あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (十五) 高橋太郎

2021年07月10日 07時48分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


辞世
大君の御代をかしこみ千代八千代
萬歳  萬歳  萬々歳
元陸單歩兵少尉 
高橋太郎



遺書
夜來ノ雨ニ洗ハレ木々ノ緑愈々色濃シ
十有七ノ鮮血ニヌグハレ皇國体ノ眞姿皎々トシテ輝カン
鮮血ト涙トニ洗ハルヽ皇國ノ前途燦タリ尊キ哉
うつし世に二十四歳の春過ぎぬ
笑って散らん若ざくら花

み光を蔽へる雲をうち拂ひ
眞如にすめる今ぞのどけし

昭和十一年七月八日

元陸軍歩兵少尉
高橋太郎書


高橋太郎  タカハシ タロウ
陸軍歩兵少尉
歩兵第三聯隊
大正2年1月1日生  昭和11年7月12日銃殺
陸士46期生 安田優 中島莞爾 と 同期

御身の將來を見極めず心を遺しつつ大君の御盾に伏す
昭和十一年二月十一日の紀元節の佳日における注意を永久に忘るる勿れ
兄はたとえ形骸は一片の骨と化すとも、心霊は永遠に皇國を守り、御身の將來を祈るべし
兄は唯
大御心に仇なす輩と戰うのみ
御身も心せよ。日本人の使命を
私利私欲の徒輩となる勿れ
大御心のまにまに生成化育発展すべき大日本國民の眞生命をつかめ
尊皇絶對一君萬民の皇運の扶翼に邁進せよ
是れ一つに兄の志をつぎ
兄の霊を慰める所以と知れ
さらば、弟よ
身體の強健に
精神の嚴正に
大日本帝國のため身命を擲なげう
昭和十一年二月二十二日
治郎殿    机下
・・・弟 ・ 高橋治郎宛の遺書

弟へ思ひ出るまま
頼りにし兄を失ひし弟よ
悲しみの海に漂へる弟よ
涙の谷に沈める弟よ
唯  徒らに歎くなよ
兄死せりと思へば悲しからん
兄は死せず  汝の傍に在り
ひたすらに兄を憶へ
ひたすらに兄の敎に励め
悲しみに代えるに發奮を以てし
涙にかえるに努力の汗を以てせよ
さらば不幸は幸福を招來せん
忘るる勿れ伯母上の厚恩
忘るる勿れ意志の鍛錬
忘るる勿れ己が現在
脚下を照顧せよ
陛下の赤子たれ眞日本人たれ
兄の仇は世の惡なり
罪惡と戰へ
兄の味方は貧しき人なり
貧しき人に不斷の同情を持て
浮世の波あらくとも
人世の谷深くとも
さかまく波にも
岩間の露にも
月は等しくその影を宿す如く
兄は常に汝の身に在り
汝の涙をぬぐひ
汝の心の闇を照すべし
見榮をすてよ慾をとめよ
外形に執する勿れ
その實をとれ
日に兄の前に三省せよ
兄は汝の善行に喜び
惡行に歎くべし
父上の臨終の御言を思へ
兄の最後の訓を忘るるな
徒に涙の谷を喞かこつ勿れ
谷いよいよ深くして山いよいよ高く
不幸ますます多くして
意気ますます盛んなれ
汝の心を大にせよ
汝の心を高くせよ
蹉跌は誘惑なり
懈怠は惡魔なり
此の誘惑に打ち勝ち
此の惡魔を降伏して
成功の道開かれん
楽しみに有頂天たる勿れ
苦しみに絶望する勿れ
苦樂は綯へる繩のみ
小事は大事なり忽にすべからず
良薬は口に苦し
忠言は耳にさからふ
原伯母上の忠言にきけ
徒らに甘言に動くなかれ
友を選ぶべし
述べる所兄が最後の訓戒
兄を憶ひ兄を生かし度くばこの戒に忠實たれ
・・・弟 ・ 高橋治郎宛の遺書
高橋治郎著  一青年将校から

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あを雲の涯 (十六) 安田優

2021年07月09日 07時35分00秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


遺詠
長へに吾れ闘はむ國民の
安き暮しを胸に祈りて
昭和十一年七月十一日

今日こそは命たゝなむ安らかに

吾がはらからの胸にいだかれ
昭和十一年七月十二日    安田  優

絶筆
「 某  閉眼せば加茂川に投じ      
安田ゆたか
 魚にあたう可し 」 と
南無阿弥陀佛に歸依し奉る
昭和十一年七月十二日午前八時十三分

我がつとめ 今は終わりぬ
安らかに
我れかへりなむ 武夫の道
刑死前十分  安田 優

白砂の不二の高嶺を仰ぎつつ
武さしの野邊に我が身はてなむ

我を愛せむより 
國を愛するの
至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日刑死前五分  安田 優


安田 優  ヤスダ ユタカ
陸軍砲兵少尉
陸軍砲工学校 ( 野砲兵第七連隊付 )
明治45年2月1日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士46期生 高橋太郎 中島莞爾 と同期

遺書
家計安からずして笈を負わしめ、
今漸々にして獨立鞠育の恩に報ぜざる可らざるの秋、
此の度の悲嘆をあたへ申し、全く以て申し譯なし。
只 希はくば、児が嘗つて常に希ひたる孝心に賞で寛容あらせられ、
平常に安らかに、我が處刑を見送られむ事をのみ希ひ奉りてやまず。
児が先行の罪、誠に大なり、
只 児は二人の父母、上の兄弟姉妹に見守られつつ、
平然と刑に服し 永久に同胞の胸に歸らむとす。
児としての幸、是れにすぎまじ。
夫れ、制度萬古に髙し、判決文は其の表現たる可し。
余は藻とり 絶對的國法確立のために立ちたるもの、
絶對的國法の處斷には欣然之に赴くもの、敢て躊躇す可きものぞ、
只 希くば 天命を全うせられむことを。
我必ず極楽浄土に東導せむ。
故に我死を怖るる事、更になし、されば刑の宣告は釋尊浄土導引の妙音たり。
論告は 三途河畔、渡場を訪るるの涼風たり。
更に亦、政治に罪惡なし、失敗は罪惡の根拠たり矣い。
我れ 今又、何をか言はむ。
余は我を愛するより國を愛するの情、更に切なりき。
故に吾人は死につくと雖も、更に更に國民の安らかなる生活と之に依って來る可き、
皇國の隆盛を祈りて熄やまざるなり。
今や十有七名、手をとりて共に共に黄泉の旅に先立たむとす。
三途の河波も亦、更に波立たざる可し。
余等 今や三途河畔渡場に舟をまつの間、更に地獄をして極楽浄土たらしめんとす。
余は今や、余のすべての兄弟に信頼し、父母を委して黄泉の旅に先行せむとす。
余の瞑福を祈り下さらむとせば、之は只 平然と我が處刑を見送り下されむとするのみ。
我が未だ立つ能はざる幼き弟達は、
必ず我が両兄上、姉上、両弟の手によつて生長するを得む。
今や更に 何をか思ひ残さむ。
我今死すと雖も、我の代りに更に新しき姉上を得たるに非ずや。
我れ不孝不悌の罪をのみ謝し、
其の寛容に委して、
吾勇みて死につかむ。
時当に夏七月、而も冷風徐に我が紅頬を撫す、
天又夫れ、我をあはれまんとする乎。
切に希はくば天命を全うせられよ。
昭和十一年七月十一日
安田優


