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ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

凧揚げよろず話

2007年01月09日 | 一寸そこまで
             鬼ようずの連凧
    見島(山口県萩市の沖合い45キロに在る)
   島では正月3ガ日だけ、長男誕生を祝い揚げる
      50畳の凧を揚げた時もあるという

33回目を迎える凧揚げ祭りは、姫路市と日本玩具博物館との共催である。昭和40年代アメリカ生まれの三角翼の凧(ゲイラカイト)が大流行し、日本の空から美しい日本凧の姿が消えようとしていた。日本玩具博物館では日本凧の展示だけではなく、大空に揚げて見て貰いたいと、初めは舘の前のたんぼで揚げていたが、見物客も増え、第13回以降は姫路市の協力も得て「姫路公園競馬場」で行われている。

おにぎりを頬張っている私に話し掛けてくださったのは日本玩具博物館井上館長でした。次々上る凧の説明をしておられました。「昼からは天気が回復して・・・」と何度も何度も放送しておられました。年一回の会ですし、天候が相手ですから開催される事自体大きな喜びでしょう。

テントは3張りありました。中央に日本玩具博物館用(この軒先を借りて、おにぎりを食べました)左右に出場関係者用(申し込まれたお弁当が積んでありました)もう一つは売店です。色んな凧が売られています。私のおにぎりを食べている後ろでカップヌードルの良い匂いがしていました。寒い場所ですから、お弁当より良いかも知れません。先日亡くなられた、死の前日までチキンラーメンを食べ続けられた日清の創業者会長安藤さんを思い出しました。

津軽凧は本当に日本の凧の美しさを見せていました。ムカデ凧、足が100本あるムカデそっくりの凧。ブンブンとヘリコプターの羽の回転音の様な音を立てながら飛んでいたのは何処の凧だっけ。主人が行くと言うので小さなカバンを、リュックに変えた時、筆記用具を入れ忘れたので書き留める事が出来なかった。井上館長が何度も何度も放送してくださったのに、すっかり忘れている。

凧は降ろす時が大変なんですね。とても1人では降ろせません。糸を巻き込もうと引っ張ると、凧は「舞い上がれ!」との命令と勘違いして、上昇し様とします。
主人に助けを求め、主人が引き、私が糸を巻き込む事で、やっと手元に戻りました。何でも経験しないとわからないものですね。凧を揚げる喜びも、降ろす大変さも経験して初めて知った事です。必ず手袋をする事。何にも知らない私は素手でしたから痛かったです。主人は自分だけ手袋を嵌めて悠々としているんだものズルイよ!いやいや、それより基本を教えないなんて先生として失格だ!と心で叫んで、掌に糸が食い込んで怪我しないように注意しました。

驚く経験もしました。写真を撮りながら、ウロウロ移動をしている時、ふっと見ると次男と孫娘が居るではありませんか。「あんた達も来ていたん?」と声を掛けようと近づいて行ったんです。他人の空似です。違うと解っても私は何度も彼を盗み見ました。なんとよく似ているのでしょう。それだけではありませんでした。今度は壊れた凧を見に行った時です。又別人の次男にそっくりさんが居たのです。この時は主人が傍に居たので「見てみて、彼、ともあきにそっくりよ!」「ほんとや」と笑っています。世の中にそっくりの人が三人居るといわれていますが、これで三人です。娘を連れた方は何処の方かは知りませんが、一人はハッピから網干の方です。こんな事ってあるのですね。母親の私が間違えそうになったんです。

帰りのバスを降りて、目の前にあった喫茶店に入った。冷え切った体に暖かい珈琲は美味しかった。お店の入り口には松飾があった。嬉しくてパチリ。良い一日でした。
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全国凧揚げ祭り

2007年01月08日 | 一寸そこまで
            姫路公園競馬場
          十二支の「いのしし」凧は
      姫路市役所一階ロビーに飾られていたもの
        見島(みしま)の「鬼ようず」は左

7日は密かに楽しみにしていた日、でも天気予報はよくない。前日には強風だ雨だと言い出した。もし予報がずれて8日成人の日が雨だと気の毒だから、仕方が無いかと半ば諦めていた。でもやはり気になるので「当日中止は何時解りますか?」と電話をした。「7時ごろには解りますので・・・」とハローダイヤルを教えてもらった。

朝起きて、電話したが出ない。仕方が無いので姫路競馬場に電話した。直ぐ出たが「今の所、中止とも何とも連絡は入っていない」と言う。風はどんどん強くなる。暫くしてハローダイアルに「行われます。800基が参加します」しめしめ実行あるのみ。初めは風が強いし、行かないといっていた主人も行く事になった。

