あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

香椎浩平 「 蹶起部隊を隸下に入れよう 」

2020年06月02日 17時30分03秒 | 説得と鎭壓


香椎浩平中將
《 二十六日 》

蹶起の趣意書は、司令部に入って間もなく承知した。
又、歩哨線通過を許す者、林、眞崎、荒木 三大將及山下少將等なることを知り、
予は直接、卓上電話を取って、荒木大将に相談した。
「 聞けば、歩哨線通過許可は、これこれの人々と蹶起部隊が定めて居る様子ですから、
 御自身出動されて、蹶起將校等を説得されたい 」
大將は之に答へて
「 軍事參議官は陛下の御諮詢にあらざれば動くを得ず 」
とて謝絶された。
予は更に
「 此際、凡有あらゆる犠牲を拂って兵火を交ゆることなく鎭定の目的を達成し度き故、御再考を煩わずらはす 」
と 主張したが、利目ききめなき故、他の軍事參議官へ相談することを斷念して、
川島陸相に電話で直接 「 荒木大將を動かされたき 」 旨 進言したが、
其答は、荒木大將のそれと略ほぼ同様で、應ぜられぬ。
電話は陸軍省とは直接でなく、憲兵司令部經由であるので、甚だ不便であり、
且つ 陸相よりも情報を聞き度き故、陸相に面談の決意を爲し、
陸相が宮中へ參内の旨を承知するや、速に一層有力の情報を蒐集し、
且つ 爾後の処理に便せんが爲め、其拝謁前、予と會見せんことを申込めり。

且つ 山下少將に、歩哨線通過の爲、同行を求めたり。
同少將の來きたるを待って、司令部を出づ。
門前に頑張って居る安藤大尉の主力及其他より屡しばしば停止を餘儀なくせられつつ、
三宅坂---日比谷交叉点---坂下門を經て、幾多の面倒を忍びつつ參内す。
時に午前十一時頃なりしと記憶す。
元來宮中への通路は、拓務省附近より宮城外苑に進むを最捷路しょうろとしたるも、近衛兵の遮断あり、
又 日比谷交叉点を過ぎて坂下門への捷路も閉されあり。
之を便宜通過せんとして交渉に手間取る内、青木副官が見失はるゝに至り、其捜索等に空しく時間を經過せり。
此途中予は、蹶起部隊を予の統帥系統内に入れ、一は以て、彼等の血を見て狂へる昂奮を鎭め、
又以て、命令に由り穏やかに原隊に復歸せしむるに便せんとする考を、胸中に決定したり。
けだし 之れ最も妙たえなる謀略なりと信ぜし処である。

川島義之陸軍大臣參内 「 軍當局は、吾々の行動を認めたのですか 」 
宮中に到着すると、そこには大臣及軍事參議官が、已に大部分參集して居って評議中である。
予は軍事參議官ならねど、事態上遅疑すべきにあらずと、在室した。
戒嚴令に關しては、二月中旬頃、警備司令部に於て研究を命じたることがあった。
それも別段的確なる意味があってのことでもなく、唯何となく時勢の推移を憂ふるに伴ひ、
不圖ふと企てたことであったが、此日、司令部を出づる前、之が至急施行は、事件鎭定、
特に左翼を初め外部の策動防止、更に又、外國の陰謀を未然に挫くじく爲め 絶對必要と判斷して、
若し其發布甚だしく後るゝの徴しるしある場合には、警備司令官として單獨上奏、御裁可を仰ぐと云ふ決意を固め、
參謀長の準備した書類を携えて來たのであった。
然るに宮中に到着して見ると、軍事課が研究中とかで、中々捗はかどらない。
そこで、此の單獨上奏のことを云ひ出すと、杉山次長が之を遮さえぎった。
同時に、促進の機運が見へた様だったから、單獨上奏は中止した。
蹶起將校等を説得し様ふと云ふことで、軍事參議官があちこち騒々しく話合って居る。
其間、山下少將が
「 蹶起將校等が、自分達を逆賊と認めるか認めぬか、と 反問して居る 」
と 發言した。
其ことで更に種々發言者あり。容易に纏りそうにない。
予は傍らに在った本庄侍從武官長を室の一隅伴ひ、
「 事態の収拾には、新内閣が速かに成立することが肝要である。荒木大將でも誰でも宜しいではないか 」
と 私語した。
それは如何にも大權の私議の様で怖れ多い事ではあるが、
要は収拾を迅速にし、流血の惨に到らしめない爲の一方法として、而も名差しは極輕い意味で爲したことである。
本庄大將も主旨に於て肯き、且つ 曰く、
「 彼等は、荒木は駄目、眞崎で無くては、と 云って居るそうだ。
いや、それは誰でも宜しいが、新内閣の成立を速かならしむることは必要だ 」
と 云ふ意味を答へられた。
そこで、軍事參議官一同の打寄って居る机の辺へと足を運んだ。
此のことゝ多少時期は前後するかは知れないが、午後二時四十分に、戰時警備令が發令された。
( 予が參謀長に達し終った時刻が前記のもの )
大臣は予に、
「 蹶起部隊を警備司令官の隸下に入れよう 」
と 云ふ意味の發言をした。
予は前記の通り、此の件已に深く決する処があったので、
大臣と意見が相合 ( 暗合 ) したことを、胸中大いに喜んだ。
固より軍政大臣が統率權に容喙ようかいしたとか、之に左右されたとかのことを考へず、
全く 予の既定の決意を實行に移すに一層快くしたまでのことと考へて居る。
そうして直ぐ電話で、戰時警備司令の公布と、蹶起部隊を隸下に入れる件を參謀長に達した。
後になって、
「 暴徒に食糧を供給したり、酒を飲ましたりしたのは不都合だ 」
と云ふ世評ガ、多少起った由なねるも、斯かることありしとて、對局上の謀略的成功に由り、
一触即發の流血的危機を緩和し、爾後の解決を容易にしたる大功に比すれば、
云ふも足らざる愚痴、愚論なりとして一蹴す。

