あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (五) 安藤輝三

2021年07月21日 09時13分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


國体を護らんとして  逆徒の名
  万斛の恨み  涙も涸れぬ
ああ天は
  鬼神  輝三


辞世
一切の

悩みは消えて
極樂の夢
十二日朝 安藤

  尊皇討奸
尊皇の義軍やぶれて寂し 
  春の雨
心身の念をこめて  一向に
  大内山に  光さす日を
國体を護らんとして  逆徒の名
  万斛の恨み  涙も涸れぬ  ああ天は
      鬼神  輝三

昭和11年 ( 1936年 ) 七月十二日
安藤輝三 大尉 の辞世である

我はただ万斛の恨と共に
鬼となりて生く
旧中隊長 安藤輝三
昭和十一年七月十一日
( 歩三の第六中隊員に宛てて )



< 註 >  「 体ト共ニ 家族ニ渡シ下サレ度シ  安藤輝三 」
 と認められた 血にまみれた封筒の中に、
松陰神社の御札と一緒に四枚の手紙に書いた絶筆が入っていた。
「 十二日朝直前  輝三 」 と署名してあるので、処刑直前に認めたとみられる。
半紙にとび散った血痕は、処刑時懐中にしていたため印されたもの。


君國ノタメ
捧ゲ奉ル
我コソ不滅ナリ
心安ラカナリ
( 死ト共ニ )
七月十二日朝  輝三


安藤大尉  アンドウ  テルゾウ 
陸軍歩兵大尉

歩兵第三聯隊第六中隊長
明治38年2月25日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士38期生  磯部浅一 と同期

尊皇の義軍やぶれて 寂し  春の雨
心身の念をこめて 一向に             オモイ    ヒタブル
大内山に光さす日を

傲然屹立 ・・安藤大尉に相応しい

公判ハ非公開、弁護人モナク ( 證人ノ喚請ハ全部却下サレタリ )
發言ノ機會等モ全ク拘束サレ裁判ニアラズ捕虜ノ訊問ナリ、
カカル無茶ナ公判無キコトハ知ル人ノ等シク怒ル所ナリ

判決ノ理由ニ於テ全ク吾人ヲ民主革命者トシテ葬リ去レリ、
又コトサラニ北一輝、西田ト関係アル如クシ、又改造法案ノ實現云々トシタリ

万斛ノ恨ヲ呑ム
當時軍當局ハ吾人ノ行動ヲ是認シ、マサニ維新ニ入ラントセリ、
シカルニ果然、
二十七日夜半反對派ノ策動奏功シ、奉勅命令 ( 退去命令 ) ノ發動止ムナキニ至ルヤ、
全ク掌ヲ返スガ如ク 「 大命ニ抗セリ 」 ト稱シテ討伐ヲ開始シ
( 奉勅命令ハ我々ニ伝達サレズ )、全ク五里霧中ノ間ニ下士官兵ヲ武装解除シ、
將校ヲ陸相官邸ニ集合ヲ命ジ、
憲兵及他ノ部隊ヲ以テ拳銃、銃剣ヲ擬セシメ山下少將、石原大佐等ハ自決ヲ強要セリ、
一同ハソノヤリ方ノアマリニ甚シキニ憤慨シ自決ヲ肯ンゼズ
( 特ニ謂レナキ逆賊ノ名ノモトニ死スル能ハザリキ )、今日ニ至レリ

叛軍ナラザル理由
(一) 蹶起ノ趣旨ニ於テ然リ
(二) 陸軍大臣告示ハ吾人ノ行動ヲ是認セリ
(三) 天皇ノ宣告セル戒嚴部隊ニ編入サレ、
 小藤大佐 ( 当時歩一聯隊長 ) ノ指揮下ニ小藤部隊トシテ麹町地區警備隊トシテ任務ヲ与ヘラレ、

二十七日夜ハ配備ニ移レリ
(四)  奉勅命令ハ傳達サレアラズ
(五)  尚、附加

二十六日スデニ大詔渙發ニ至ラントシアルモ内閣ガ辭表ヲ出シテヰルカラ副署ガデキヌタメ、
マダソレニ至ラヌト伝ヘラレ、
又 二十八日正午頃、
詔勅ノ原稿ヲ当時ノ軍事課長村上大佐ヨリ余ハ示サレ 「 ココマデキテヰルノダカラ 」 ト聞ケリ、
而シテ今ニ至リテ曰ク、
陸相ノ告示モ戒嚴部隊ニ入レタ事モスベテ説得ノタメノ手段ナリト強弁シアリ、
陸軍大臣ノ告示ハ宮中ニ於テ軍事參議間會合ノ上作製セラレタルモノニシテ、
陸軍大臣告示トシテ印刷配布、布告サレタルモノハ
コレニ二通アリ