先に玄関を出た主人が「もう一度電話してみ、雪やで」見ると強い風に煽られて、よこなぐりの雪だ。驚いてもう一度電話、しかし「行われます」と言う答え。姫路駅に着いたら「中止の張り紙」覚悟で、雪の中を行く。所が、加古川では青空が覗き日が差してきたではないか。「晴れ女」の面目躍如と言うところか。

「北条行き」のバスに乗り「競馬場」で降りた途端、ポツリポツリと雨が、瞬く間に傘を差さずに居れないくらいの雨が・・・持ち上げられて投げ落とされた気持ち。「屋根のある所に行って昼食(姫路駅でおにぎりを買ってきた)にしよう」と食べていると、又、アッという間に陽が差してきた。

会長さん(周りの人がそう呼んでいた)がボソボソと説明してくれる。「凧には弱風凧と強風凧があって、大きな凧は強風に弱いので、今日はダメかも、弱風凧には良い風で、見てください、今年初参加の若松凧が上っているでしょう」教えられた方を見ても、あまりに高すぎて絵柄など全く見えない。山口県見島の鬼の連凧、ムカデ凧など、連凧が勢い良く上っていく。凧は徐々に上るものと思っていたのに、風にのると一気に上昇する。うっかりすると私のカメラでは写らない。

網干の50畳凧は強風に煽られ、滞空時間数秒で落下大破した。16畳の凧も落下。壊れた凧を整理している人に聞くと「落ちた時涙がこぼれた」と言っていた。長い時間かけて組み立てたのに、私達も「まだかまだか」と待っていたのにね。

私は最後まで居たかったのに、主人が「帰ろう」と言うので帰ることにした。「私凧あげした事ない」「して見るか?」売店で小さな凧を売っている「初めてなんですけど、今日はどんな凧があがりやすいですか?」「今日の風は連凧が良いです」大枚600円で買う。

一回目数秒で落下。主人に叱咤激励されながら、再挑戦「糸を繰り出せ」「手を動かせ」「ひっぱれ」。面白い、手袋を嵌めてないので手が痛い。ぐんぐん上る、左右の同じ凧を見る。高い高い、私の凧が一番高い。相手は子供である。言葉の理解度が違う。子供であろうと「私の方が・・・」と競争心が沸く。私は完全に子供にかえっている。家に帰って、糸の長さを調べると250メートルまで伸びていた。それ以上糸が食い込んで伸びなかったのである。初体験としては大成功!

写真を撮るとき、何時ものように周りを見回して写真を趣味にしている人の集まっている所に行く。そして、成るほどと思うアングルに構えるが、カメラが違う、一見して良いカメラだわ。老いも若きも。羨ましいのでそのグループから離れて、自分の感性で、自分のカメラに合ったアングルを狙う。う~ん、やっぱり欲しいよ、良いカメラ!
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全国中・高校生歴史サミット

2007年01月07日 | 気にかかる
          ふじたさんっちのお庭
          昨日の赤と今日の白で
        難を転ずる南天 目出度い紅白

昨日から 年末に借りた「半島を出よ 村上龍」上下を期日までに読もうと必死なんですが、遅々として進みません。年末に借りたので何時もの2週間ではなく3週間借りられたのですが、年末年始は読めませんでしたから、到底無理です。もう一度借り直すことにしました。又何十人も待たなければなりません。

年末のクリスマスイブの日ケーブルテレビで偶然に見つけたんです。

全国中・高校生歴史サミットと言う催しが滋賀県米原市で行われました。このサミットは主宰の中央大学を拠点に行われる文部科学省特定領域研究、中世考古学の総合的研究の一環として今年初めて行われたものだそうです。全国から32グループの応募があり、一次審査を通過した6グループが滋賀県に招待され、プレゼンテーションを行って、その「最優秀賞」に県立尼崎高校の女子2人組(松阪さんと加藤さん)の「富松(とまつ)城址」の研究が選ばれたのです。

二人は高校三年生なのに夏休みは「富松城址」の研究に明け暮れたそうです。過去に書き残されたものも少なく、自分達の足で掘り起こしていく事は大変だったらしい。頼りはやはりお年寄りの記憶からの聞き取りだったようだ。1人は一生「歴史」に携わって生きたい。もう1人はデザイナーの道に進むとか。