《 陸軍大臣告示 》
さて、多數の人々が勝手に發言しつつある間、
荒木大將だったか誰かが、
「 空いたらずに話し合っても駄目だから、説得文句の原案を書くがよい 」
とのことに、陸軍省の者が之を書ひた。
それは、こうだ。
(一) 蹶起の主旨に就いては、天聽に達せられあり。
(二) 諸子の行動は、國體顯現の至情に基くものと認む。
(三) 國體の眞姿に就ては、其弊風に鑑み、恐懼に堪へず。
(四) 之に基く処に由り、軍事參議官として、一致努力しつつあり。
(五) 之以外は大御心に待つ。
中々きまらぬ。
予は、グズグズして居ては 日没となる、急を要すると思ひ、
且つ先刻の山下少將の傳へし 「 逆賊・・・・」 の件に直接触るゝ文句を避くる爲、
前記の五項目を促進決せしむる要ありと信じ、起って言った。
「 可搬 相澤公判に於て、相澤は人を殺害し乍ら、臺灣に赴任するのだと云ふことを、平然と云ひ放った。
思ふに彼は、永田を殺害して、鳥羽伏見の戰に勝ったかの様に獨斷自任し、蛤御門のそれであったことを認識し得なかったのだ。
斯かる考へ方は、現蹶起將校と一脉相通ずるものがあるだろう 」
兩軍事參議官宮殿下 ( 即ち、朝香、東久邇 兩中將宮殿下 ) も御聞きであった。
予は、右の言を爲したる後、寺内大將の傍らに到り、
蛤御門の言辭は惡く取らぬ様諒解を求め、同大將も肯き笑った。
・・・挿入・・・
宮中で の説得案審議のおり、
「 香椎警備司令官は起って、自分は相澤公判を傍聽せるが その際感じたる所によれば、
相澤は決行の後 ゆうゆう臺灣に赴任を考えありしが、これは恐らく 一念昭和維新のみを考え、他を顧みざりし結果ならん。
相澤の一刀兩断は鳥羽伏見の戰いなり、鳥羽伏見の戰に勝ったが 實は蛤御門の戰なりしを知らざりしが如し。
今回の反亂將校のいい分もかくの如き観念に發せるものならん 」
と 述べ、大いに反軍に同情的態度を有することを示す。
後日討伐の實行を躊躇せる宜なる哉と思わしむ。
自分は討伐鞭撻べんたつの必要を確信せしは實にこれに起因す。
と 述べている。 ・・杉山手記

