あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

眞崎大將の眞情の告白

2021年07月02日 08時34分30秒 | 説得と鎭壓


眞崎大將に對する曲解
ニ ・ニ六事件を論じた多くの著書で、
全部が全部といっていいほど誤りをおかしているのは、眞崎大将と青年将校との関係である。
それは眞崎を青年将校の首領とみなしていることである。
いいかえれば、両者を親分子分の関係にでっちあげていることである。
事件のカンどころを最もつかんでいる 『 ニ ・ニ六事件 』 の著者 高橋正衛も、このことに関するかぎり例外ではない。
私が在京中は、両者の間に親分子分の関係はみじんもなかった。
事件の起こった二月下旬までのわずか二か月の間に、
そういう関係になるような急激な変化をきたすことはまず考えられない。
現に磯部は憲兵の取り調べで、次のように述べている。
「 閣下 ( 眞崎 ) は青年將校より尊敬されておりました。
 巷間は眞崎大將により扇動を受けて立ったと申しておりますが、これは青年將校を見くびった話であります。
私共の行動は信念により決行しましたので、扇動によりやったのではありません 」
この磯部と同じようなことを書き残している同志も何人かあるが、ここでは磯部の例をあげるだけでことたりるであろう。
要するに当時の青年将校の考え方は、
決行に際しては一切独自の力でこれを行い、
眞崎大将や荒木大将など おえら方の力をたのみにせず、むしろそれを無視するという気構えであった。
磯部が昭和十一年にはいって、精力的に上層部訪問をしているのは、
決行後の推進に彼らがどれほど強力するかを、瀬ぶみするためであって、
決して事前の打ち合わせなどのためではなかったことは、私の断言できるところである。
眞崎大将がおのれの野望達成のため、青年将校を扇動し、
または教唆きょうさしてあの事件を決行せしめたとする著者も多い。
「 ・・・・眞崎--青年將校の一部--北 の間に事件前に具體的な聯絡があったのではないかということを思わせる 」
と、高橋正衛著 『 ニ ・ニ六事件 』 ( 中央公論社発行 ) の 百六十八ページに書かれているが、
著者によると、眞崎が青年将校を扇動しただけでなく、事前に具体的連絡があったことをほのめかしている。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そもそも、高橋正衛の眞崎黒幕論は、
1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、高橋は、「 眞崎甚三郎 」 研究家の山口富永に対し、
「 あれは私の勝手な想像 」 と 平然と言ったのである。
この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた 「 松本清張 」 が 必死になるのは已むをえまい。
ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。
父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。

久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した 25年間の 「 二・二六事件黒幕探し 」 は 今もかすかに脈動している。

・・・末松建比古 1940年生 ( 末松太平 長男 )   ブログ  ◎末松太平事務所 ( 二・二六事件関係者の談話室 ) から
・・・リンク →拵えられた憲兵調書 「 真崎黒幕説は勝手な想像 」 
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だが、そういう 曲解を生む要因が、いくつかあったことも否定できない。
眞崎大将が事件勃発後、蹶起将校の目的達成のため最初好意的努力を重ねたことが、
曲解される大きな原因をなしていることはいなめないことであろう。
といって 好意的努力を重ねたことがただちに扇動、教唆につなげられることは、
考えすぎといわねばならぬ。
また 昭和十年十二月末、
磯部が丸亀聯隊の小川三郎大尉と眞崎大将を訪問した際
「 このままでおいたら血を見る、俺がそれを言ふと眞崎が煽動していると言ふ・・・・」
という眞崎の言をとりあげて、眞崎の扇動の裏付けとしている場合が多いようであるが、
あの当時の切迫した空気を吸っている私らとしては、別に奇異な感じを持つ程度の言ではなかった。
そんなことで扇動されたり教唆されたりする青年将校ではなかったはずだ。
いよいよ事件が起きてしまったあとは、この事変に便乗して、もしできるならば、
いままで不当に抑圧されていた憤激を一挙に爆発させて、存分に反発しようと企図するのは、
誰もが考えることではないだろうか。
眞崎大将の場合、そういう心理が動いたであろうことは、私には想像できる。
ところが、事件勃発の当初から天皇の激怒をこうむるという、
予想とは全く逆の事態に当面して、あろうことか思いもよらぬ有史以来まれにみる悲史として、
血のページが書き加えられることになったのだ。
ひとたびは、青年将校の蹶起の目的達成のために奮いたった眞崎ではあったが、
天皇激怒の情報に接したあとは、その瞬間からすでにその腰は砕けてしまっていた。