ネットで「全国歴史サミット」を調べても、地元滋賀県の洗足(せんぞく)学園高校グループの8人が「優秀賞」賞状を持った写真があるのみで、その評価として「グレードが高く、研究内容は大学レベル」とありましたが、その上の「最優秀賞」については一言も触れていません。

今度は尼崎のホームページを開いてみましたが、私は見つけることが出来ませんでした。市報に載っているかと思いましたが、これにも見つけられませんでした。

在籍する、県立尼崎高校のホームページにとんで見ました。此処にはあることはありましたが、私が見た「テレビの放映があるので見てください」とだけで内容とか経緯、お二人については何も触れていません。

何故なんでしょう?尼崎市にしても在籍する高校にしても、この事にもっと光を与えてあげないのでしょう。コツコツと調べたんですよ。たった二人でですよ。そしてその成果が見とめられたのですよ。研究とは本来地味なものなんです。何らかの形でもっと話題として取り上げてあげて良いのではないのでしょうか。本人達の得たであろう自信を後押ししてあげても良いのではないのでしょうか。

尼崎は学習成績では全国平均以下と言われています。学力を引き上げる事も大切だと思いますよ、でももっと大切な事は一人ひとりが自分に自信を持つ事だと思うのです。人間の力を伸ばすのに「褒める」「認める」は大切だと思いませんか。

学習成績が平均以下の環境でも、自発的に学んだり、研究する良い子が育っているではありませんか・・・。私は少なくとも市報には目に付く大きさで載せて欲しかったと思います。

市会議員の皆さんももっと自分のテリトリーであった良い事を市民に知らせる努力をして頂けませんか。私も名前は知っていても、何も知らなかった「富松城址」について、大人が手をつけなかった事を、高校生の女の子が二人で論文にしたんですよ。個人的なことではないのですよ。尼崎の歴史の一部に陽を当ててくれたんですよ。

尼崎は「近松賞」を設けております。演劇方面の賞のようです。それに匹敵するぐらいのものだと私は思いますよ。彼女達の論文を読んでみたいと思いますよ。

今、受験勉強に励んでいる松坂さん、加藤さん自信を持って頑張ってください!
この私の気持ちを如何したら貴女方に伝えられるかしら。伝えたいな~。




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小さい頃のお正月

2007年01月06日 | 思い出話
          ふじたさんっちのお庭
        南天と石灯籠が良くマッチして
         お互いを引き立てています

ジムまでの道を歩いていて、注連飾りをしている家が減っているのに気付きました。どうしてこんなにお正月の感じがしないのか?と思っていました。夫々の家の注連飾りさえ姿を消そうとしているのです。私がOLだった頃、ビルや銀行の正面には松飾がで~んと飾られていました。クリスマスのデコレーションが盛んになった反面、日本の昔からの風習は影を潜めて行ったのでしょうか?地方に行けばまだまだ健在なんでしょうか?

戦前のお正月について本当に覚えていないのです。「獅子舞の門付け」だけは覚えています。あの笛や太鼓が聞こえてくると私は逃げたものです。でもあの獅子にさわってもらうと、その一年「無病息災」という事で、嫌がる私を引っ張っていくのです。私は大声で泣いていました。小さな私でもあの唐草模様の中に人間が入っていることは知っているのです。でも大きな赤い顔、ぎょろりとした目、キンキラキンの歯の生えた大きな口が恐怖なんです。お正月と言えば「獅子舞」と連想します。

この間、関西と関東の獅子の違いをテレビで言っていましたね。関西は大きくて手で持って、時には被る。関東は越後獅子系で小さくて頭に付ける。

県下、明石に、見ていると身震いするぐらい荒々しく、勇壮な獅子舞があるそうです。大蔵谷獅子舞(稲爪神社の神楽獅子)。江戸時代大蔵谷に疫病が流行り、これを払う為に行われた神事。「三人継ぎ」といって器械体操のように三人が一本に様に肩に立ちます、一番上は子どもだそうです。秋祭りのようですので、今年は忘れないように見に行きたいと思っています。

お年玉は貰った覚えはあるのですが、ありがたいと思った覚えがないのです。元町通りにおもちゃ屋さんが在って、私1人でも、其処で買う限り「つけ」で買えたので、お金を貰っても嬉しくなかったのかも知れません。