宣言
維新と言ひ 革新と言ふは、
人事刷新天劍の行使に有り。
吾人は是に奮起し、
左の奸賊を艾除するために天誅を加へむとす
目標        担當者
西園寺公望        安田優
仝                     相澤三郎
一木喜徳郎        村中孝次
寺内寿一           丹生誠忠
仝                     安田優
牧野伸顕           水上源一
梅津美治郎        高橋太郎
南次郎              中橋基明
石原莞爾           坂井直
仝                     香田清貞
湯浅倉平           對馬勝雄
仝                     栗原安秀
宇垣一成           竹嶌繼夫
現閣僚(全)         安藤輝三
石本寅三           田中勝
植田謙吉           林八郎
片倉衷              磯部淺一
軍法務官(全)  ( 但除 藤井法務官 )      右同
林銑十郎          中島莞爾
荒木、眞崎、山下、石原        澁川善助
右天神地祗の加護を仰ぎ、吾人全力を効して 是を必ず遂行せむとす
昭和十一年七月十一日
安田優

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
« 註 »
安田少尉の、もう一つの遺書と同じく、
奉書の巻紙に書かれたもので、七月十一日の日付がある。

なお 同夜の日付で、竜土軒の主人宛に書いた一同の寄書が残されているのをみると、
十一日の夜半から十二日の朝にかけては、ある程度の自由な行動が許されたのではないかと思われる。
したがって、この 「 宣言 」 も、皆が話合ったことを安田少尉が書き残したものと想像されるのである。

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あを雲の涯 (十七) 中島莞爾

2021年07月08日 07時25分45秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


身はたとひ 水底の石となりぬとも
  何惜しからん 大君のため
はやり男の 走せゆく道は一すじに
  大和心と知る人ぞ知る
親子どり つよく生きゆけ 世の風は
  つめたく吹くも われは守らん
世の人は 知るや知らずや 如月に
  魁けて咲く 花の心を
惜しからず 永らへし身の 今日は早
  つくすつとめも 終りけるかな

昭和11年 ( 1936年 ) 7月12日
中島莞爾少尉の遺詠である



幽魂 永へに留まりて
君國を守護す

七月十二日
莞爾


中島莞爾  ナカジマ カンジ
陸軍工兵少尉
陸軍砲工学校(鉄道第二聯隊付)
大正元年10月9日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士46期生 高橋太郎 安田優 と同期

『 想痕錄 』

二十五年の間不幸の子は、名をも棄て此の世を去ります。
徹頭徹尾、貧しく弱い者の味方となり、國の眞の姿をと力めた子は、
國の將來を想ひつつ血の涙を呑んで死に就きます。
日本の國を信ずるが故に何もかも棄てて起ち上りました。
私には御母上の痛い胸の中がよくわかります。
十九人の兄弟の念力は阿修羅になって國を守ります。
何卒、何卒、千万年の寿を全うせられます様、魂となって御守りをさせて頂きます。
七月十一日
母上様  莞爾

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あを雲の涯 (十八) 林八郎

2021年07月07日 07時19分15秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


御母堂との面会の時、林は優しく慰めの言葉をかけて
「 お母さん 泣いてもいいですよ 」
と いったという。

母への遺詠
御心をやすむる時もなかりしが
  君に捧げし此身なりせば
母上様に捧ぐ
昭和十一年七月十一日
八郎


不変の盟

鬼となり神となるともすめろぎに
  つくす心のたゞ一筋に
すめろぎの隈なき光みつれやと
  たぎる血汐に道しるべせん
焰峰生  林八郎書

遺詠
不惜身命
為  松下孝君
焰峰  林八郎
・・・同期生に宛てたもの
・・・林八郎 『 不惜身命 』 


林八郎  
ハヤシ ハチロウ
陸軍歩兵少尉
歩兵第一聯隊
大正3年9月5日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士47期生 池田俊彦 常盤稔 清原康平 鈴木金次郎 と同期


結末は吾人等を踏台に蹂躙して幕僚ファッショ時代現出するなるべし。
あらゆる權謀術策を、陛下の御名によって弄し、
純忠無私、熱誠殉國の志士を虐殺す、國體を汚辱すること甚し。
御聖徳を傷け奉ること甚しい哉
吾等も死すれば不忠となる。 斷じて死せず
吾等の胸中は明治維新の志士の知る能はざる苦しみあり、憤あり。
如何に師團を増し、飛行機を製るも正義を亡し、國體を汚して何の大日本ぞ
大日本は神國なり、不義を許さず。
勢の窮まるところ最後の牙城を倒す時に眞の維新來るなり
・・・
林八郎 『 一挙の失敗並に成功の真因 』 

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あを雲の涯 (十九) 水上源一

2021年07月05日 05時51分45秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


國の爲よゝぎの露と消えるとも
天より吾は國を守らん
大御心雲さいぎりて民枯る
死しても吾は雲をはらわん
昭和十一年七月八日
源一 書

水上源一 の遺詠である

終始一貫  至誠報告
昭和十一年七月九日 


水上源一  ミズカミ ゲンイチ
民間人 北海道出身 日本大学卒
栗原中尉と交友 埼玉挺身隊事件に関係
 
渋川善助、栗原中尉と親交があった
明治41年9月28日 生れ   昭和11年7月12日銃殺

獄中から同志へ
正ちゃん、清さん、西郷さん、清治さん、宇さん、宮さん、元気ですか、私は元気です。
昨日妻子に面會致しましたから、變元気で妻は私を激励してくれました。
其の後の生活は満洲の弟が來て世話してくれたそうです。
やはり他人は冷たいとか。
しかし妻は初めから決心していたらしく、今ある仕事を練習しているそうです。
住所はやはり東京に置くらしい。
願わくは貴兄、
いな同志諸君一日も早く出て國家の爲尽し余暇あらば吾が跡を見てくれ給い、
しかして小生の墓も東京附近に造るらしく、
草生えていましたらこれを刈り取り石なりと目じるしに立てかけてくれん事を此世において最後のお願い。
最早命も時間の問題、余す所幾ばくか、
諸兄の一日も早く社会へ出られ御幸福な生活に入られん事をあの世とやらでお祈りしております。
先は永久に永久に、左様奈良、御機嫌よう。
同志諸君へ
正ちゃん・・綿引正三 清さん・・黒田昶 西郷さん・・黒沢鶴一
清治さん・・中島清治 宇さん・・宇治野時参 宮さん・・宮田晃

 

