スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

事前の予想&最終段階

2014-01-20 19:01:37 | NOAH
 夢のカードは三沢が馬場からスリーカウントを奪うという結末でした。このとき,僕はこの結果を予想していました。次のような状況があったからです。
                         
 この年の1月,新日本プロレスの東京ドーム大会で猪木と天龍のシングルマッチがありました。そして天龍が猪木からフォール勝ちを収めていたのです。この流れが全日本プロレスにも波及することが必至であると僕は考えていました。そうして組まれたカードでしたから,ここは三沢が馬場から何らかの形で勝利を得るだろうと思ったのです。いい換えれば,馬場が三沢に自身からの勝利を許すであろう,そして名実ともに三沢がトップであるという事実を作るであろうと思ったのです。
 結果は予想した通りであったのですが,僕は試合を観戦して,事前にそのような予想をしていたということを恥じました。この試合の内容は,僕がそういう思いを抱かずにはいられないほど素晴らしかったからです。プロレスというのは,単に試合の結果がどうであるかということよりも,その内容が重要なのであるということは,僕自身も知っていたつもりでした。そしてそれは確かに知っていたつもりであっただけであり,本当に知っていたというわけではなかったのです。そしてその本当の意味を僕に教えてくれた試合が,この夢のカードでした。だから僕は,僕が観戦した試合でベストマッチはどれかと問われれば,少しの迷いもなくこの試合だと答えることができるのです。
 僕はこの日以来,個別の試合については事前に勝負の結果を予想してプロレスを観戦するということはやめました。この点でも,この一戦は僕にとって特別な試合であり続けているのです。

 A→B,C→D,そして自然のうちに実在するこれらすべての個々の因果関係の必然性と同様の→を,一般的な意味で→と知性に妥当に認識させるための条件であるPが確かに存在するのだと仮定します。これで強い意味が成立することになるのかといえば,まだ十分とはいえないのです。第四段階の疑問,そしてこれが最終段階の疑問になるのですが,それはこの場合のPの必要条件に関わる疑問です。
 ここでのPは,自然のうちに実在する各々の因果的必然性を,同一の意味にまとめ上げるような条件のことです。ただし,そうしたPが存在するということのうちには,P自身の必然性が含まれているとはいえません。いい換えれば,Pの存在自体が必然ではなくて偶然であるという可能性を排除できていないのです。
 もしもPがある何らかの偶然に作用されて存在するようになったのだとすれば,すべての必然性を一般化することが可能なのはその偶然に由来するということになります。つまりそのこと自体が偶然です。一定の原因が与えられればそこから必然的に結果が発生するということ自体が偶然であるとするなら,強い意味はむしろ成立していない,単に公理性を欠いているというより,真理ではなく虚偽であるといわなければなりません。なぜなら,一般にXはYであるということが偶然であるということは,少なくともXはYではないこともあり得たということを認めているのにほかなりません。そしてこれを認めるということは,今はXはYであるけれども,いずれはXがYではなくなることもあり得るという意味なのです。つまりこれは持続という観点とのみ関連するのであって,過去に妥当している事柄を未来にも妥当させているということになります。
 つまりPの存在を偶然の産物とみなすならば,過去には因果関係の必然性を一般化することが不可能であったということを認めることであり,また未来には同じようになるかもしれないということも認めていることなのです。しかるに公理というのは永遠と関連し,永遠の真理でなければなりません。つまり単にPなる存在の現在を認めたとしても,まだ強い意味が成立したと同時に認めるというわけにはいかないのです。
コメント
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