お金と言えば、駄菓子屋さんで買う位ですし、それも初めから紙に包まれている物しか買ってはいけないと言われていました。胃腸が弱くて、直ぐお腹を壊すからです。友達が夏は「かき氷」冬は「モダン焼き」(お好み焼き、と言うよりは「ちじみ」の薄さ)を買うのが羨ましかったです。その頃は「かき氷」も「モダン焼き」も新聞紙に包むのです。衛生的ではありませんが、その頃の子供はそんな事でお腹を壊したりしません。私が今、「お好み焼き」が大好きなのは、その時食べられなかったからかな~と思うことがあります。

年末には本宅(跡取りの家、後は新宅と呼んでいた)に親戚が集まって「餅つき」をしました。おじいちゃんは搗手です。本家は大きな門構えのお家で正面玄関は何時も閉まっていました。普段は勝手口から入ります。台所は広い土間と座敷より一段下がった板の間になっていて、女の人や子供は此処で御餅を丸めます。戦後、その跡地に一軒家が20数件建てられたそうですから、その大きさは子供の私だから大きいと感じたわけではなかったようです。

本宅では食後の果物が銀のコンポートに載せられて出てきます。純日本風の我家とは大違いです。家は和風でしたが生活は洋風でした。おばさんは本当に上品な美しい人で,私の憧れの人でした。女中付きでお嫁に来るぐらいのお嬢さんだと母から聞いていました。

正月は着物でした。鈴の付いたこっぽりが嬉しかったですね。胸に差した筥函(はこせこ:チリ紙入れ)を何度も明け閉めした覚えがあります。この頃は筥函を付けた子供は余り見かけませんね。

遊びは福笑い、トランプ、カルタでした。健在でも皆70代なんですね。下山手小学校(今は無い)のお友達に会いたい今日この頃です。
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ジムの初日

2007年01月05日 | 今日この頃
          幸せを呼ぶと言うフクロウ
           元旦に出会えてラッキー
            神戸で見つけました
         まだ子供で幼い顔をしています

一週間ぶりにジムに行きました。レッスンしていると体が重~い、ギコギコ言う。と言う事は普段のんびりとレッスンを受けているようでも、案外効いているんだわ。すずき先生が言われた「皆さん体重計にのられてギョ!でしたか?この一週間で急激に増えた体重は心配要りません。元の生活に戻れば自然に戻ります。体を動かしていない時間がありましたから、無理はいけません。体調に合わせて運動してください。一寸?と思うときは休む勇気を持ってください・・・」

帰宅時、恒例の「おぜんざい」が出た。グループの人たち4人と頂いた。小さな御餅に今年は小豆がたっぷり入っていた。去年は甘みが薄かったので、甘党の私は砂糖を持参したい位だったが、今年は甘かった。しかし砂糖を効かすための塩がきつかった。色々言いながらペロッと頂いた。皆で食べると何でも美味しいね。

お正月料理と言えば「御節」だが、あまりに少ないと食卓が寂しいと、色々作ったが、結局残ってしまった。去年の2/3に減らしたがそれでもまだ残る。私自身残り物を何度も食べたく無くなっている。「御節」は元旦の朝だけだからほんの少しで良いみたい。夜は「カニスキ」だし、2日の朝は夫々好みの御餅やパンだし、昼は橿原で外食、夜は「すき焼き」だもの。3日の夕食にやっと「御節」の残り物に何か一品を加える。

2日の昼食に「回転寿司」に行ったんです。本当は新しい形のコンピューター制御の回転寿司を経験したかったのに、入ったのはただ回転しているだけのお店でした。此処に行った経過が面白いのです。

御参りを済ませたら、毎年の事だから言わなくても当然何時もの店に行ってくれるものと思っていました。所が次男が通過してしまったのです。本人は「言った」と言うのですが、隣の主人が聞き違えたか、聞き漏らしたらしい。中々止まらないので、私が「お店まだ?」といったが、とっくの昔に通過していたのです。来しなに新しい店があったので探したのですが見つからず、結局、来る時は道路が空いていたので尼崎まで帰ってから店を探そうという事になった。

所が運の悪い事に渋滞に摑まった。時間は刻々と進む、主人は「もう家に帰って、早めの夕食にしよう」と言う。でも若い人の胃袋を考えると、可哀想な気がした。
私達はただ乗っているだけで、時にコクリコクリと船をこいだりしているが、行きは長男、帰りは次男が運転している。神経も使い、お腹も空いているだろう「私もこのまま帰って夕食の支度は辛い。虫押さえ程度に何か食べよう。夜「すきやき」だから御寿司は如何?帰り道に2軒あるの知っている、一度入ってみたかったし・・・」と提案した。

