあります。
 ひとつはもうだいぶ前からのことで,ここにも書いたことがあるかと思いますが,いわゆる老眼になっているということです。現在でも,たとえば新聞や本などの普通の文章を読むというような場合には,眼鏡を掛けたままでも大丈夫です。ただ,濁点がふってあるのか半濁点がふってあるのかというようなことは,語としてどちらも成立するような場合には,眼鏡を掛けたままだと判別が不能で,外さなければ分かりません。馬の名前や外国人の名前などに関してはこうした事例が多く生じますので,眼鏡を外さなければならないケースもそれなりにあることになります。
 もうひとつ。僕は極度の近眼で,眼鏡も近視用のものです。でも実際には近視だけでなく,乱視もあるのです。矯正していないのは,そうしなければならないほど日常生活に支障を来すほどのものではないからです。ところが最近になって,これはもしかしたら乱視が影響しているのではないかと思えることがひとつだけ生じるようになりました。それは外出時に,階段を下りるときです。家の階段は,おそらく慣れているからだと思いますが,何の問題もありません。また,そうではない階段でも,上るときには何も問題はありません。ところが下りるときには,段差が分からずに踏み外すことを表象し,恐怖を感じるケースが発生するようになったのです。表象するというだけで,実際に踏み外すわけではありませんし,手すりを使えば恐怖感もありませんから,それ以上の対処はしていませんが,乱視は以前より進行している可能性があると思います。
 前回は間違えて早めに着いてしまいましたから,この日は午前9時半になってから家を出ました。帰ったのは午前11時半頃で,О眼科としては空いていた方なのではないでしょうか。午後だけ長者町。この日は午後4時45分頃の帰宅で,いつもよりはひとつ遅いバスに乗ったことになります。これは午前中の眼科検診が影響したものです。
コメント
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