其後間もなく、前記説得の五項目が成立の旨告げられた。

                                                                      リンク→大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」
予は大臣に向ひ 「 之が如何なる形式で傳へられますか 」 と 問ふた。
大臣は 「 軍事參議官の説得を統一する爲だ 」 と云ふ意味のことを以て答へられ、
且つ 之を軍隊の方にも傳へねばならぬかと自問して居るので、予が傳達する旨申出た。
之は司令部で、ドーセ必要だからである。
そこで大臣は、宜敷頼むと云ふことであった。
予は直ちに電話室に馳せて、參謀長に傳へた。
復唱も明瞭にさせた。
時に午後三時十五分。
電話室から歸って來ると、前記五項目の字句修正が行はれて居る。
見れば、第二項が 「 諸子の眞意は、國體の眞姿顯現の至情より出でたるものと認む 」
と 改められて居る。
予は凝視して考へた。
之は二者同一だ。
「 諸子の眞意 」 なるものは 「 現に蹶起部隊の取って居る行動 」 を對象とし
「 此の行動の由て基く眞意 」 であるべきである。
其以外、此場合に考ふべく、言べき眞意なるものなし。
故に 「 行動 」 なる文字を、入るゝも省くも差異なしと斷じたのである。

そもそも、動機が如何に純であるとする場合にも、皇軍を私兵化するが如きことは斷じて不可なること、
火を睹るよりも明かなことである。
依て、一刻を爭ふ処理の場合、萬已むを得ざる必要に迫られずして、
區々たる字句を更に訂正することは、警備司令官の指揮統帥を錯亂し、百害あって一利なしと堅く信じ、
知らぬ顔をして放置した。
之が後になって大そう問題となり、陸軍省から屡しばしば訂正方を申出でたのであるが、
予は頑として應ぜず、其儘になって居る。
後から考へたことではあるが、之は仮りに百歩譲り、両者差異りとしても、此の時期は、
叛軍を無事、引上げしむることに重點を置き、無血の鎭定には凡有る犠牲を拂ふを辭せず。
然らざれば、鎭定後の時局収拾が寒心すべきものなることを深く考へ、
謀略としての所置と見做して何等の差支へなく、最惡の場合に於ても、
之を普佛戰役に於ける、夫の 「 エムス 」 の電報たるの観方を堅く持して動かない。
宮中に在ること約四、五時間に垂なんなんとする長時、方々で種々話合って居ると、
予は電話や何かに中座した爲、軍事參議官何某なにがしが何と云ったかと云ふ様なことを、
一人一人に就ては勿論、記憶しても居る筈がない。
予は鎭定の爲の中心人物であり、最高の責任者である立場から、
常に大局の動向に注意し來ったのである。
此の關係は、後來も亦同様である。

説得の要項定まって後、予は早々宮中より退出、司令部に歸った。
間もなく夜に入る。
幕僚及隸下部隊は、逐次増強された。
「 何ぜ速やかに武力を以て叩き付けぬか 」 との進言、鞏要がましき電話ありし由、
此のことは、廿七日以後にも續けり。
此の人々の名前中、最も明瞭なるは、前田少將 ( 公爵 ・前田利為 ) 及 町田大將なり。
海軍放免にも
「 陸軍は腰抜けだ、陸軍がやらぬなら海軍がやる 」
との聲ありし由 聞知した。
リンク→命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
《 二十七日 》
廿七日午前三時四十分頃、三宅坂警備司令部で、戒嚴司令官の辭令を頂戴した。
此の時の感じは、まー善かった、若しや他人を以て換へて新補せらるゝことあれしとせば、
予は何の面目があろう。
今や益々、死力を竭つくして事態の解決に當らねばならぬと云ふ考への外、何ものもない。
廿七日未明、戒嚴司令部を、軍人會館に移すことにした。
本年度動員計畫上、防衛司令部としての立場から、戰時司令部の機能を發揮する爲、
軍人會館借上げの計畫を樹立し、已に二月中旬頃に詳細な偵察を終って、
室割までも完了して居たので、此度の事件は大なる仕合となったのも、奇遇の一つと云へば一つでもあり得る。
拂暁になった。
自動車を聯ねて引越しと云ふことになった。
此時若し、叛軍の者共と、一寸とした摩擦があれば、門前に一大修羅場を展開したに相違なかったのであるが、
彼等が、昨夕來統帥系統内に入れられたと云ふ謀略が奏功した一つの現われとして、
何事もなく、堂々大手を振って移転したのである。
參謀長は余程危險に感じて居たと見へ、萬一を慮って、書類の整頓等、凡て其心持でした、
と 後日述懐して居た。
軍人會館に着いたのは午前六時、更に心はどっかと落ち着ひた。
 閑院宮参謀総長
午前六時、參謀總長宮殿下の御意圖なるもの傳へらる。
曰く、
(一)  時局の収拾は、殘りの閣僚にて爲せとの勅旨。
(二)  叛軍が聽かざれば、勅命に由り原隊復歸を命ずることゝなる。
(三)  尚ほも 命を奉ぜられば、武力彈壓を行ふべし。
       但し之は最後の手段なり。成るべく説得に依るべきである。
(四)  之が爲め、成るべく至急に15榴を招致せよ。
蓋し、岡田首相の生存は未だ信ぜられず、故に殘りの閣僚云々、とあり。

