スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

カーリー

2006-09-22 23:06:03 | 哲学
 満足してもらえるかどうか分かりませんが,このコメントにレスします。なお,これは長くなりますので,今日は本論(テーマ)については1日だけお休みすることにします。
                         
 まず最初にいっておくと,僕はスピノザの『エチカ』,あるいは哲学には興味がありますが,政治学や宗教学にはさほどの関心がなく,スピノザ自身のそうした著作も読んでいません。このカーリーEdwin Curleyの本は,そうした部分も含まれていて,それについては僕は言及できません。
 哲学に関係する部分についていえば,この本は『エチカ』の中にある,僕自身が気付いていなかったような問題の発見という意味で僕には大いに役立ったのですが,不満な点もありました。ごく簡単にいうと,カーリーがあまりに常識的な立場からスピノザを解釈しているように感じられたからです。たとえば僕が2回目のテーマにした第二部定理一三備考の解釈もそうですし,第五部の精神mensの永遠性aeternitasに関する解釈などもそういった点が見受けられるように思います。あるいはデカルトRené Descartesの哲学というのは,身体corpusと精神の関係に関する限り,スピノザの哲学に比べればはるかに常識的なものであるといえると思いますから,spinach7さんがコメントでご指摘されている点も,そうした中に入れることができるのかもしれません。カーリーの解釈が全面的に誤りerrorであるというつもりはありませんが,『エチカ』を読むというタイトルのわりには(ただし原題はBehind Geometrical Method A Reading of Spinoza's Ethicsです),『エチカ』を読んでそんな結論になるのかなと思ってしまうような部分もありました(第二部定理一三備考の解釈はその典型的な例)。
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学を僕はよく効く薬とたとえましたが,そこにも記した通り,よく効く薬は同時に強力な毒でもあって,とくに「常識」というものに捕われている場合にはなおさら薬よりは毒として作用すると思うのです。そしてこれは,文章表現の激烈さという点を別にすれば,スピノザにも同じように当てはまると思います。僕は,もしも「常識」というものに一切の波紋を与えないとすれば,そんな哲学は哲学として価値がないと考えますし,何よりそんな哲学には魅力を感じません。もしもスピノザの哲学がきわめて常識的なものにすぎなかったら,僕は『エチカ』について考えてみようという気にもならなかったでしょう。したがって,スピノザの哲学を常識的な線から解釈することは,スピノザ哲学が本来もっているようなよさを消してしまうと思うのです。僕はカーリーのような方法ではスピノザを解釈できないとはいいませんが,この方法では,僕の立場からみた限りではあるかもしれませんが,スピノザの哲学にある本来の意義を読み取ることは難しいだろうし,かえって見失うことになってしまうのではないかと思います。
 これについては様ざまなご意見やご感想があるかと思います。お聞かせ頂ければ幸いです。

 明日から青森記念が始まります。
コメント (3)
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