水上源一は求刑では禁錮十五年、そして死刑の判決を下された。

七月五日の夫から妻への手紙
拝啓
長い間御無音に打過ぎ誠に申訳け御座いません
其の後如何お暮しかと毎日心配致して居ります
先日 お前等の事に就きまして
Mさんにお願ひのお手紙を日大歯科気付にて差上げましたが
御多忙かまだ御返事ありません
お前等の後顧の患も考へず今回の事件に参加致しました。
しかし賢明なるお前は良く私の心を諒解してくれる事と思ひます
甚だ申兼ねる次第ですが
本日(七月五日)東京軍法会議に於て死刑の言渡しを受けました
しかし決して歎かずに下さい
私の只今の心境は今年の正月に書初致しました通りです
決して取り乱さぬ様、人は一代ですが、名は末代迄です
身体は此の世から消えるとも魂は必ずお前と宣子の頭上にありて何くれとお守り致します
これより女の手一つで宣子を育てるには幾多の困難に出会ふ事でせうが
何卒宣子を立派に育て上げる様お願ひ致します
二人の間には不幸にして男子無き故私の意志を継ぐ事出来ず残念至極に存じますが
せめて宣子が成長の暁には私の意志をお聞かせ下さい
お前も御承知の如く小さい時から母上様には勿論兄上様には非常なる御恩を受けて居ります故
何卒私にかわり母上様兄上様に御恩返し下さる様
今後の事は兄上様とよく御相談の上決せられたし
宣子へ
宣子の生れいづる時父は獄にて知らず
今又可愛い時代を見ず天皇陛下の御ため死する
宣子も又父の顔を幼い故知らずに残念であらうが
写真を見て昔の記憶を呼び起せ
父に逢ひたければ墓場に来たれ
父は嬉んで迎ふ
母は女の手一つで宣子を生長させる故 
我儘を言はず母の言ふ事を良く守り
立派な女子となり母に孝養せよ
此の書面は最後と思ふが十二分に身体を大切にせよ
私もあの世とやらから初子と宣子の御壮健と御多幸を祈る
もし此の書面が早く到着したら至急面会においで
先は永久に永久に左様奈良 御機嫌やう
・・・(後略)
水上源一
初子
    様
宣子
昭和九年一月三日長女が生まれたとき、
父親は救国埼玉挺身隊事件の民間側責任者の一人として入獄中であった

七月七日
事件後初めての面会から帰宅して、妻から夫への手紙。
この頃夫人は毎朝五時に般若心経の筆写を行い、夫とその同志の心静かな成仏を祈った。
写経の中へ畳みこまれて手紙は夫のもとへ届いたのである。

約六ケ月振りに御逢ひ出来ました時の私の胸中、
貴方にはよく御わかりの事と思ひます。
種々なる事共を御話し又意中を聞いて頂き度く参りましたのに、
思ふ様に申上げえず、
女々しくも涙など御見せ致し、申訳なく思つて居ります。
相変らず弱き妻と御思ひで御座居ましたでせう。
事実私は今まで貴方の胸にいだかれ切つて居りました。
其れ故何時でも御一緒で無ければ心細く、
最後の時もかならずご一緒に出来るものと信じ、
常から心の用意は致して居りました。
此の私の胸中を知るや知らずや
(中略)
霊魂の不滅を信じて、
何時も貴方が私の身体内にかならず居ります事と信じて、
宣子が一人前になりますまで強く生きて参ります。
そして貴方の名前をきづつける様な事は断じて致しませんから決して御心配無く、
安心して立派に最後をかざつて下さいませ。
宣子が貴方の子供として恥しく無い様立派に教育出来ました暁は、
喜んで貴方の待つて居ります安住の地へ飛んで参ります故、
一寸の間御辛抱下さいませ。
きつと貴方に喜んで頂ける様な御話を御土産にして御もとに参ります。
其の時はより以上の楽しい日々にして下さいませ。
今から其の日の来ます事が待遠しくてなりません。
 (以下略)
この手紙の最期に妻は
「 永遠に貴方の妻 」 と 書いた
そのペン字の上へ、
墨黒々と
「 此の手紙は吾と一夜を共にせり 」
と 夫は書く
手紙は夫の遺体、遺品とともに、
処刑後、妻のもとへかえされたのである。

昭和拾壱年七月八日、
妻より受けたる手紙の返事

我が最愛なる永遠の妻初子よ。
汝の胸中聞かずとも 我れに良くわかる故に
感謝と幸福を感じつゝ我れは喜んで死す。
我が魂は汝等の身体内にあり常に良く守らん。
汝のなすべき義務終りたらば、我がもとへ来たれ
嬉んで迎へ共に楽しい日を送らう
それ迄汝の言の如く辛抱致し 良きお土産を千秋の思で待つ。
義務終る迄強く強く生きて行け。
頼む

七月十一日、最期の面会。
別れを告げて面会室を出かかった夫は、
顔を遮蔽する白い面布をかぶった。
瞬間、その夫の許へ駆け寄って、くちづけした。
ささやかな切実なみそかごとを、白いヴェールが蔽いかくしていた。

この面会を終えて、今は処刑の時の迫るのを待つ
水上源一の手紙
我が最愛なる永遠の妻初子
汝の差入物を大変良く ( うまく ) 食ました
一つ一つが最後のものと思えば感慨無量だ
最後迄お前の心尽し
永遠に忘れや致しません
深く深く感謝致します
(中略)

栗原さんも私も後には吉田兄沢田兄ゐるからこれ又安心
「吉田沢田両兄 宣子初子を頼む」
その内に綿引も出て行く
(中略)

先は御壮健と御幸福を祈る
夜明けだ
時間も切迫して来た
永久に永久に左様なら
今日からお前と宣子の元へ帰る事が出来て嬉しい
母様兄様の所へも行く事が出来るのがほんとうに嬉しい

十二日は、暑い日であった。

東京衛戍刑務所からの通知が届けられたのは朝。
既に処刑は終った時間である。

「 水上源一の御遺骸御引取ノ為 
本十二日午後二時東京衛戍刑務所ニ出頭相成度 」

と あった。
水上源一は午前八時三十分処刑。

妻が差入れた扇子に、
「 我が永遠の最愛なる妻初子よ

 義務終りたらば来れ
我れは嬉んで迎ふ
それ迄は強く強く生きよ
昭和十一年七月拾壱日 夫源一 」
と その前夜に書き、箱に、
「 今処刑台に行かんとし

それ迄我手に固く持つてゐたもの 
既に栗原さん露と消えたり 」
と 書き残して刑場へ去る。
・・・
夫の柩の蓋をとって死顔と対面した後、

妻は綿を含んだ口へ指を入れて夫の歯を確かめ、
夫の体徴の一つであった小指の曲がりを確認した。
夫はよくものを言った瞳を固く閉したままであった。
「 わたしと思って下さいね 」
その朝切った長い黒髪を夫の胸に抱かせて別れを告げた。

霊柩車の暗い車内に夫の柩を守ってたった一人火葬場へ揺られてゆく。
暑さは容赦ないが、体中の水が涙になったように烈しく頬を伝う。
誰に遠慮もいらない夫と二人だけの密室を、妻のむせび泣きが満たしていた。
・・・リンク→昭和11年7月12日 (十九) 水上源一 

