スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羽田盃&同意の理由

2012-05-09 20:49:54 | 地方競馬
 中央競馬でいえば皐月賞に該当する第57回羽田盃
 先行争いがかなり激化。キタサンツバサ,ベルモントレーサー,ゴールドキャヴィア,ゴールドメダル,ロンドンアイ,パンタレイ,エミーズパラダイスの7頭は行く構え。1コーナーを回るところでアクシデントがあったように見えましたが,最終的にはゴールドキャヴィアが逃げ,ロンドンアイが続くことに。3番手のパンタレイは向正面で早くも手が動いていました。最初の800mが47秒0という,滅多にないくらいの超ハイペース。ゴールドメダルやエミーズパラダイスはさすがに向正面に入るまでに控えました。
 3コーナーを過ぎると外からエミーズパラダイスが進出していき,これをマークするようなレースとなったアートサハラが追従し,2頭で先行した内の全馬を捲りきって直線に。ここからはこの2頭の叩き合いとなりましたが,直線に入った時点で手応えがよさそうだったアートサハラが競り落として優勝。2頭とも最後は脚が上がっていたのですが,それ以上の追い込み脚を発揮した馬はなく,エミーズパラダイスが2着。3着は前2頭より後ろから追い込んできた馬の争いになり,プレティオラスとジャルディーノが同着で分け合いました。
 優勝したアートサハラはこれまで7戦して3勝。掲示板を外したのは1度だけと,堅実に走り,前走の特別戦を勝って南関東重賞はこれが初参戦。基本的に実績がある馬が勝つ傾向にあるレースで,それに劣らないだけの力があったと考えることもできますし,逆に実績馬の力がさほどではない,つまり全体的なレベルがそうも高くはなかったと考えることも可能なので,どこまで評価できるのかはまだ微妙なところ。それは今後のレースで明らかになってくることになります。父はマンハッタンカフェ,曾祖母の全兄にダービー馬のサクラショウリ
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は今年は1月に同じ舞台でのTCK女王盃を勝ちました。羽田盃は初勝利。管理しているのは大井の荒山勝徳調教師で,第55回に続く2年ぶりの羽田盃2勝目。

 「観念は表象する」という表現自体が,スピノザの哲学の認識論におけるある種の主客転倒の事態を名指しているということは間違いありません。実際にドゥルーズはこの項の中で,もしもスピノザの哲学において観念の形相というものを考えるとしたならば,それはそれを認識する,あるいは意識する精神の側に求められるべきではなく,観念それ自身が有するような力のうちに求められなければならないと主張していますが,これはある人間の精神のうちで,その精神の意識を超越して,あるいは超越してということばが不適当であるなら,その精神の意識とは別のところで,観念自身が原因となって別の観念を産出していくという事態を指しているとしか考えられないからです。
                         
 ところで,こうした事態というのは,その観念というのが現実的に存在するある人間の精神と関連付けられた場合には,いい方を変えるならその観念が現実的に存在するある人間の知性の一部を構成する場合には,その限りにおいてその観念が表象,すなわち混乱した観念であるという場合にのみ成立するというわけではなく,その限りでも十全な観念であるとみなし得るという場合にも同様であるということは,すでに僕が今回の考察の中で明らかにしたことです。ではドゥルーズが「観念は表象する」というときに,それはこの限りにおいては混乱した観念の場合についてのみ言及しているのであり,十全な観念である場合に関しては無視しているのかといえば,僕はそうではないと思います。つまりドゥルーズは,それが混乱した観念であろうと十全な観念であろうと,同じように主客転倒が発生するということを,よく理解していたのだと僕は考えているのです。だから僕はドゥルーズがこのようにいう点では,そのスピノザ哲学の認識論の理解に同意するのです。
 実際にこの項の中では,ドゥルーズはあたかも十全な観念が事物を表象するというようないい方をしています。これをそのまま理解すれば,第二部定理四〇に反することになるでしょう。表象するというフランス語の原語がどのようなものであるか分かりませんが,よって僕はこれを単に認識するという意味に理解します。
コメント
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