ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

東北関東大震災 (3)

2011年03月16日 | 雑誌から

              「黄水仙」   武庫之荘の町角     (11-3-15)


私の瞼は朝から張れぽったい。新聞を読んでは涙ぐみ、テレビを見ては涙するか
ら…。阪神淡路大震災の時、私はこんなに涙を流しただろうか? いいえ、流しま
せんでした。涙する余裕すら持って居なかった。余震に怯えて緊張ではちきれんば
かりだった時涙する余裕もありませんでした。

親戚を尋ねて、神戸を歩き廻った時も、少し日時がたって、動き出した電車に乗っ
て、何時もは家々にともっていた光で明るい夜の神戸が、一つの光もなく漆黒の闇
に呑まれているのを眺めた時も、私の目に涙はありませんでした。

涙は何時出るのだろうか? 我事ではなく、一寸でも距離を置いた環境で涙は流れ
るのだろうか?


岩手は小澤さんの地元ではなかったですか? 選挙区で無いにしても、何故姿を見
せないのでしょう? マスコミも何故一言を貰いに行かないのでしょう? 私には不
思議で仕方の無い事です。 


南三陸町の町役場、町危機管理課職員の遠藤みきさんのお話です。彼女は「6m
の津波がきます。早く逃げてください」と無線放送し続けて、今、行方不明なの
です。

お母さんはすでに津波から逃れていました。みきさんの声を聞きながら携帯だけも
ち、着のみ着のまま車で志津川高校まで逃げてきた友人は、おかあさんに「娘さん
の声がづ~っと聞こえていたよ」と話したそうです。

責任感の強い娘さんを持ったお母さんは、どんな思いで友人の話を聞かれたので
しょう。娘さんが流されるのを見たという人もいたそうですから、絶望的かもしれま
せん。

人事だからいえるのかも知れませんが、これから嘆いて生きるのも一生。自分に課
せられた仕事を命を掛けて果たして、大勢の人の命を助けた。その娘さんを誇りに
思って生きていただきたい。私は思っています。

役所は跡形もなくなるほど壊滅したそうです。

この話を聞いて、「氷雪の門」を思い出しました。去年の12月20日のブログに
書きました。

樺太(今のサハリン)の真岡郵便局に勤務して居た、電話交換手の9人の乙女のお
話です。昭和20年8月15日無条件降伏して、終戦を迎えた日本に対して、「日ロ不
可侵条約」を破って、ロシアが樺太に攻め込んで来ました。そのロシア軍が、真岡
に侵入すると知った乙女達は、最後の最後まで、電話をつなぎ続け、ロシア軍の暴
力の手に掛かる前に「青酸カリ」を飲んで命を絶ったのです。

最後の最後まで、自分の仕事を全うしたということが同じだと思ったのです。今は自
分本位の日本になっていますが、昔の日本人は、人のため自分を捧げるという人
種だったのでしょう。そのDNAが「遠藤みき」と言う女性の中に息づいていた。
私はそう感じたのです。

惜しい人を亡くしたと思います。きっといいお母さんになられたでしょうに。せめ
てもう一度お母さんに貴女の顔を見せてあげて欲しい。それが貴女に対するご褒
美だと、そして、もしかしたら最後の親孝行だと、そうあってほしいと願っています。




コメント (2)
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