(一)  蹶起ノ趣意ハ天聽ニ達シアリ
(二)  諸子ノ行動ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
(三)  軍事參議官一同ハ軍長老ノ意見トシテ從來此ノ点不充分ナリシヲ以テ今努力ス、
 閣僚モ亦同ジ意見ナリ
(四)  此レ以上ハ大御心ニマツ
(五)  皇軍相討ツ勿レ
 トアリ、
「 陸軍大臣ヨリ 」 トアルモノハ
第二項ノ行動ノ代リニ 「 眞情 」 トアリ、ソノ他二、三異ル所アルモ大同小異ナリ、
コレヲ説得案ト稱シアルモ、
一モ説得ノ内容ヲナシアラズ、軍長老ガ軍ノ總意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ、
又戒嚴軍隊ニ蹶起部隊ヲ編入セル命令ノコトハ
「 謀略ノタメノ命令 」 ハ斷ジテ存在スルモノニアラザルナリ
( 此ノ点ハ極ク最近ニ至リ軍一部デ問題トナシアルガ如シ )
判決ノ理由ニ於テハ 「日本改造法案 」 ノ實現ヲ期シ、
トナシ、右ニ 「 法案 」 ヲ以テ 「 日本國體ト絶對ニ相イレザルモノ 」 ト記セリ、
( 此ノ点ハ吾々ガ公判ニ於テ然ラザル点ヲ強調セルトコロナリ )、
而ル時ハ結局吾人ノ今回ノ擧ハ、「日本國體破壊の暴擧 」 ナリトノ結論ニ陥ル、
然ラバ 「 精神ハヨイケレドモ行動ハ悪惡イ 」 ト云フコトガイハレルカ、
又陸軍ノ總意トシイ陸相ノ告示ニヨリ布告サレタル
「 諸子ノ行動 ( 又ハ眞意 ) ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム 」
ト云フ項ハドウナルノカ
嗚呼我々ハ共産党ト同ジニ取扱ハレテヰルノデアル、
軍當局ハ北、西田ヲ罪ニ陥レンガタメ無理ニ今回ノ行動ニ密接ナ関係ヲツケ、
両人ヲ民主革命者トナシ極刑ニセント策動シアリ、( 軍幕僚ト吾人トハ對立的立場ニアリ )
吾人ヲ犠牲トナシ、吾人ヲ虐殺シテ而モ吾人ノ行ヘル結果ヲ利用シテ
軍部獨裁ノ ファッショ的改革ヲ試ミントナシアリ、一石二鳥ノ名案ナリ、
逆賊ノ汚名ノ下ニ虐殺サレ
「 精神ハ生キル 」 トカ 何トカゴマカサレテは斷じて死スル能ハズ、
昭和維新ハ吾人ノ手ニヨル以外断ジテ他ノ手ニ委シテ歪曲セシムル能ハズ
何故ニ戒嚴令ガ解ケヌノカ、何故ニ兵隊ハ外出サヘデキヌノカ、
我ニ前島ヲ会ハセルコトヲ恐怖スル原因ハドコニアルノカ
軍ガイカニ戦々兢々トシテ而モ虚勢ヲ張ッテヰルコトヨ、
( 栗原君ノ如キハ士官學校在校中ノ弟トサヘ会ヘヌデハナイカ ) 徹底的彈壓デアル、
又当當時 「 大命ニ抗セリ 」 トノ理由ノモトニ即時、
吾人ヲ免官トナシテ逆徒トヨベレハ
「 勅命ニ抗セザルコト明瞭ナル今日ニ於テ如何ニスルカ 」
〈 註 〉
前記遺書の上部に書かれたものを左に列記する。これらはすべて房子未亡人が保管されていたものである。

「 憲兵ハイクラ親切ニシテクレテモ、全然氣ヲ許シテハイケナイ 」
「 將校ニモ色々アルガ若イモノ、下級ノモノ程信頼デキル 」
「 現在ノ特權階級ハ全部敵ダ 」
「 海軍ノ伏見宮殿下ニ對シ奉リ、一同感激シテヰマス 」
「 小笠原長生子ニモ感激シテヰマス 」

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