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あを雲の涯 (二十) 相澤三郎

2021年07月04日 05時45分56秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


まごころに よりそう 助けかひありて
仕へはたして 今帰へるわれ

七月二日午後十一時
三郎
米子へ

昭和11年  ( 1936年 ) 7月2日
相澤三郎中佐の 「 辞世 」 である

昭和十一年七月のはじめ、獄中の菅波の独房へ、
看守の手を通じて、死刑を目前にした相澤の辞世が届けられる。
かぎりなき
惠の國に生まれきて
今たち帰る神の御園生
と、ちり紙に達筆でしるされてあった。

「 これは生命的実在論に立つ、実にみごとな死生観である。
 幽界 ( 本体界 ) から生れ来て、顕界 ( 現象界 ) における使命を果たし終って、
再び本体界に帰って行く、

いみじくもすばらしい日本的生命観の表白である 」
と、菅波は感動したという。

私位幸福者は有りません。
兎に角、自分の思ふ通りに凡てを實行して來たのですから、
之で一切の仕事は終つたので 喜んで大往生が出來ますよ。
ですから何も 恨みも悲しみも有りません。
今日も子供達と面會して能く言ひ聞かせてやりました。
が、皆能く解って にこにこ笑って歸って行きました。
又 此の刑務所創立以來、私程親切なる取扱を受けた者はないでせうね。
随分御馳走になったり、御世話になりました。
と、発言し微笑せり
七月一日午後六時四十分頃
看守視察事項


昭和十一年七月二日
午後十時半、全てを了へました。
今から御前と話をします。
夫婦は二世と言ふが、お前とは萬世だ。
これは神様の御仕になつて出來ました。
お前と私は最大の幸福ですよ。
私は明日は此の世の中の束縛から脱しまして、「 ぢき 」 に お前のところに参りますよ。
お前の情に抱かれて
此の度は一掃の勇猛新を以てお前と一所に子供をそだてるばかりでなく、
立派に一層忠義を御盡し得ますよ。
早く歸りたい。
決して離れないから。
お前の信仰は誠にうれしい。
過去を考へると おかしいねー。
そこで趾始末等はお前はやるもよいが、
十分睡眠を例の通りやつて身體を元気にしないといけないよ。
勿論私の持つて居るちつきれ相な精神は、皆お前に譲るから、
明日からはお前の大事な心臓は今度は非常に丈夫になるよ。
信仰よ、ほんとうだよ。
笑ふ顔が見えるねー。
さつき歌とか言はれたが、書きよーないが、さー、なにか書こーか。
まもるらし 此の三郎の魂は
まもるそなたと 千代よろづよに
みごゝろによりて そうたるかえあつて
仕へ果して 今かへるなり
もう午後十一時になりますよ。
かぎりなき 思はそちの情にて
たのしかるべき 末の末まで
中々歌はむづかしいね。 
木曜日。  三郎


相澤三郎  アイザワ サブロウ
陸軍歩兵中佐  陸士22期生
歩兵第41聯隊付
昭和10年8月12日 永田鉄山軍務局長に天誅を下す 「相澤事件」
明治22年9月9日生
昭和11年7月3日午前5時4分 銃殺

剛毅朴訥 仁に近し
剛毅朴訥 にして、決行敢為の風あり

『 十の想いを一言で述べる 』
・・如何にも、相澤中佐に相応しい

相澤三郎發石原莞爾宛
昭和十一年六月二十五日
私考左に申上御座候
一、人生意義確立
二、人生目的の統一
三、尊皇絶對が人生活動の根源
四、尊皇學の無窮無現の創造確立
  宗教、哲学、倫理道徳其他科學進化の根底確立
五、天御中主大神を祭り奉る昭和大神宮を建立遊ばさること
六、御完成大祭と同時に世界人類に宣布せらるる如き大詔渙發を仰ぎ奉りたきこと
七、世界人類に活動の根底を明かになし下さるべき憲法、法律の御發布を仰ぎ奉りたきこと
昭和の大業御完成に世界人類のあらゆる叡智を絞って翼賛し奉る如く、
殊に輔弼の重責にあらゆる方は高邁こうまい絶大なる努力を捧げらる如く即時、
協力、決心をなされ度く御進言をなし下され度く存候、
勿論一私見に過ぎざるものに御座候も奉公の微衷のみに御座候
何率御了承下被度奉梱願候
敬具

日本という国は不思議な国だ。まさに神国だ。
こんなに腐りきり、混乱した時世になると、神の使いのような人物が現れる。
相澤さんなぞはその尤ゆうなる人だ。
神の使いのように心に一点の曇りもない。
至純、至誠の人というのは相澤さんのような人を言うのであろう。
・・・西田税

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説得と鎭壓

2021年07月03日 15時20分10秒 | 説得と鎭壓

上奏案 ( 未定稿、要旨也 )
現時迄ノ情勢ニ依ルニ、三宅坂附近占據ノ將校以下、事件決行後、
其待望セル昭和維新ヘノ實際的進行遅々トシテ進マザルヲ憂慮シ、
其端緒ヲ見ル迄ハ身命ヲ捧ゲテ君國ニ殉ズルノ決心ヲ堅持シアリ。
爲ニ事體ノ推移ヲ此儘ニ放置スル時ハ、皇軍相撃チ且無辜ムコノ臣民、
外國人等ニ對シテモ死傷者ヲ生ズル大不祥事ヲ見ズシテハ
本日拝受セル奉勅命令ノ實行ヤ不可能トナリタルモノト判斷セレラル。
若シ萬一建國以來ノ皇謨こうぼニ則リ、     « 皇謨・・天皇のはかりごと »
昭和維新ニ發進セシメラルル行シ、事體ヲ完全ニ収拾シ得ルモノト信ズ。
此カクノ如キコトヲ上聞ニ達スルハ恐懼措オク能ハザルモ、
事態ノ重大性極メテ深刻ニシテ、皇國興廢ノ岐ワカルル秋トキナルニ鑑ミ
臣等謹ミテ聖斷ヲ仰ギ奉ル。
戒嚴司令官  香椎浩平
・・撤回せる上奏案 

説得と鎭壓
目次
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・ 
香椎浩平 「 蹶起部隊を隸下に入れよう 」 
・ 『 二 ・二六事件機密作戰日誌 1 』 
『 二 ・二六事件機密作戰日誌 2 』
・ 戒嚴参謀長 安井藤治 記 『 二・二六事件の顛末 』 

・ 大臣告示の成立經過 
・ 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」
 

・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戰時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
・ 戒嚴令 『 麹町地區警備隊 ・ 二十六日朝来來出動セル部隊 』 

軍事參議官・阿部信行大將 『 我々軍事參議官ハ一致結束シテ時局収拾ニ當ル 』 
・ 眞崎大將の眞情の告白

維新大詔 「 もうここまで來ているのだから 」 

・ 
地區隊から占據部隊へ 
・ 「 オイ磯部、君らは奉勅命令が下ったらどうするか 」 
・ 「 小藤大佐ハ爾後占據部隊ノ將校以下を指揮スルニ及バズ 」 
・ 撤回せる上奏案 
・ 「 私の決心は 變更いたします。討伐を斷行します 」 
・ 「 斷乎、反徒の鎭壓を期す 」 