廿七日朝、軍人會館へ移轉後、午前中なりしか、
篠田郷 軍總務理事と廊下に邂逅かいこうせし時、
「 某銀行家が來訪して、叛軍の指揮官は戒嚴司令官なりとの噂あり、眞実なりやと問へるを以て、
香椎君にそんなことなし、と笑ひ返へしたり 」 と 云へるを以て、
予も亦、其れを氣にも留めず、呵々大笑して相別れたり。
然るに其後、時々斯くの如き流言あるを聞き、不快甚だしきに至る。
此日は朝來、司法官 及、内務省 竝 警視廳關係の者、續々と伺候し來る外、在郷將官 亦 接踵して來訪す。
齋藤瀏少將、四王天 ( 延孝 )、淺田 ( 良逸 ) 両中將等之なり。
齋藤は永いこと居りて、偵察したる模様なり。けしからぬことゝ思ふ。
叛軍の言動、表裏常なく、容易に命を奉ぜず。
彼等は、
「 昭和維新の曙光しょこうを認めざれば、一歩も現在地を去らず。
首相官邸の如きは、吾等の占據せる聖地なり 」
と 豪語して、始末に終へぬ狀態なり。
元來、彼等は皇軍私兵化の大罪を犯しながら、之を悟らぬには、
明治維新の立役者が藩兵を率ひて居り、皇軍ではなかったことを忘れて居る。
此の藩兵が明かに錦旗きんきを奉じたのが、鳥羽伏見の官軍たることを藐視びょうしして居るのだ。
尚、叛軍は小藤大佐の命は聞くと云ふ故、速に鎭定の方便上、此のことは利用して、
小藤部隊として其指揮下に入れたり。

戸山學校時代の部下たりし大尉 柴有時來る。
彼は當年思想運動に關係ありしも、其の仲間よりは實行力なき者として疎外されありしとのことを耳にしありしが故に、
之を説得兼情報掛りに使用するも可なりと考へ、其の申出により、戸山學校に紹介して使用したり。
後、近衛二の松平 ( 紹光 ) 大尉も亦同様の關係にて來訪せる故、原隊に紹介使用せり。
但し 松平は柴よりも 稍々気魄に矚る処ありと見居りしなり。
乍去さりながら、叛軍に通じて其利を謀はかるが如きことなかるべしと信じ居たり。
午後二時頃、叛軍より申出であり。
「 眞崎大將と陸相官邸に於て會見し度し 」
とのことにて、多分柴大尉傳達と思ふ。
予は元來、廿六日朝來凡有犠牲を拂って平和解決を志ざし、之が爲、荒木大將に先づ電話せし程なりし故、
今叛軍の申出あるや、利用すべきなりと考へ、直ちに眞崎大將を偕行社かいこうしゃ新館に訪ひ、此旨傳ふ。
大將は、全軍事參議官に諮はかり、遂に行くことに定まりし故、予は直ちに司令部に引返へす。
其入口にて、柴大尉なりしか、小藤大佐の宿營配布計畫圖を齎もたらして決裁を請ひ來らるを以て、
一見するに、海軍との衝突を可及的回避するの要切なるものあり。
即ち、首相官邸----獨逸大使館道以東に豫定のものは全部他に移動すべきを命じたり。
此等部隊が後に至りて近衛師團と万平ホテル附近にて殆んど衝突せんとしたり。
斯かる事態に餘儀なくされて幸楽に入るものを生じたるなり。 
リンク→山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 
其の後 幸楽の亂雑を耳にし、眉を顰ひそめたるも、
海軍との不測の衝突を未然に防ぎ得たる大利を以て之を償ふべしとて、自ら慰めたるなり。
予は此夜、叛軍共に十分に安眠を与へて、昂奮を解かしめんとせり。
之が爲、決して寝首を掻く如き卑怯なことはせぬ故、徹底的安眠を取れと命じ、部下軍隊にも此旨傳へしめたり。
夕刻、事態大いに好轉の兆ありと報じ來る。
參内上奏の時
「 明廿八日早き時期に平和に解決し得る見込みなるも、萬全を期して、廿八日夕までには全部解決せんとする 」
旨、上聞に達したり。
陛下玉音を伴はせられ、大きく肯かせ給ふ。
其後、秩父宮邸に伺候す。
次官 ( 古荘幹郎 )、次長 ( 杉山元 ) 先にあり。
後段、予も共に入り、殿下に拝謁し、若干言上す。
此時は明朝の平和解決を期したるを以て、殿下にも余り立入りたることは言上せざりし程なり。