昭和三十年ごろのある日、
私は眞崎大将を世田谷の家に訪問したことがあった。
心臓ぜんそくがこうじて、大将の病状は予断を許せない重症であった。
私は、思い切って大将にお願いした。
「 閣下、この際なにもかも どろを吐いてくれませんか 」
事件の真相を眞崎大将の口からきくことのできるのはこのときを除いて もうあるまいと思った私は、
病床に苦しんでおられる大将に対して非情だとは思ったが、
あえて非礼を顧みるいとまのない気持ちであった。
「 よかろう、だが、こういう状態だから一回三十分ぐらいにしてくれ 」
眞崎大将は快諾してくれた。
夏ではあったが、暑い日を避けて、私は数回にわたって大将から、充分ではなかったけれども、
いろいろのことをきくことができた。
そのときのことを、私はここで思い出すまま書いてみよう。
ただそのころの私は、遺書その他 
多くの著書を読んでいなかったため、
質問の内容が研究不足で、細かな点をえぐることのできなかったのを残念に思っている。

眞崎大將の眞情の告白
「 閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか 」
知るはずのないと思いながらも、私は一応確めてみた。
「 オレが知るはずないではないか 」
「 そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか 」
「 二十六日の朝四時半か五時ころ、亀川 ( 哲也 ) がきて知らせてくれて初めてしったんだがね・・・・」
と、彼はその後の行動を次の如く語った。

 川島陸相
八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。
行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生きる屍しかばねのようであった、 ( と眞崎は形容した)
それほど大臣はあわてゝ自己喪失に陥っていたらしい。
その川島を鞭撻して青年將校とも會い、事件処理に心を砕いた。
ころあいを見計らって、彼は加藤寛治海軍大將に電話して、二人で海軍軍令部長、伏見宮殿下を訪ねた。
「 眞崎大將が現狀を詳細に視察してよくわかっていますので、大將の意見をきいていただきます 」
と、加藤大將がいった。
眞崎は、決行部隊の現況をつぶさに説明したのち、
この混亂を速やかに収拾しなければどういうことになるか保證の限りではない、
と 意見を申上げた。
「 殿下、これから急ぎ參内されて、天皇陛下に言上の上、
よろしくご善処下さるようお願い申し上げます 」
と、加藤、眞崎の兩大將は、いち早く天皇のご決意を維新へと導き奉らんとしたのであった。
宮殿下はご納得の上 至急參内し、天皇にご進言申し上げたのであったが、
「 宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である 」
という、天皇のご叱責を受けて、
宮殿下は恐懼して引き下がらざるを得なかった。
   
昭和天皇                 伏見宮                 加藤寛治海軍大将
リンク →伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

私が、眞崎大将の話をききながら、ここでとくに感じたことは、
『 ニ ・ニ六事件 』 は 営門を出た瞬間、
天皇のご激怒によってすでに惨敗していたということであった。

眞崎大将が、宮中の東溜りの間に伺候したのは午前十一時半か十二時ごろであった。
そのころ、軍事参議官が逐次集ってきた。
「 軍事参議官会議の模様は・・・・? 」
「 軍事参議官会議を特別開いたというわけではなかった。
荒木が窓の近くで手帳になにやら書きつけていた
( あとで、荒木にそのことを確かめて見た。荒木は日ごろ手帳を持たんことにしていたので、それは何かとの間違いであろう、といっていた 
)
ちょうどそこに山下 ( 奉文 ) と 村上 ( 啓作 軍事課長 ) がはいってきた。
荒木が二人をよんで、なにかいいつけていた。
二人は別室にさがって行ったが、しばらくすると二人が書いたものを持って帰ってきた。
その紙の周囲にいつとはなく、みんな集まっていた。
        
荒木貞夫大将      阿部信行大将      西義一大将         植田謙吉大将       山下奉文少将                     村上啓作大佐
最初 阿部 ( 信行 ) が意見をのべていた。
西 ( 義一 ) も何かいっていたようであったが、よく覚えていない。
植田 ( 謙吉 ) が鉛筆でニ、三書き込んでいた。
そんなことで山下、村上の書いてきた案文は、一応形がととのった。
ところが、軍事参議官にはそれをどうしようにも権限がない。
どうしたらいいだろうと困っているとき、ひょっこり川島大臣がはいってきた。
そこで大臣の権限において、というわけで川島におっつけてしまった。
これがいわゆる 『 大臣告示 』 となったのだ。
したがって、宮中において れいれいしく 軍事参議官会議が開かれたように伝えられているが、
なんということはない、東久邇、朝香の両宮殿下を除いた全軍事参議官が集っていたので、
軍事参議官会議が自然発生的にでき上ったというわけだ 」
と、眞崎はひと息入れた。
あのどさくさのときだ。まあそんなところが真相だろうと私は思った。
リンク
大臣告示の成立経過 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」 
命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 