 
奉勅命令
「 現姿勢ヲ撤シ 各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ 」
 


統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか。
奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、
御伺ひ申上げたうえで我々の進退を決しよう。
若し 死を賜ると云ふことにでもなれば、將校だけは自決しよう。
自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか 。
・・・
栗原中尉
・・・ 
彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 

・ 
村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に從わねばならん 」 
・ 「 奉勅命令ハ傳達サレアラズ 」 
・ 兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」 
・ 
「 お前たちの精神は、この山下が必ず實現して見せる 」 
・ 
丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 
・ 「 畢生の至純を傾け盡して御國のご維新のために陳述す 」 
・ 
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」 

ラジオ ニオイテ勅命ニヨリ 事ノイカンヲ問ワズ所属隊ニ復歸スベシトキキ、
マズ首相官邸ニ行カントシ自動車ニノリ行ッタトコロ同志ガオラズ、陸相官邸ニ行キマシタ。
コノ時參謀ノ砲兵大尉ニ會イ同ジ砲兵デアルノデ二人デ相擁シテ泣キマシタ。
ワタシハココデ 二、三時間マッテイマシタガ、私ハ自決ノ爲 拳銃ヲ腹ノ中ニシマッテオッタノデアリマス。
コノトキ私ノ考エタコトハ自決スルノガ一番コノ世ノ中デハ樂だト思イマシタガ、
自決シタナラバ世ノ中ハドウナルノダロウカト考エマシタ。
シカシ 私トシテハドウシテモ自決セネバナラヌト考エタノデアリマス。
午後六時頃デアリマス、
コノトキ 石原大佐ハ オ前タチハ自首シテキタノデアロウト侮辱的ニ聽キマシタカラ、
私ハ自首シタノデハアリマセン、
武人トシテ面目ヲ全ウサセテイタダキタイ爲デアリマスト答エマシタ。
私ハコノ時、非常ニ遺憾ニ思ウタコトハ、自決スル機會ヲ与エラレナカッタコトデス。
即チ 私ヲシテイワシムルコトヲ聽キ、シカル後武人ノ最後ヲ飾ラセテイタダキタカッタノデス。
單ニ時間ダケ与エラレテモ、結局ソレナラバ私達ハ何ヲヤッタカ無意味ナモノニナルト思イマス。
ツマリ陸相官邸ニ病院カラ行ッタノハ、赤穂義士的ナ最後ヲ求メタイト思ッタカラデアリマス。
・・・安田 優


あを雲の涯 (二十一) 西田税

2021年07月03日 05時42分02秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
殺身成仁鐵血群
概世淋漓天劔寒
士林莊外風蕭々
壯士一去皆不還
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
幽囚未死秋欲暮
染血原頭落陽寒 

十五名の死刑執行後、
昭和十一年十二月四日、監房訪問の際、

半紙に書いた左の漢詩を示して
「 署長殿いかがでしょう、これはものになっていますかね 」
 と出した。
私は漢詩はよく分からないがと受け取った。

天有愁兮地有難  涙潜々兮地紛々
醒一笑兮夢一痕  人間三十六春秋
また、
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
囚未死秋欲
染血原頭落陽寒

この詩は刑死八カ月前の作である
・・・遺書


西田税  ニシダ ミツギ
元陸軍騎兵少尉
明治34年10月3日生 昭和12年8月19日銃殺
陸士34期生 秩父宮殿下と同期
北一輝門下 


  処刑前  妻 はつ に送った手紙
小生 今日の事只これ時運なり 人縁
何をか言はむや。 萬々御了解賜度候。
人生夫婦となること宿世の深縁とは申せ、十有二年、
万死愁酸の間に真に好個の半身として 信頼の力たり愛戀の光たり給ひしことは
誠に小生至極の法悦に候、
然して 死別は人間の常業と雖も今日のこと何ばう悲しく候ぞ。
殊に頼りなき身を残らるゝ御心中思ひやり候。
申訳無之候
只 いよいよ心を澄して人生を悟りつゝ 静かに ゆたかに そして自主的につゝましく
おゝしく 少しづゝにても幸福への路をえらみ歩みて 余生を御暮しなされ度候
然らば如何ならむ業なりとも可と存候ものを御信仰なされ度 又幾重にも御自愛なされ
半生病などに心身を痛むることなきやう申進じ候
親族主なる友人等はよく消息して不慮の間違等なきやう存上候
小生はこれより永遠不朽の生命として御身をお守り申すべく 将来御身が現世を終えて
御出での時を御待ち申候
感慨雲の如し十二年而して三十六年
恍として夢に似たり
万々到底筆舌に堪えず候
泣血々々
昭和十二年八月十六日    税
初子殿

最後によめる歌八首
限りある命たむけて人の世の 幸を祈らむ吾がこころかも

あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の 魂は照らさむ万代までも

國つ内國つ外みな日頃吾が 指させし如となりつつあるはや

ははそばの母が心は腸はらわたを 斷つ子の思ひなほ如かめやも

ちちのみの父らまち給ふ風きよき 勝田ケ丘のおくつき所

うからはらか世の人々の涙もて 送らるる吾は幸児なりけり

君と吾と身は二つなりしけれども 魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし 君が心に吾はすむものを

八月十七日、処刑の前々日に
「 残れる紙片に書きつけ贈る 」
 と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
西田は 「 さよなら 」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
死刑の判決は昭和十二年八月十四日、十九日には執行でした
判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
さよなら 
と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。
・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯

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眞崎大將の眞情の告白

2021年07月02日 08時34分30秒 | 説得と鎭壓


眞崎大將に對する曲解
ニ ・ニ六事件を論じた多くの著書で、
全部が全部といっていいほど誤りをおかしているのは、眞崎大将と靑年將校との関係である。
それは眞崎を靑年將校の首領とみなしていることである。
いいかえれば、両者を親分子分の関係にでっちあげていることである。
事件のカンどころを最もつかんでいる 『 ニ ・ニ六事件 』 の著者 高橋正衛も、このことに関するかぎり例外ではない。
私が在京中は、両者の間に親分子分の関係はみじんもなかった。
事件の起こった二月下旬までのわずか二か月の間に、
そういう関係になるような急激な変化をきたすことはまず考えられない。
現に磯部は憲兵の取り調べで、次のように述べている。
「 閣下 ( 眞崎 ) ハ靑年將校ヨリ尊敬サレテオリマシタ。
 巷間ハ眞崎大將ニヨリ扇動ヲ受ケテ立ッタト申シテオリマスガ、コレハ靑年將校ヲ見クビッタ話デアリマス。
私共ノ行動ハ信念ニヨリ決行シマシタノデ、扇動ニヨリヤッタノデハアリマセン 」
この磯部と同じようなことを書き残している同志も何人かあるが、
ここでは磯部の例をあげるだけでことたりるであろう。
要するに当時の靑年將校の考え方は、決行に際しては一切独自の力でこれを行い、
眞崎大將や荒木大將など おえら方の力をたのみにせず、むしろそれを無視するという気構えであった。
磯部が昭和十一年にはいって、精力的に上層部訪問をしているのは、
決行後の推進に彼らがどれほど強力するかを、瀬ぶみするためであって、
決して事前の打ち合わせなどのためではなかったことは、私の断言できるところである。
眞崎大將がおのれの野望達成のため、靑年將校を扇動し、
または敎唆きょうさしてあの事件を決行せしめたとする著者も多い。
「 ・・・・眞崎--靑年將校の一部--北 の間に事件前に具體的な聯絡があったのではないかということを思わせる 」
と、高橋正衛著 『 ニ ・ニ六事件 』 ( 中央公論社発行 ) の 百六十八ページに書かれているが、
著者によると、眞崎が靑年將校を扇動しただけでなく、
事前に具体的連絡があったことをほのめかしている。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そもそも、高橋正衛の眞崎黒幕論は、
1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、高橋は、「 眞崎甚三郎 」 研究家の山口富永に対し、
「 あれは私の勝手な想像 」 と 平然と言ったのである。
この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた 「 松本清張 」 が 必死になるのは已むをえまい。
ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。
父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。
久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した 25年間の 「 二・二六事件黒幕探し 」 は 今もかすかに脈動している。

