あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (十四) 田中勝

2021年07月11日 07時54分27秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


絶筆
一死以って

國を護る
昭和維新の士
昭和十一年七月八日
田中 勝

辞世
我はもと大君のため生れし身
  大君のために果つる嬉しさ
たらちねの親の恵みの偲ばれて
  只先立つ我は淋しき
妻への遺詠
現世の荒波けつて進まむと
  覺悟の色を見るぞ嬉しき
  八日朝


田中勝  
タナカ マサル

陸軍砲兵中尉
野戦重砲兵第七連隊
明治44年1月16日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士45期生

遺書
一、御父上様、御母上様、
 勝が二十六年の生涯何の孝養も盡し得ず今日此の最後、
只々無念に存じます、
然し今は既に天命を知れるが故に喜び従容として死に就き得ます、
一念大君の爲と信じて蹶起せるものなれば
將に一切を捧げる何の悔も憤もないのであります、
今や行かんとする國は佛の國、安楽浄土です、
蓮華の座を空けてお待ち申します、
ゆるゆる法悦の日を送つて下さい
二、兄上様、姉上様、
 田中家再興を謀り且 誠は一家の柱石、立派にお役に立つ者にして下さい
三、誠殿、忠孝両全の人間になるのです
四、久子と児とは 私の代身者と思つてお頼み申します
五、両渡邊家、長嶺家、岬本家、称名庵加藤家 その他 親戚皆様の御恩を感謝致します
六、藤田先生、宮崎先生、木村先生の御恩を感謝致します
 最早記する事もありません、
凡ての物 皆 悉く美しく輝き、 私の死を喜んで送つてくれる様です
宇宙の一切に感謝す
天皇陛下万歳
  昭和十一年七月五日
田中勝 拇印 二十六歳
父上様
母上様
兄上様
姉上様
誠   殿

母  上
御膝の上の幼  勝かな
然り然り
我死せざるなり
大和魂は無窮に止まる
我誠に死所を得たり
大なる犠牲の上に 大なる國家の發展あり
  七月七日


遺志
一、孝よ
 生を神州に享くる者 只 國に報ゆるこそ第一なれ
二、孝よ
 母に仕へては 只管ひたすら 孝養を励むべし、
母の言を承ること 即ち 父の言を承ると思ひ 一念 母の言に従ふべし、
是 父が切なる願ひなり
三、孝よ
 年齢到らば 即ち 我志を継て軍人を志望し 國家の干城となりて忠節を励むべし
四、孝よ
 万事努力せよ、
一にも努力、二にも努力、三にも努力、
最后まで努力せよ
五、孝よ
 健康に注意せよ、
身体は強健にして初めてお役に立つことを得
  母おもふ心はやがて母のため
  勉め励めよ  母のためにと
昭和十一年七月五日
父  勝 拇印 二十六歳
孝 殿

遺 言
一、最期まで私を愛し守り助けてくれたことを心から感謝する
二、神の授け給ひし児有り、
 汝が堅き決心 我知るが故に 我最も嬉しく安心して死に就き得るなり
三、神の授け給ひし児は 男児なるべし、
 然らば 我志を継がしめ 天晴國家の干城となし 大忠誠の臣たらしめよ
四、児は宜しく強く正しく明るく育てよ
五、児は孝 ( タカシ )  と 名附く
六、身体を保ち 児の成長を楽しめよ
 さらば最愛する久子よ、仏の國より汝等二人を護らん
昭和十一年七月五日
夫 拇印
久子殿

七月七日、
面会が許可になったとき、田中たちの生きる時間はもはや一週間もなかった。
面会が出来たのは、七日から十一日まで、わずか五日でしかない。
妻の妊娠を非常に喜びはしたが、事件の詳細は語ろうとせず、近ずく死を前に、
家族に会えて嬉しい、すべてに感謝するとにこにこ笑っている夫を、妻は遠くに感じた。
「 男子としてなすべきことをしたので、せいせいしています。
死刑の宣告を受けて、目方が一貫目ふえました 」
と 面会の家族や知己に語る夫を、身籠った妻はもどかしく見守っていた。
「 志士 」 としての対面、家族に心配させまいという配慮、そう考えて得心しようとしても、
夫の心をつかみきれなかった。
その一日、夫人は思い返して もう一度、一人で面会に行った。
田中は この思いがけない訪問を、
「 一人で来てくれてよかった 」 と 喜色いっぱいに受けた。
生きた表情の夫がようやく戻ってきたと夫人は思い、夫の顔を凝視した。
向いあって テーブルについての面会である。
田中は妻の手をとると、
「 お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ 」
と 言った。
この言葉が田中の口をついて出た瞬間、
改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男の真情が、堰を切ったように溢れ出した。
おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、
新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、
独房の田中は悶々として眠れぬ夜を重ねたのであろう。
立会いの看守はいるが、この瞬間のほかに夫婦二人だけになる機会は来ない。
夫と妻は二人だけになった。
田中は立派に死なねばならない男であった。
未練があっても言ってはならなかった。
ひたむきにみつめる妻の瞳の中で、き
びしく己れを律している男の本心がやっと言葉になったのである。
二人の結婚の実生活は ほぼ四十日、
その一日一日が愉しく充実していたと妻にたしかめながら、
「 一日を一年と思えば、四十日は四十年になる。そう思って堪忍してくれ 」
そう 夫は言った。
拘禁百三十余日、静坐して目を閉じながら、田中は妻との短い蜜月をかぞえあげたのであろう。
それがわずか四十日しかないことに、
覚悟の上ではあっても 言い知れぬ悲哀と執着を感じたに違いない。
・・・澤地久枝著 妻たちの二・二六事件

おなつかしいお母様
最后まで不幸な濶を可愛がってくださいました (中略)
お母様  最后までお母様を思って  でも喜んで刑につきます
お母様  久子についてのお願ひを聞いて下さい
久子はオカシが好きでした
これが最后のお願ひです  お母様の凡ての思ひ出は皆様の思ひ出でした
翌七月六日    勝
お母様

児、 女児なるとも悲しみなし  皇國の臣子 唯、忠孝  是我志なり
七日  夫
久子殿

差入れの品々毎に思ひしは
御身の心  如何にあるやと
久子殿
七日夕

現世乃  荒波けりて進まんと
覺悟の色を見るぞ嬉しき
八日朝

そして死の間際に書かれたものらしい一枚が、大きな軸に表装されたいる。
久子  本家を尚べ
久子
決して自らを殺すな
神は許さぬぞ
久子  二は最后だ  三は何時でも
久子
ふるさとの
浜辺にうつす
影二つ

尊王義軍 昭和維新に翼賛する
7 SA 同志十三名 決意堅たり
昭和維新の大業に翼賛し得ざる凡ての人間
何の相手として語る洋らん
斷然排撃せよ
小乗的論議は國賊の言
一歩も 其の家を動く可からず
一死以て國賊を滅し 皇國に報いん
« 註 »
久子夫人記
二月二十八日 事件の最中 父上の上京を知り、
当番兵に届けさせた手紙
通信紙に鉛筆の走り書きをよこしたものです。

目次頁 二十二烈士 へ戻る