次男が始めの店に入ったから、古い形の回転寿司に行く事になった。お茶は水道の蛇口の様なところから白湯を出し、その中に缶から粉茶を入れてお茶だ。回ってくるお皿には一貫のりと二貫のりがあった、辛抱強く好みのものが来るのを待ったが回ってこない「雲丹やトロ来ないな~」「そんなん注文しないと来ない」と教えられる。そういえば浅い丼のようなものに載った寿司が、○○テーブルご注文品とか書かれて回ってきた事があった。夕食までの虫押さえ程度に食べて置くようにといった事もあって、その支払い金額の安さに目を疑った。二人で行く神戸のすし屋の1/10の値段である。ネタはさて置いて寿司飯は美味しいと思った。お腹が空いていたからかな~。良い経験が出来た。

夜は1.4キロのお肉があっと言う間に無くなった。こうして新年の二日目の夜も暮れて行った。
                        (260回)
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初詣

2007年01月04日 | 今日この頃
             いのしし
        奈良市橿原神宮の大きな絵馬
        上村淳之(あつし)画伯の絵

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

冬を忘れさせるほどの暖かい元旦でした。年末から来ている息子一家と一家揃って、手作りの御節で新しい年を祝いました。

息子達はほんお隣の大阪から来るわけで「帰省」と言うには近過ぎる。「帰っている」も変かな?「来ている」で落ち着いた。日本語って難しいな~。

主人と孫娘が近くの公園に遊びに行った時、車でお出かけの白井尼崎市長に出合ったそうだ。「白井さ~ん、写真を・・・」とお願いして、一緒に写して来たと言う。孫娘と一緒に、それを自分が写すなら話は解るが、ご一緒に出かけようとしている人にお願いして、自分もちゃっかり写っている。ま~これだから年寄りは困るんです、厚かましくて。お忙しいのに、ニッコリ笑って写真に納まってくださって有難うございました。

生田神社に初詣に孫娘と3人で行きました。生田さんは震災以来です。あの年もやはり「いのしし」の年でした。上の孫と二人で行って、2週間もしない間に、あの地震があり、生田さんの本殿がぺしゃんこになっている映像を見たときの驚き、「なんで?生田さんが?」地と屋根がドッキングしていたあの衝撃、あの時から私は生田さんに行っていない。震災以前に比べると、凄い人出だった。

私は生田さんの氏子で戦前は「お稚児さん」にも出たし、成人してからは、年が明けると(12時ジャスト)「お神酒」が参拝者に振舞われる列に、友人と一緒に何度か行った。真夜中の寒空に頂くお神酒は喉から胃袋に通過するのがはっきり感じられるくらい冷たかった。五臓六腑に染渡るというのはこういう事を言うのだろう。

2日は本命、奈良の橿原神宮に「初詣」に出かけた。何時もなら渋滞の道も雨模様の為にス~イスイである、駐車場もガラガラ、鳥居近くに止められた。息子一家が今日の夕食後帰るので小雨決行したのである。此処は毎年込んでいるといっても、人の流れが続くだけで参道は長いし道幅もあるし、本殿前も広いので苦にらない。今日は気の毒なくらい露店は閑散としている。

「手水所(ちょうずところ)」で面白い事があった。私の真似をして、口と手を漱いでいた孫娘が「おばあちゃん、この水では手しか洗ったらいかん、言うてはるで・・・」「???」「手水以外には使わないでください」の注意書きを、手だけ洗え口は漱いではいけないと解釈したようだ「これはね『てみず』ではなく『ちょうず』と読んでね、御参り前に口を漱ぎ手を洗うと言う意味だと思うよ」と言って聞かせた。この頃知り尽くしている事も何となく自信がなくて、帰って『手水』を調べてみた。私の解釈に間違いなくてホットした。

私が遠い橿原神宮まで足を運ぶのは「大きな絵馬」に引かれてである。もう二十数回通っているが、初めの頃は私の記憶違いで無ければ、毎年違った画家の方が書いておられたと思うが、この近年、上村淳之画伯の絵に統一されているようだ。

最初の頃は思い思いに自分達家族で絵馬の前で写していたので、どうしても他所の人が一緒に写っていた。この数年前から一グループずつ、絵馬の前で写せるようになった。順番が来るまで少々待つが、今は定着してきた。並んでいる内に、この人と思う人にシャッターを切ってもらう交渉をする。私は列に並ばず、絵馬の瞬間の空間を狙って絵馬だけを写す。今年は署名の所に人が立って残念でした。

「破魔矢」を買って、新しい年が始まりました。




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