・・・末松建比古 1940年生 ( 末松太平 長男 )   ブログ  ◎末松太平事務所 ( 二・二六事件関係者の談話室 )
から
・・・リンク →拵えられた憲兵調書 「 真崎黒幕説は勝手な想像 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だが、そういう 曲解を生む要因が、いくつかあったことも否定できない。
眞崎大將が事件勃発後、蹶起將校の目的達成のため最初好意的努力を重ねたことが、
曲解される大きな原因をなしていることはいなめないことであろう。
といって 好意的努力を重ねたことがただちに扇動、教唆につなげられることは、
考えすぎといわねばならぬ。
また 昭和十年十二月末、
磯部が丸亀聯隊の小川三郎大尉と眞崎大將を訪問した際
「 このままでおいたら血を見る、俺がそれを言ふと眞崎が煽動していると言ふ・・・・」
という眞崎の言をとりあげて、眞崎の扇動の裏付けとしている場合が多いようであるが、
あの当時の切迫した空気を吸っている私らとしては、別に奇異な感じを持つ程度の言ではなかった。
そんなことで扇動されたり教唆されたりする靑年將校ではなかったはずだ。
いよいよ事件が起きてしまったあとは、この事変に便乗して、もしできるならば、
いままで不当に抑圧されていた憤激を一挙に爆発させて、存分に反発しようと企図するのは、
誰もが考えることではないだろうか。
眞崎大將の場合、そういう心理が動いたであろうことは、私には想像できる。
ところが、事件勃発の当初から天皇の激怒をこうむるという、
予想とは全く逆の事態に当面して、あろうことか思いもよらぬ有史以来まれにみる悲史として、
血のページが書き加えられることになったのだ。
ひとたびは、靑年將校の蹶起の目的達成のために奮いたった眞崎ではあったが、
天皇激怒の情報に接したあとは、その瞬間からすでにその腰は砕けてしまっていた。

昭和三十年ごろのある日、
私は眞崎大將を世田谷の家に訪問したことがあった。
心臓ぜんそくがこうじて、大將の病状は予断を許せない重症であった。
私は、思い切って大將にお願いした。
「 閣下、この際なにもかも どろを吐いてくれませんか 」
事件の真相を眞崎大將の口からきくことのできるのはこのときを除いて もうあるまいと思った私は、
病床に苦しんでおられる大將に対して非情だとは思ったが、
あえて非礼を顧みるいとまのない気持ちであった。
「 よかろう、だが、こういう状態だから一回三十分ぐらいにしてくれ 」
眞崎大將は快諾してくれた。
夏ではあったが、暑い日を避けて、私は数回にわたって大將から、充分ではなかったけれども、
いろいろのことをきくことができた。
そのときのことを、私はここで思い出すまま書いてみよう。
ただそのころの私は、遺書その他 
多くの著書を読んでいなかったため、
質問の内容が研究不足で、細かな点をえぐることのできなかったのを残念に思っている。

眞崎大將の眞情の告白
「 閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか 」
知るはずのないと思いながらも、私は一応確めてみた。
「 オレが知るはずないではないか 」
「 そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか 」
「 二十六日の朝四時半か五時ころ、龜川 ( 哲也 ) がきて知らせてくれて初めてしったんだがね・・・・」
と、彼はその後の行動を次の如く語った。

 川島陸相
八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。
行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生きる屍しかばねのようであった、 ( と眞崎は形容した)
それほど大臣はあわてゝ自己喪失に陥っていたらしい。
その川島を鞭撻して青年將校とも會い、事件処理に心を砕いた。
ころあいを見計らって、彼は加藤寛治海軍大將に電話して、二人で海軍軍令部長、伏見宮殿下を訪ねた。
「 眞崎大將が現狀を詳細に視察してよくわかっていますので、大將の意見をきいていただきます 」
と、加藤大將がいった。
眞崎は、決行部隊の現況をつぶさに説明したのち、
この混亂を速やかに収拾しなければどういうことになるか保證の限りではない、
と 意見を申上げた。
「 殿下、これから急ぎ參内されて、天皇陛下に言上の上、
よろしくご善処下さるようお願い申し上げます 」
と、加藤、眞崎の兩大將は、いち早く天皇のご決意を維新へと導き奉らんとしたのであった。
宮殿下はご納得の上 至急參内し、天皇にご進言申し上げたのであったが、
「 宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である 」
という、天皇のご叱責を受けて、
宮殿下は恐懼して引き下がらざるを得なかった。
   
昭和天皇                 伏見宮                 加藤寛治海軍大将
リンク →伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

私が、眞崎大将の話をききながら、ここでとくに感じたことは、
『 ニ ・ニ六事件 』 は 営門を出た瞬間、天皇のご激怒によってすでに惨敗していたということであった。

眞崎大将が、宮中の東溜りの間に伺候したのは午前十一時半か十二時ごろであった。
そのころ、軍事参議官が逐次集ってきた。
「 軍事参議官会議の模様は・・・・? 」
「 軍事参議官会議を特別開いたというわけではなかった。
荒木が窓の近くで手帳になにやら書きつけていた
( あとで、荒木にそのことを確かめて見た。荒木は日ごろ手帳を持たんことにしていたので、それは何かとの間違いであろう、といっていた 
)
ちょうどそこに山下 ( 奉文 ) と 村上 ( 啓作 軍事課長 ) がはいってきた。
荒木が二人をよんで、なにかいいつけていた。
二人は別室にさがって行ったが、しばらくすると二人が書いたものを持って帰ってきた。
その紙の周囲にいつとはなく、みんな集まっていた。
        
