國の爲よゝぎの露と消えるとも
天より吾は國を守らん
大御心雲さいぎりて民枯る
死しても吾は雲をはらわん
昭和十一年七月八日
源一 書
水上源一 の遺詠である
終始一貫 至誠報告
昭和十一年七月九日
水上源一 ミズカミ ゲンイチ
民間人 北海道出身 日本大学卒
栗原中尉と交友 埼玉挺身隊事件に関係
渋川善助、栗原中尉と親交があった
明治41年9月28日 生れ 昭和11年7月12日銃殺
獄中から同志へ
正ちゃん、清さん、西郷さん、清治さん、宇さん、宮さん、元気ですか、私は元気です。
昨日妻子に面會致しましたから、變元気で妻は私を激励してくれました。
其の後の生活は満洲の弟が來て世話してくれたそうです。
やはり他人は冷たいとか。
しかし妻は初めから決心していたらしく、今ある仕事を練習しているそうです。
住所はやはり東京に置くらしい。
願わくは貴兄、
いな同志諸君一日も早く出て國家の爲尽し余暇あらば吾が跡を見てくれ給い、
しかして小生の墓も東京附近に造るらしく、
草生えていましたらこれを刈り取り石なりと目じるしに立てかけてくれん事を此世において最後のお願い。
最早命も時間の問題、余す所幾ばくか、
諸兄の一日も早く社会へ出られ御幸福な生活に入られん事をあの世とやらでお祈りしております。
先は永久に永久に、左様奈良、御機嫌よう。
同志諸君へ
正ちゃん・・綿引正三 清さん・・黒田昶 西郷さん・・黒沢鶴一
清治さん・・中島清治 宇さん・・宇治野時参 宮さん・・宮田晃
水上源一は求刑では禁錮十五年、そして死刑の判決を下された。
七月五日の夫から妻への手紙
拝啓
長い間御無音に打過ぎ誠に申訳け御座いません
其の後如何お暮しかと毎日心配致して居ります
先日 お前等の事に就きまして
Mさんにお願ひのお手紙を日大歯科気付にて差上げましたが
御多忙かまだ御返事ありません
お前等の後顧の患も考へず今回の事件に参加致しました。
しかし賢明なるお前は良く私の心を諒解してくれる事と思ひます
甚だ申兼ねる次第ですが
本日(七月五日)東京軍法会議に於て死刑の言渡しを受けました
しかし決して歎かずに下さい
私の只今の心境は今年の正月に書初致しました通りです
決して取り乱さぬ様、人は一代ですが、名は末代迄です
身体は此の世から消えるとも魂は必ずお前と宣子の頭上にありて何くれとお守り致します
これより女の手一つで宣子を育てるには幾多の困難に出会ふ事でせうが
何卒宣子を立派に育て上げる様お願ひ致します
二人の間には不幸にして男子無き故私の意志を継ぐ事出来ず残念至極に存じますが
せめて宣子が成長の暁には私の意志をお聞かせ下さい
お前も御承知の如く小さい時から母上様には勿論兄上様には非常なる御恩を受けて居ります故
何卒私にかわり母上様兄上様に御恩返し下さる様
今後の事は兄上様とよく御相談の上決せられたし
宣子へ
宣子の生れいづる時父は獄にて知らず
今又可愛い時代を見ず天皇陛下の御ため死する
宣子も又父の顔を幼い故知らずに残念であらうが
写真を見て昔の記憶を呼び起せ
父に逢ひたければ墓場に来たれ
父は嬉んで迎ふ
母は女の手一つで宣子を生長させる故
我儘を言はず母の言ふ事を良く守り
立派な女子となり母に孝養せよ
此の書面は最後と思ふが十二分に身体を大切にせよ
私もあの世とやらから初子と宣子の御壮健と御多幸を祈る
もし此の書面が早く到着したら至急面会においで
先は永久に永久に左様奈良 御機嫌やう
・・・(後略)
水上源一
初子
様
宣子
昭和九年一月三日長女が生まれたとき、
父親は救国埼玉挺身隊事件の民間側責任者の一人として入獄中であった。
七月七日
事件後初めての面会から帰宅して、妻から夫への手紙。
この頃夫人は毎朝五時に般若心経の筆写を行い、夫とその同志の心静かな成仏を祈った。
写経の中へ畳みこまれて手紙は夫のもとへ届いたのである。
約六ケ月振りに御逢ひ出来ました時の私の胸中、
貴方にはよく御わかりの事と思ひます。
種々なる事共を御話し又意中を聞いて頂き度く参りましたのに、
思ふ様に申上げえず、