夜晩おそく、村中 及 香田大尉、司令官室に來訪す。
「 南大將、小磯、建川両中將を速に逮捕され度し 」
など進言す。
予は此のことに取合はずして、諄々説得す。
遂に豫かねて携行しありし氷川清話を取出して、
江戸開城の際、夫の西郷 及 勝海舟の、無視善處して明快なる解決を遂げたる美談を追想せしめたり。
彼等 稍々納得したるものの如きも、心を許さざりき。
此の頃已に事態逆轉の感を強くしたりしを以てなり。
即ち、安眠を命じたるに拘はらず、叛軍は新たに機關銃を赤坂見附附近に備へたりとか、
或は拳銃彈を某銃砲店より取り寄せんとし、之を押へられたりなどの事實之を證せり。

之よの先、幕僚中より已に奉勅命令を仄めかし、説得を促進せんとしたるものの如くなりしが爲、
之に對して叛軍は激昂せり、などの報も耳にするに至れり。
元來、奉勅命令は戒嚴司令官に對して、叛軍を原隊に復歸せしめよとの勅語を下し給ふものにして、
參謀本部より内示せられ、其の實際的御下附は後日に保留されたり。
而して 予は部下軍隊叛軍に示す場合には、奉勅命令 即 勅語なることを、丁寧に一兵に至るまで説明し、
且つ 極めて嚴かに示すべきものなりと、特に幕僚に注意したり。
此夜、大佐 鈴木貞一來り、奉勅命令のことを以て、予の武力彈壓を必然と判斷したるものゝ如く、
第一線の苦勞などを云爲し、反省を促さんとするものゝ如く、尊大なる態度あり。
予、甚だ不快を感じたるも、感情の激發は事態収拾の全般に亘り不適當なるを以て、
ことさらに平靜を示し、承り置くことに止めたり。
其後鈴木は司令部に若干止まりしものゝ如くなりしが、予に逢ふて案外恭儉なりき。
思ふに彼も、第一線にて行動し、昂奮より未だ醒め切らざる間に予に進言したるものならんかと善意に解したり。
夜半頃、柴大尉が山口一太郎大尉を伴ひ司令官室に來る。
「 皆々昂奮しありて手におへぬ故、山口を伴ひ來れり 」 と 云ふ。
山口を見れば、疲勞に昂奮の絶頂にあるものゝ如くなりしを以て、
側のソファーを指し、暫時しばし安座して冷靜に返れと命じたる程なり。
其後、彼は奉勅命令が下れば、叛軍は突き出るならん、とか、
又は 山口自身之れ以上説得せんとせば、栗原は山口を殺し、其屍を乗り越へて宮城に向ふならん、
などと口走り、言辭も取り止めなし。
・・・挿入・・・
午前三時頃であった。
まず 鈴木大佐が口を開いて、
「今となつて彈壓は考えものだ、軍は昭和維新へと推進すべきだ 」
と 所信を述べた。
次いで小藤大佐が立って 「 彈壓不可 」 を くどくどしく訴えた。
このあとをうけて、山口大尉がえらい気合いでまくしたてた。
「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戰車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戰車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占據しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに 彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が鐵砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起將校を處罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功勞者ともいうべき皇道絶對の蹶起部隊を名づけて反亂軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の實施は無期延期としていただきたい 」
・・・「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
予は輕く之を受け、單に承り置く程度に止めしが、
彼は時を經て再び司令官丈けとの五分間對談を求めたり。
予は之に應ぜしも、得る処なし。
第三回の五分間對談申込は之を拒絶し、柴に命じ引き取らしめたり。
小藤大佐も來りありしが、疲勞や何かで茫然たる有様なりき。
後文にある如く、豫備少尉山本又も來訪した。
日蓮信者で、大言して居った。
涙を流して納得して引下がったが、
帰れば又直ぐ翻意すると云ふ厄介者たる外、他と何等異ることなし。
リンク→ 「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」 
本來、自分は
彼らの行動を必ずしも否認しないものである

次頁  
撤回せる上奏案  
 に 続く

二・二六事件私記

第一  勃発より鎮定迄
香椎 戒厳司令官  秘録二・二六事件
から


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