荒木貞夫大将      阿部信行大将      西義一大将         植田謙吉大将       山下奉文少将                     村上啓作大佐
最初 阿部 ( 信行 ) が意見をのべていた。
西 ( 義一 ) も何かいっていたようであったが、よく覚えていない。
植田 ( 謙吉 ) が鉛筆でニ、三書き込んでいた。
そんなことで山下、村上の書いてきた案文は、一応形がととのった。
ところが、軍事参議官にはそれをどうしようにも権限がない。
どうしたらいいだろうと困っているとき、ひょっこり川島大臣がはいってきた。
そこで大臣の権限において、というわけで川島におっつけてしまった。
これがいわゆる 『 大臣告示 』 となったのだ。
したがって、宮中において れいれいしく 軍事参議官会議が開かれたように伝えられているが、
なんということはない、東久邇、朝香の両宮殿下を除いた全軍事参議官が集っていたので、
軍事参議官会議が自然発生的にでき上ったというわけだ 」
と、眞崎はひと息入れた。
あのどさくさのときだ。まあそんなところが真相だろうと私は思った。
リンク
大臣告示の成立経過 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」 
命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 

 香椎浩平
「 川島大臣は、なにがなにがなにやらわからぬまま、
ポカンとして 『 大臣告示 』 をおしつけられてしまった。
そこに香椎 ( 浩平 ) がやってきて
『 これはいい、なにより有難い。さっそく発表しましょう 』
と 喜んで、警備司令部に電話するといって電話室にはいっていった。
オレは大事なものであるから一時一句間違えては大変だと思って、
正しく伝えられるかどうかたしかめるため、副官藤原少佐に命じて、
香椎のあとをつけて電話室に行かせたんだ。
藤原の報告には
『 一字一句間違いなく電話されました 』
とあったので安心したのだ。
あとでそれが誤り伝えられて、問題となった 『 諸子の真意・・・・』 が 『 諸子の行動・・・・』
と なっていたのだ。
いつ誰がどこで間違えたのか、
それが故意でやったのか偶然であったのか、
オレにはわからん 」
「 その日の宮中の、閣下らに対する空気はどんなぐあいだったのでしょうか 」
「 そうだなァ、 厄介ものあつかいだったよ。
お茶はもちろん昼の食事も出してもらえず、そばを注文して食べたのが午後の二時か三時ごろだった 」
と 眞崎は述懐したが、
真崎の肌で感じた宮中のふんい気は、すべて維新という目的に逆行するものであった。

「 彼等の意図した 『 昭和維新 』 が破れたのは、
天皇が明治維新のときのように本然 ( 自然 ) の存在ではなく、
( 明治維新のばあいは徳川が最高の主権者であった )
実は現人神として、彼等の打倒目標の体制に繋がった、
最高主権者であったという事実によってである 」

これは、『 ニ ・ニ六事件 』 の著者 高橋正衛の説くところであるが、
まことにズバリ一言で事件の敗因をいいあてている。
いいかえると、天皇を思い、国を憂いて起ち上がった彼らの行為は、
逆に天皇の激怒を当初からこうむることによって、
営門を出たときすでに敗れ去っていたのだというべきであろう。

宮中東溜りの間での軍事参議官の集りが厄介あつかいにされているとき、
一方では軍の長老は宮中に逃げ込んで
身の安全をはかっているという誹謗が流れはじめた。

そういう非難の中で軍事参議官一同は、
宮中を出て陸相官邸におもむき、青年将校らと会見し、話し合うことになった。

この会見の模様は、磯部の 『 行動記 』 に詳しいので省略するが、
事件収拾の上に何ら見るべきものはなかった。

夜になって、軍事参議官は全員偕行社に仮泊することになった。
「 靑年將校が、林大將を殺害するために偕行社に襲撃してくる 」
という うわさの出たのもこの夜のことであった。
「 オレと荒木とで、なに食わぬ顔をして、
林を二人の間にはさんで守ったりしたんだが、いまから思うとおかしなデマだった 」

と、眞崎はなにげなくしゃべっていたが、
その夜の軍内のあわてた空気が、いかんなく現わされている。

林銑十郎大将
二月二十七日、二十八日は、
磯部の 『 行動記 』 その他で現在明確にされているところと、
眞崎の談話との間には、別にとりたてていうべきものはなかった。

二月二十九日は、軍事参議官一同 宮中東溜りの間に集まった。
蹶起軍討伐に決した攻撃軍は、逐次包囲の態勢をちぢめていた。
 
朝香宮              寺内寿一大将
「 われわれは東溜りの間で、皇軍相撃つ悲惨事の起こらないよう念願しつつ、
悲痛な気持ちで、ことの推移を気にかけていた。
そういうさなかに、寺内 ( 寿一 ) と朝香宮の二人は

『 結果がどうなるか見に行こう 』 といって振天府の方にのこのこ出かけて行ったのだよ。
このときほどオレは、二人の行為に腹立たしさを覚えたことはなかった。
オレはこのあと今日に至るまで、皇族は一切信用せんことにきめた。
荒木は 『 主馬寮しゅめりょうの馬を引っぱり出して、両軍の間に馬を乗り入れる 』
といって、副官に馬の準備を命じていた。
オレはなにがなんだかわからなくなって、ひっくり返って寝たよ。
今から思うと荒木の処置がいちばんよかったと思っている 」 ・・・・。

・・・事件は完敗であった。
『 勝てば官軍 』 的 軍当局の発表は、事件の真実を大きく歪曲したものであった。
たとえ説得のためと強弁しても、いったん出された 『 大臣告示   』  や、戒厳司令部に編入して、
南麹町地区の警戒に任ぜしめた 『 戒厳令 』は、ひっこみのつかぬ厳然たる事実であった。
それを無視して 「 叛乱罪 」 の極刑をもってのぞんだ。
法制史上稀有の暗黒裁判といわれるゆえんである ・・・


大蔵栄一著
ニ ・ニ六事件への挽歌  から


あを雲の涯 (二十二) 北一輝

2021年07月02日 05時33分49秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)



獄窓一年刑死迫  

盡日讀誦妙法蓮華經
願滅百生
罪不受生死身
昭和十一年十二月 
北一輝



北 輝次郎  キタ テルジロウ

北一輝  キタ イッキ
明治16年4月15日、新潟県佐渡郡湊町に父慶太郎の長男として生れる

明治39年5月 「國體論及び純正社會主義」 を自費出版
明治44年10月中國・辛亥革命勃發に革命軍に參加
大正4年 「支那革命外史」
大正4年8月 「國家改造原理大綱」・・後の「日本改造法案大綱」
昭和12年8月19日 2.26事件民間側首魁として銃殺される

刑死二日前、弟、北昤吉が会ったとき、
「 わたしはこの事件に何ら関係はしない。
 しかしわたしの書物を愛読していた連中がやったので、責任を問われれば責任を負う。 
もし、ぼくが無罪放免になっても、他の諸君のあとを追うて自決する 」
と 語った といわれる  ( 北昤吉 『 風雲児北一輝 』 )
判決の当夜、北輝次郎の居室を覗いて見た。
そして判決に対する所感、といったようなことを聞いて見た。
そのとき
「 判決は有罪であろうが無罪であろうが、そんなことは考えていません。
ただ私の著書 日本改造法案大綱を愛読信棒したのが遠因で、青年将校等が蹶起したとしたら
私は責任上当然彼等に殉ずる覚悟でいました。 私に対する判決などどうでもよいのです。
死は二つありません 」
この覚悟のほどは、全く見上げたものである
二・二六事件、軍獄秘話 当時東京陸軍刑務所所長 塚本定吉・・から

