スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

人間の罪&主旨

2014-01-06 19:07:48 | 歌・小説
 夏目漱石の小説の登場人物の中で,罰への欲望を心のうちに宿していたのは,『こころ』の先生ではないでしょうか。
                         
 先生は手記の中で,人間の罪ということばを用い,それを深く感じていたと告白しています。人間の罪というのは漠然としたいい方ですが,それは先生が抱いていた罪悪感が漠然としたもので,先生自身にもその源が不明であったため,このような言い回ししかできなかったと理解するのが妥当でしょう。
 先生が感じていたこの罪悪感は,所在不明であったとはいえ,非常に強力なものでした。であれば,先生のうちには,その罪への代価を求める欲望もあった筈です。罪の代価とは罰であり,だから先生には罰への欲求があったと僕は考えるのです。
 このことは『こころ』のテクストからも明らかだと思います。先生はこの罪悪感のために,見知らぬ人から鞭で打たれたいと思ったといっています。さらに後には,自分で自分を鞭打つべきであると思うようになったともいっています。
 マルメラードフの罰への欲求の背後にあったマゾヒズムは,精神的なものであったかもしれません。一方,先生のこの欲望には,肉体的な意味でのマゾヒズムが含まれているといえます。鞭で打たれることが罪の対価に値するならば,鞭で打たれる肉体的な痛みは,先生にとって罪滅ぼしの快楽になり得ただろうと思えるからです。
 先生はついには自分を鞭で打つだけでは十分ではなく,自分で自分を殺すべきであるとまで考えるようになります。そして明治天皇の崩御の後の乃木大将の殉死に感化され,実際にそれを実行するに至ります。
 マルメラードフの最期は,酩酊の挙句の事故死とも,突発的ではあるかもしれないけれども意図的な死とも理解できるように描かれていますが,僕が罰への欲求を満たすための自殺であったと考えているということはすでに説明しました。そして僕のこの理解によれば,マルメラードフと先生という,一見しただけでは似ても似つかないようなふたりの間に,実は同じようなメンタリティーが含まれていたということになるのです。

 それでは今回の考察の主旨がどういったものであるのかということ,またそれが前回の考察の主旨とどのように異なるのかということを,あらかじめ説明しておきましょう。
 前回の考察の主旨というのは,ごく簡略化していうならば,第一部公理三は公理として成立しているのか否かという点でした。これについては不成立という結論を出しています。そして公理としては成立していないけれども,その内容が『エチカ』においては十全に保持されなければならないということは,そこから派生して出てきた結論であるといえます。前回の考察時にそれを派生させなければならなかったのは,『エチカ』においては第一部公理三に訴える諸定理が数多くあるので,もしも単にそれが公理としては成立しないということだけを示したなら,ほかの部分にもたらされる影響が大きすぎるからです。しかしもしもその内容に関しては真理であるなら,訴訟過程において第一部公理三を援用することが,何らの問題とはなりません。もちろん,だからといって,支障を来さないようにするために,内容の十全性が保持されるという結論を安易に出したというわけではないということは,前回の考察を読んでいただければ理解してもらえるでしょうし,今回の考察においても改めて説明することになります。
 今回の考察の主旨というのは,この派生して帰結した結論のさらに先にあります。つまり,もしも第一部公理三の内容が十全に保持されるのであれば,今度はそのことからどのような事柄が帰結してこなければならないのかを探求するということです。したがって,ある意味においては,今回の考察は,前回の考察の続編であるということになります。今回の考察において前回の考察を改めて詳細に振り返らなければならないのは,今回の考察の主旨の,このような性質から生じるのだとお考えください。
 このような続編を考察することには,はっきりとした契機がありました。それは端的にいって,スピノザの哲学に関する理解のうちに,この派生した帰結に齟齬を来すような内容のものがあるように僕には思えたということです。ただこの直接のきっかけについては,後に詳しく説明することにして,まずは前回の考察内容のうち,今回との関係で重要な部分の復習から開始することにします。
コメント
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