goo blog サービス終了のお知らせ 

初心者のための証券のある生活

豊かな生活を目指し、廣本修正のよくわかる “株・いろいろ”

陶磁器に歴史あり・参考にした本など

2013-10-03 07:22:47 | 陶芸
 これまでに七つのテーマについて“陶磁器に歴史あり”を書きましたが、

 参考にした本などは以下の通りです。順不同

 ○週間朝日百科 国宝の美
 ○日本の陶磁器 林清三著
 ○與衆愛玩畠山即翁美の世界
 ○茶道具の世界 楽茶碗 楽吉左衛門編
 ○静嘉堂茶道具の手引き
 ○茶道具の世界 唐物茶碗 矢部良明編
 ○茶 利休と今をつなぐ 千宗屋
 ○茶の湯の宇宙 小堀宗実
 ○もしも利休があなたを招いたら 千宗屋
 ○古美術読本 陶磁 監修・井上靖
 ○銘碗を観る 林清三他
 ○よみもの福井史 青園謙三郎
 ○陶磁用語辞典 雄山閣編
 ○利休と秀吉 邦光史郎
 ○魯山人陶説 北大路魯山人
 ○雪古九谷 高田宏
 ○絵付けの愉しみ 陶磁郎Books(独断的色絵考・阿木香)
 ○日経紙記事 「こころの玉手箱」武者小路千家家元 千宗守
 ○日経紙記事 「心に残る名碗」遠州茶道宗家 紅心 小堀宗慶

 ありがとうございました。

陶磁器に歴史あり・古九谷(3)

2013-09-29 10:21:28 | 陶芸
 謎が多いと書きましたが、

 その後、今日に至るまで、九谷のどこを掘っても古九谷はほとんど出土せず、

 あってもわずかなのです。

 ただ、享保二十一年(1736年)大沢君山著「重修可能大路水径」に、

 「明暦年間に大聖寺藩主前田利治が後藤才次郎という人に陶器と磁器を焼かせたが、

 しばらく前になくなった。」と記されていること。

 「大聖寺藩の江戸上屋敷跡地(東大医学部付属病院)の発掘調査で、

 九谷製“古九谷”があったことは実証されている。」とする説もありますが、

 「すべて有田で焼かれた」とか、「絵付けだけ九谷で行われた」とか、

 「突然止めたのは・・・」などについて、

 諸説が存在しているのも事実です。

 事実を知っているのは、“焼かれた古九谷のみ”ですね。

陶磁器に歴史あり・古九谷(2)

2013-09-28 13:53:59 | 陶芸
 さて、昨日、加賀藩を三つに分割したと書きましたが、

 加賀藩(80万石)は長男の光高、富山藩(10万石)は次男の利次、

 そして大聖寺藩(7万石)は三男の利治にさせたのです。

 大聖寺藩での焼物は、

 明暦元年(1655年)頃に始まったといわれていますが、

 なんと!

 元禄年間の終わり(1704年)頃、

 突然、廃窯してしまったのです。

 焼物作りをわずか50年ほどでやめたことについては、

 謎が多く、閉窯の原因も分かっていません。

 この約50年間に焼かれたものが“古九谷”と呼ばれているのです。

 因みに、現在の九谷焼は文化年間(1804年~1818年)に入って、

 加賀藩の殖産事業として再興されたものです。

 続きはまた。


陶磁器に歴史あり・古九谷(1)

2013-09-27 14:13:45 | 陶芸
 加賀藩、今の金沢市は、織田、豊臣、徳川の世を生き抜きましたが、

 そこには、藩主の大変な英断、努力がありました。

 加賀藩三代藩主前田利常(1594~1658)は、

 執拗に制圧を迫ってくる徳川幕府をかわすため、

 “加賀藩は、武芸よりも文化・文芸を主にしている”とアピールしました。

 このことについては、

 現在、石川県立美術館で、

 「加賀藩三代藩主利常は、政治的に服従を強いられた無念を晴らすかのように、

 文化政策において幕府に対抗心を燃やした大名である。」

 と説明されています。

 冒頭に書いた利常の英断は、

 自らは隠居すると同時に、

 藩を加賀藩、富山藩、大聖寺藩の三藩に分割し、

 その中の大聖寺藩は加賀の南はずれの九谷に置いて、

 その地から出土する磁土をもとに焼物をはじめたのです。

 続きはまた。

陶磁器に歴史あり・志野筍絵茶碗(4)

2013-09-24 09:10:28 | 陶芸
 昭和8年(1933年)に北大路魯山人は次のような講演をしています。

 “昭和5年に名古屋の松坂屋本店で、私の陶器作品の展覧会を催した時、

 手伝いに来ていた荒川豊三君が多治見の人だった。・・・

 展覧会手伝いの余暇に、「美濃に行って古い釉薬でも探して来い。」と言うと、

 2,3日して戻った時、志野の破片を持ってきて、「これは何でしょうか。」と。

 「これはほんとの志野だ。」私はびっくりした。

 昔から志野の窯は誰にも知られていなかった。

 勇み立って早速美濃の国にかけつけ、荒川君を鞭撻し、

 ここらあたりと思うところを掘ってみた。

 それが図らずも美濃幾十の窯跡の中で一番古い大萱窯だった。

 そこで志野が発掘され、黄瀬戸も同じ窯からでた。・・・

 古来茶道でやかましい古瀬戸は必ずしも瀬戸にできたものではなく、

 美濃で焼かれていたことが明らかになった。・・・

 瀬戸黒茶碗と擂鉢も一緒に焼かれているいることも分かった。・・・”

