ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

それでもボクはやってない

2007年01月22日 | 映画の話
            (見~つけた)
            白も良いですね
         年末には忘れずに買いましょう
      今、1月、私には12月は飛んできますよ

「それでもボクはやっていない」を見に行った。題名で長くて漢字のないのも珍しいね。今週は見たい映画が沢山あって迷ってしまう。結局「冤罪」「裁判」と言う事に引かれてこれに決めた。

実話があったと記憶しているが、設定は変えてあった。主人公はフリーターで、就職の面接に行く電車の中の出来事、母親と親友が助ける中心だが、実話はサラリーマンで、妹が兄の冤罪を晴らそうと運動した。

周防監督が3年を掛けて裁判について取材し、11年ぶり(シャル ウイ ダンスからそんなに経っているとは、吃驚!)にメガフォンを取った。

主人公のフリーターの青年が就職の面接を受けに行く電車の中で、痴漢と間違われた裁判で「無実」を主張するが、結局は有罪となり、「控訴する」と言う言葉で終わっている。

日本の裁判制度の問題点を浮き彫りにしつつ描いていく。被害者の女の子の出廷場面では、傍聴席との間に仕切りが立てられるとか、この事件のように猥褻事件には、それ専門に傍聴するオタクが居る等、今まで知らなかった事を見せてもらった。又、痴漢行為にも種類があり、スカートの上からさわれば「迷惑防止条例違反」直接さわれば「強制猥褻罪」に分かれる事も知った。

女の子のあやふやな発言にもいらいらした。「あんたのその言葉で、青年のこれからの未来に濃い影落とす事になるのだ」と叫びたかった。弁護士は数をこなさなければ、実績を認められないとか、そのため同時進行の事件を多数持つので、一つことに時間を割いておられないとか、色々知った。

二時間半に近い上映時間だったが、のめりこんでいる内にアッと言う間に時間がたった。でも気持ちはイラついていた。裁判では許可がなければ、又質問に対する答えだけしか許されていない為、被告も、その応援者も退場を恐れて無言である。

私自身「彼は無罪だ」冤罪ものだと信じて見ていて「そうじゃないでしょう!」「何言ってんのよ!」と叫びたいのを我慢して見ている訳だから、凄いストレスがたまったかなと思うけど、でも不思議と疲れは感じなかったのは何故だろう。

ジムに行く道筋に、簡易裁判所がある。今、建て増しの工事中である。此処にもテレビで見るような網目のあるガラス窓の輸送車を何度か見たことがある。神戸の裁判所の内部は見学した事はあるが、実際に裁判が行われているのは見たことがない。

主人と「一度裁判を見よう」と言いつつもう何年経っただろう。でもやはり同じ経験するなら「簡易裁判所」ではなく「裁判所」の傍聴席に座りたいな~。

昔から映画は大好きだ。その頃の日本映画は大方が3~4本立てし、見たところから見た所まで、洋画の場合だと2回ぐらい見ることもあったけれど、今は一回きりしか見られない。洋画の封切映画の事を「ロードショウ」と言って料金が高かった。その点で言えば、今は粗方「ロードショウ」だ。

今のように若者の遊び場所も無かったし、若者がお酒を飲む場所に出入りする事も無かったから、お付き合いの初めは「映画に行こう・・・」ではなかったかしら。

若者がお酒の場に行きだしたのは「からおけ」の出現も大きな要因ではないかしら。今のように、それ専門の「カラオケボックス」なんて無かったし。そして女子がおじさま族の憩いの場所、居酒屋や温泉に興味を持ち、進出し「おやじギャル」何て言葉がはやって久しい。世の中変わったね~。
コメント (2)
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