 香椎浩平
「 川島大臣は、なにがなにがなにやらわからぬまま、
ポカンとして 『 大臣告示 』 をおしつけられてしまった。
そこに香椎 ( 浩平 ) がやってきて
『 これはいい、なにより有難い。さっそく発表しましょう 』
と 喜んで、警備司令部に電話するといって電話室にはいっていった。
オレは大事なものであるから一時一句間違えては大変だと思って、
正しく伝えられるかどうかたしかめるため、副官藤原少佐に命じて、
香椎のあとをつけて電話室に行かせたんだ。
藤原の報告には
『 一字一句間違いなく電話されました 』
とあったので安心したのだ。
あとでそれが誤り伝えられて、問題となった 『 諸子の真意・・・・』 が 『 諸子の行動・・・・』
と なっていたのだ。
いつ誰がどこで間違えたのか、
それが故意でやったのか偶然であったのか、
オレにはわからん 」
「 その日の宮中の、閣下らに対する空気はどんなぐあいだったのでしょうか 」
「 そうだなァ、 厄介ものあつかいだったよ。
お茶はもちろん昼の食事も出してもらえず、そばを注文して食べたのが午後の二時か三時ごろだった 」
と 眞崎は述懐したが、
真崎の肌で感じた宮中のふんい気は、すべて維新という目的に逆行するものであった。

「 彼等の意図した 『 昭和維新 』 が破れたのは、天皇が明治維新のときのように本然 ( 自然 ) の存在ではなく、
( 明治維新のばあいは徳川が最高の主権者であった )
実は現人神として、彼等の打倒目標の体制に繋がった、最高主権者であったという事実によってである 」
これは、『 ニ ・ニ六事件 』 の著者 高橋正衛の説くところであるが、まことにズバリ一言で事件の敗因をいいあてている。
いいかえると、天皇を思い、国を憂いて起ち上がった彼らの行為は、
逆に天皇の激怒を当初からこうむることによって、営門を出たときすでに敗れ去っていたのだというべきであろう。

宮中東溜りの間での軍事参議官の集りが厄介あつかいにされているとき、
一方では軍の長老は宮中に逃げ込んで身の安全をはかっているという誹謗が流れはじめた。
そういう非難の中で軍事参議官一同は、宮中を出て陸相官邸におもむき、青年将校らと会見し、話し合うことになった。
この会見の模様は、磯部の 『 行動記 』 に詳しいので省略するが、事件収拾の上に何ら見るべきものはなかった。
夜になって、軍事参議官は全員偕行社に仮泊することになった。
「 青年将校が、林大将を殺害するために偕行社に襲撃してくる 」
という うわさの出たのもこの夜のことであった。
「 オレと荒木とで、なに食わぬ顔をして、林を二人の間にはさんで守ったりしたんだが、いまから思うとおかしなデマだった 」
と、眞崎はなにげなくしゃべっていたが、その夜の軍内のあわてた空気が、いかんなく現わされている。
林銑十郎大将
二月二十七日、二十八日は、
磯部の 『 行動記 』 その他で現在明確にされているところと、
眞崎の談話との間には、別にとりたてていうべきものはなかった。
二月二十九日は、軍事参議官一同 宮中東溜りの間に集まった。
蹶起軍討伐に決した攻撃軍は、逐次包囲の態勢をちぢめていた。
「 われわれは東溜りの間で、皇軍相撃つ悲惨事の起こらないよう念願しつつ、悲痛な気持ちで、ことの推移を気にかけていた。
 

朝香宮              寺内寿一大将
そういうさなかに、寺内 ( 寿一 ) と朝香宮の二人は

『 結果がどうなるか見に行こう 』 といって振天府の方にのこのこ出かけて行ったのだよ。
このときほどオレは、二人の行為に腹立たしさを覚えたことはなかった。
オレはこのあと今日に至るまで、皇族は一切信用せんことにきめた。
荒木は 『 主馬寮しゅめりょうの馬を引っぱり出して、両軍の間に馬を乗り入れる 』
といって、副官に馬の準備を命じていた。
オレはなにがなんだかわからなくなって、ひっくり返って寝たよ。
今から思うと荒木の処置がいちばんよかったと思っている 」 ・・・・。

・・・事件は完敗であった。
『 勝てば官軍 』 的 軍当局の発表は、事件の真実を大きく歪曲したものであった。
たとえ説得のためと強弁しても、いったん出された 『 大臣告示   』  や、戒厳司令部に編入して、
南麹町地区の警戒に任ぜしめた 『 戒厳令 』は、ひっこみのつかぬ厳然たる事実であった。
それを無視して 「 叛乱罪 」 の極刑をもってのぞんだ。
法制史上稀有の暗黒裁判といわれるゆえんである ・・・


大蔵栄一著
ニ ・ニ六事件への挽歌  から


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