 と、美濃における志野の発見者は自分(魯山人)だった旨話している、

 のは面白いですね。

陶磁器に歴史あり・志野筍絵茶碗(3)

2013-09-23 09:54:17 | 陶芸
 桃山時代は茶道が普遍化した時代であり、

 偉大な茶匠、武野紹鴎、千利休、古田織部らが世の中に出る茶陶の需要期でした。

 これらの指導者・茶人も優れてはいましたが、

 その実技を受け持った陶工たちの創造力・技術力にも驚嘆します。

 彼らは、在地の陶工群に加えて、

 武士を首領としたであろう尾張からの陶工集団、

 越前街道を美濃に入った朝鮮系職能人の陶工たち、

 あるいは、京都から来て盛んに名筆をふるっていた有識の専門画工、

 それぞれが大いに活躍して、

 陶境を形作っていたのですね。

 このように、志野や織部などは、美濃で焼かれたことが荒川豊三によって発見されたのですが、

 北大路魯山人も、自分が主力で発見したと述べていますので、

 これは次回に。

陶磁器に歴史あり・志野筍絵茶碗(2)

2013-09-22 14:12:28 | 陶芸
 豊三は、直ちに郷里の多治見に帰って古い窯跡を探しました。

 すると、牟田洞(むたぼら)の窯跡から、

 あの「志野筍絵茶碗」と同じ絵付けの陶片を見つけたのでした。

 昭和五年(1930年)のことでした。

 この志野古窯跡の発見は、

 わが国陶磁史上の通説を覆す出来事になったのです。

 志野と同様に、それまで窯跡が不明だった織部、黄瀬戸、瀬戸黒も、

 この発見をきっかけに、東濃地方で作られたことが明らかになったのです。

陶磁器に歴史あり・志野筍絵茶碗(1)

2013-09-21 09:55:31 | 陶芸
 桃山時代に焼かれた志野焼については、

 “創始者の志野宗信が瀬戸の陶工に命じて焼かせたもの”

 という説が、瀬戸の文献類から長く信じられてきました。

 織部、黄瀬戸、瀬戸黒などについても、

 志野と同様に、瀬戸で焼かれたものである、とされてきました。

 志野の技法で人間国宝に認定された荒川豊三(1894~1985)が、

 名古屋の古美術商から、

 桃山時代の「志野筍(たけのこ)絵茶碗」見せてもらったときに、

 “陶芸史を覆す”できごとが起きたのです。

 豊三がその茶碗を見たとき、

 茶碗の高台の内側に赤色の米粒大の土がこびりついていました。

 それは、茶碗を焼く時に釉薬がサヤ(注)に付着するのを防ぐため、

 道具土でハマコロという輪を作り、高台とサヤの間に置くのですが、

 それを掻き取ったあとの土がこびりついていたのでした。

 続きはまた。

 (注)サヤ:陶磁器を焼く際、その器を保護するため、耐火粘土製の容器の中に入れて窯の中に積み込みますが、その容器をサヤといいます。

陶磁器に歴史あり・初花(4)

2013-09-20 09:39:37 | 陶芸
 桃山から江戸時代にかけて、

 茶道具は一国一城にも匹敵する価値があったと考えられ、興味深いですが、

 さらに興味深いのは、

 徳川家家宝となった「初花肩衝」は、現在、東京在の松平宗紀(秀康の末裔)が完全な姿で保管しているとも。

 

 とすると、

 忠直がもらった「初花肩衝」はニセモノだったのか、

 それとも徳川家の宝物がニセモノなのか、

 「初花肩衝だけが知っています。

 なお、上の絵は、本に描いてあった松平宗紀家保存の「初花肩衝」を見て、私が画用紙に描いたものです。見にくいし、本物とは大分違うでしょうが、イメージ作りとして載せました。
 サイズは10㎝にも満たない?

陶磁器に歴史あり・初花(3)

2013-09-16 09:32:58 | 陶芸
 さて、大坂夏の陣が終わり、功労賞が贈られることになった際、

 家康からの言葉:

 「越前少将(忠直)のこの度の働きまことに立派であった。

 それに、幼弟出羽守(直正)も初陣ながら勲功をたてた。

 いずれもわが孫として天晴れ至極。

 また、伊予守忠昌(注)の一番乗りも天晴れである。」

 と。

 そして、忠昌には常陸国下妻三万石を与え、さらに翌年には松代十二万石の増封。さらに、

 越後国高田二十五万石に加増をしました。

 一方、忠直の褒美は、家康から茶入の「初花肩衝」、秀忠からは貞宗の脇差のみで、

 その後も音沙汰がありませんでした。

 怒った忠直は、「初花肩衝」を床に叩きつけ、

 天下の名品は真二つになってしまいました。

 (注)徳川家康の次男(結城秀康)の、長男が忠直、次男が忠昌、三男が直正