長峯やす子:読売こころ塾
江嵜企画代表・Ken
舞踏家、長峯やす子さん(74)をゲストに迎え、「読売こころ塾」(会場:大槻能楽堂)が開かれ、楽しみにして出かけた。司会の音田昌子さんからの芸歴紹介のあと、いきなり演歌「飢餓海峡」のメロディーが流れ、長峯さんの踊りが能舞台正面で始まった。全身バネの塊のような激しいライブショーである。あとのトークで出たが、「体が柔らかいのは天性のもの。最高の筋肉を親からもらった」と言われた。「若さの秘訣は?」と聞かれた時、「年齢を考えない。自分をきれいだと思う。美しいと思えば、背筋も伸びてきます。旦那さんも、奥様にきれいだね、と言ってあげてください。」と話された。
音田さんの「能舞台での踊りは、はじめてですか」の問いに、長峯さんは、「はじめてです。今日のお客様が優しそうなので、気持ちよく踊れました」とにこにこしながら話された。紫をベースにした生地、肩に刷毛ではいたような形の山吹色、胸元から下に向けて、縦に細く緑、エンジ、朱が重なるように続き、袖口と足元からは真っ赤な色がのぞく着物姿。時に床にかぶさる。身をくねらせる。左右に飛ぶ。そっくりかえる。「遊女、長峯、突如、大阪、能舞台に現れる!!」衝撃の一瞬だった。
長峯さんは、3歳で踊りを始めた。「健康のためということでしたが、私、天性の踊り子だったんですよ。」とご自分でおっしやる。万事、こんな調子である。話のテンポが早い。お相手の山折哲雄さんが、「もう少しゆっくりお話ししてくださいよ」と口をはさむ場面もあった。回りくどい表現は一切ない。やり取りを聞いていて、とにかく楽しい。
フラメンコを始めたのが17歳。5歳の時、真っ赤なドレスに出会い、赤に憧れた。「子供の時から火のように燃えたいと思っていた。」「男を燃やしたかった。」とも話された。ほとばしる情熱で、74年間の人生を、今もなお、現役で、奔放に走り続けておられるようだ。24歳の時、スペインに渡る決心をしたのは、それまで付いていた先生が「自分の考えていたフラメンコでない」と感じたからだ、という。自分で感じたこと、自分の考えを信じて行動する。そこに長峯やす子さんの原点を見つけた。
生のお経をバックにカーネギーホールで踊った時の話である。壇家に怒られますといって、なかなかお坊さんがうんといってくれない。1年前から会場の予約から手配は全て自分で済ませた。公演1ケ月前に、弘法大師さんが現れて、「行け」と言ってくださった。「お坊さんのお経を是非とも二ュ―ヨークのひとに聞かせたい。それ一心だった。それが通じた。だからうまくいったんです」と話された。
15年前、阪神・淡路大震災が起こった時の話もあった。「四条河原町の鴨川の河川敷で踊った。歌舞伎の元祖,出雲阿国(いずも・あくに)が踊った同じ場所である。踊り終わった長峯さんが、ざるを回した。万札がつぎつぎ放り込まれた。長峯さんはそれを全額被災者に寄付された。」と山折さんがエピソードを披露された。
猫を160匹飼っておられる話しも出た。犬も多数飼っておられる。猫ちやんやワンちゃんがいるから、私は生きられるんだとまで言われた。これを書いていると紙がいくらあっても収まらないので割愛する。
「今日一日、明日一日、大事に生きてください。自分を素晴らしいと思って生きてください。最近は全部、許せるようになりました。自分が心豊かになると周りの人も豊かになります。傍のひとを大事にしてあげてください。大事にして悪いことは起こりません。」と話を終えられた。
会場の様子をいつものようにスケッチした。この日会場を訪れた450人の一人一人が長峯さんの生き様に堪能したに違いない。東京では年3回は長峯さんの踊りが見られるそうだ。是非、関西でも見たいと会場からもリクエストが出ていた。
長峯やす子さんは多くの本を出しておられる。絵も見事である。絵は子供のときから好きだったそうだ。出口で「消えなかったシャボン玉」(2009年12月)、「いつもゼロからの旅立ち」(2006年12月)2冊を買ってサインをしてもらった。改めて生きる勇気をいただいて家路についた。
実はこの日、参加申し込みの機会を逃していた。お願いしたところ、気持ちよく招待券を手配下さった司会の音田昌子さんに感謝申し上げる次第である。(了)