子に与ふ
遺書
大輝よ、此の經典は汝の知る如く父の刑死する迄、讀誦せるものなり。
汝の生るると符節を合する如く、突然として父は靈魂を見、神佛を見、
此の法華經を誦持するに至れるなり。
即ち汝の生るるとより、父の臨終まで讀誦せられたる至重至尊の經典なり。
父は只此法華経經をのみ汝に殘す。
父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、
又 樂しき嬉しき時、此の經典を前にして南無妙法蓮華經と唱へ、念ぜよ。
然らば神靈の父 直に汝の爲に諸神諸佛に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。
經典を讀誦し解説するを得るの時來らば、父が二十余年間爲せし如く、
誦佳三味を以て生活の根本義とせよ。
即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸佛の加護、
指導の下に在るを得べし。
父は汝に何物をも殘さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり
昭和十二年八月十八日    父 一輝
・・註
これは彼が肌身から話さなかった法華経八巻末の余白に書き残したものである
北に実子はなく、大器は辛亥革命の同志・譚人鳳の孫を養子としたものである

 
北一輝の仏間
此処で霊告があった
今御經がでたから讀むと云って、
「 國家人なし、勇將眞崎あり、國家正義軍のために號令し、正義軍速かに一任せよ 」
 と 靈示を告げる。
余は驚いた。
「 御經に國家正義軍と出たんですか、不思議ですね、私共は昨日來、尊皇義軍と云ってます 」
 と云ひ、神威の嚴粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ。
・・・ 第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」 

一夢五十四年ノ生涯
ヲ終ラント致候

獄中何カトノ御親切
小生ノミナラズ前行

同志将校等一同ニモ代ハリ
一筆謝意書残ス者也

十二月    北一輝
中村看守殿

平石看守に書き残した絶筆
 
獄裏讀誦ス妙法蓮華経
ハ加護ヲ拝謝シ或ハ血涙ニ泣ク
迷界ノ凡夫古人亦キ乎
北一輝
八月十九日

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我事成れり

2021年07月01日 04時06分36秒 | 説得と鎭壓

 NHK映像
二十六日
けっ起の朝、
首脳將校たちは陸相官邸に陸軍大臣川島義之と會い、
蹶起趣意書 を 讀
みあげたが、
同時にけっ起の趣旨は天聽に達せられたいことを要望した。
そしてその日の午後三時半頃、
左の陸軍大臣告示が山下軍事調査部長から下達された。

「 諸子蹶起ノ趣旨ハ天聴ニ達シアリ
諸子ノ眞意ハ國体顕現ノ至情ニ基ヅクモノト認ル
國体ノ眞姿顕現ノ現況に就テハ我々モ恐懼ニ堪エザルモノアリ
軍事參議官一同ハ國体顕現ノ上ニ一層 匪窮ひきゆう ノ誠ヲ効スベシ
ソレ以上ハ一ニ大御心ヲ本トスベキモノナリ
以上ハ宮中ニ於テ軍事參議官一同相会シ陸軍長老ノ意見トシテ確立シタルモノニシテ
閣僚モ亦一致協力益々國体眞姿顕現ニ努力スベク申合ワセタリ 」
國體の眞姿顯現のためにたち上がった彼らは、この告示をもって わが事成れり  と喜んだ。
磯部淺一 は、
告示は文中どこにもわれわれの行爲を叱責する意味はなく、
かえって參議官一同が自責恐懼し、
私どもの精神行動は國體の眞姿顯現にあることを認めてくれている。

私どもはこれによって大いに力づいた
と 書きのこし、

安藤輝三も、
時軍當局は吾人の行動を是認し まさに維新に入らんとせるなり。
陸軍大臣告示は吾人の行動を是認せれ。

と 遺書している。
たしかに、一見してこま告示は彼らの行動を認めて反亂軍を激励するものであった。
陸軍大臣や軍事參議官が、この兵力をもってした重臣の殺害を、
國體の眞姿を顕現する至情に出たものと認める以上、
この殺戮行爲は軍首脳部によって容認せられたものであり、
それはまた こうした重臣が國體上の惡だったことの承認を意味する。
しかもこの大臣告示が宮中での首脳會議で決定されたことは、靑年將校に与える感作は大きかった。
それが宮中時勢をある程度投影していると見ることも可能であった。
なぜなら、それは、天皇が住む宮中での作業であったからだ。
だが、事實、こうしたことは天皇の意思をそとにして行われていた。
いや、彼ら軍首脳部は今朝來の天皇の意思を拝していた。
しかもなお説得のためとてこの文案を決定した。
わずかに 『 ソレ以上ハ大御心ヲ本トナスベキモノナリ 』 との伏線を布いて。
まさに軍事參議官たちの思想的不逞である。

杉山元 參謀次長は武力鎭定の前提として
二十七日午前八時二十分
反亂部隊を撤退せしむべき戒嚴司令官に對する奉勅命令の裁可を得たが、
その命令下達の時期は、參謀總長に一任せられたき旨のお許しを得たので、この命令下達を二十八日午前五時と決定した。
この日 ( 28日 ) 午後蹶起將校一同は、時局収拾を眞崎大將に一任したい旨を申し出たが、
眞崎は部隊長統率の下にかえれといい、
彼らはその夜 小藤部隊長命令により警備を解いて宿營についた。

二十八日以來幕僚たちの撤退勧告が行なわれ、
幹部たちは兵をかえし 將校は自決することに決心したが、
この決意も全将校に徹底せず、折から前面に討伐部隊の展開が行なわれたことに刺激され、
徹底抗戰と逆轉し 反亂部隊は至厳なる警備をもって夜を徹した。

二十九日早暁より討伐作戰は開始されたが、
この朝に至って彼らは奉勅命令の下達を知って、續々と兵を原隊にかえし無血鎭定となった。

大谷敬二郎著 ニ・ニ六事件 から


昭和十一年二月二十九日夕刻、
陸軍大臣官邸において、自決を斷念した蹶起の將校
( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、
村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌繼夫、
丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優
外將校五名 ( 池田俊彦、常盤稔、淸原康平、鈴木金次郎、麥屋淸濟 ) と、
民間人 澁川善助らが憲兵に護送されて入所した。

やがて鐡格子のある囚人護送車に乘せられて、眞暗な闇の中を走り續けた。
そして代々木の衛戍刑務所に到着した。
狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで淺黄色の囚人服を着せられた。
栗原さんや 澁川さんが、
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」
と 言って皆を励ました。
寒々とした暗い光の中に、なにか温かい心のつながりがあった。
一人一人、薄暗く冷たい監房の中に入れられたとき、全く別世界に來てしまった違和感が全身を走った。
しかし、与えられた毛布をかけて横たわると 聯日の疲れですぐ眠りに就いた。