女々しくも涙など御見せ致し、申訳なく思つて居ります。
相変らず弱き妻と御思ひで御座居ましたでせう。
事実私は今まで貴方の胸にいだかれ切つて居りました。
其れ故何時でも御一緒で無ければ心細く、
最後の時もかならずご一緒に出来るものと信じ、
常から心の用意は致して居りました。
此の私の胸中を知るや知らずや
(中略)
霊魂の不滅を信じて、
何時も貴方が私の身体内にかならず居ります事と信じて、
宣子が一人前になりますまで強く生きて参ります。
そして貴方の名前をきづつける様な事は断じて致しませんから決して御心配無く、
安心して立派に最後をかざつて下さいませ。
宣子が貴方の子供として恥しく無い様立派に教育出来ました暁は、
喜んで貴方の待つて居ります安住の地へ飛んで参ります故、
一寸の間御辛抱下さいませ。
きつと貴方に喜んで頂ける様な御話を御土産にして御もとに参ります。
其の時はより以上の楽しい日々にして下さいませ。
今から其の日の来ます事が待遠しくてなりません。
(以下略)
この手紙の最期に妻は
「 永遠に貴方の妻 」 と 書いた
そのペン字の上へ、
墨黒々と
「 此の手紙は吾と一夜を共にせり 」
と 夫は書く
手紙は夫の遺体、遺品とともに、
処刑後、妻のもとへかえされたのである。
昭和拾壱年七月八日、
妻より受けたる手紙の返事
我が最愛なる永遠の妻初子よ。
汝の胸中聞かずとも 我れに良くわかる故に
感謝と幸福を感じつゝ我れは喜んで死す。
我が魂は汝等の身体内にあり常に良く守らん。
汝のなすべき義務終りたらば、我がもとへ来たれ
嬉んで迎へ共に楽しい日を送らう
それ迄汝の言の如く辛抱致し 良きお土産を千秋の思で待つ。
義務終る迄強く強く生きて行け。
頼む
七月十一日、最期の面会。
別れを告げて面会室を出かかった夫は、
顔を遮蔽する白い面布をかぶった。
瞬間、その夫の許へ駆け寄って、くちづけした。
ささやかな切実なみそかごとを、白いヴェールが蔽いかくしていた。
この面会を終えて、今は処刑の時の迫るのを待つ
水上源一の手紙
我が最愛なる永遠の妻初子
汝の差入物を大変良く ( うまく ) 食ました
一つ一つが最後のものと思えば感慨無量だ
最後迄お前の心尽し
永遠に忘れや致しません
深く深く感謝致します
(中略)
栗原さんも私も後には吉田兄沢田兄ゐるからこれ又安心
「吉田沢田両兄 宣子初子を頼む」
その内に綿引も出て行く
(中略)
先は御壮健と御幸福を祈る
夜明けだ
時間も切迫して来た
永久に永久に左様なら
今日からお前と宣子の元へ帰る事が出来て嬉しい
母様兄様の所へも行く事が出来るのがほんとうに嬉しい
十二日は、暑い日であった。
東京衛戍刑務所からの通知が届けられたのは朝。
既に処刑は終った時間である。
・
「 水上源一の御遺骸御引取ノ為
本十二日午後二時東京衛戍刑務所ニ出頭相成度 」
と あった。
水上源一は午前八時三十分処刑。
妻が差入れた扇子に、
「 我が永遠の最愛なる妻初子よ
義務終りたらば来れ
我れは嬉んで迎ふ
それ迄は強く強く生きよ
昭和十一年七月拾壱日 夫源一 」
と その前夜に書き、箱に、
「 今処刑台に行かんとし
それ迄我手に固く持つてゐたもの
既に栗原さん露と消えたり 」
と 書き残して刑場へ去る。
・・・
夫の柩の蓋をとって死顔と対面した後、
妻は綿を含んだ口へ指を入れて夫の歯を確かめ、
夫の体徴の一つであった小指の曲がりを確認した。
夫はよくものを言った瞳を固く閉したままであった。
「 わたしと思って下さいね 」
その朝切った長い黒髪を夫の胸に抱かせて別れを告げた。
霊柩車の暗い車内に夫の柩を守ってたった一人火葬場へ揺られてゆく。
暑さは容赦ないが、体中の水が涙になったように烈しく頬を伝う。
誰に遠慮もいらない夫と二人だけの密室を、妻のむせび泣きが満たしていた。
・・・リンク→昭和11年7月12日 (十九) 水上源一
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