あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

我事成れり

2021年07月01日 04時06分36秒 | 説得と鎭壓

 NHK映像
二十六日
けっ起の朝、
首脳将校たちは陸相官邸に陸軍大臣川島義之と会い、
蹶起趣意書 
読みあげたが、
同時にけっ起の趣旨は天聴に達せられたいことを要望した。
そしてその日の午後三時半頃、
左の陸軍大臣告示が山下軍事調査部長から下達された。

「 諸子蹶起ノ趣旨ハ天聴ニ達シアリ
諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基ヅクモノト認ル
国体ノ真姿顕現ノ現況に就テハ我々モ恐懼ニ堪エザルモノアリ
軍事参議官一同ハ国体顕現ノ上ニ一層 匪窮ひきゆう ノ誠ヲ効スベシ
ソレ以上ハ一ニ大御心ヲ本トスベキモノナリ
以上ハ宮中ニ於テ軍事参議官一同相会シ陸軍長老ノ意見トシテ確立シタルモノニシテ
閣僚モ亦一致協力益々国体真姿顕現ニ努力スベク申合ワセタリ 」
国体の真姿顕現のためにたち上がった彼らは、
この告示をもって わが事成れり  と喜んだ。
磯部浅一 は、
告示は文中どこにもわれわれの行為を叱責する意味はなく、
かえって参議官一同が自責恐懼し、
私どもの精神行動は国体の真姿顕現にあることを認めてくれている。

私どもはこれによって大いに力づいた
と 書きのこし、

安藤輝三も、
当時軍当局は吾人の行動を是認し まさに維新に入らんとせるなり。陸軍大臣告示は吾人の行動を是認せれ
と 遺書している。
たしかに、一見してこま告示は彼らの行動を認めて反乱軍を激励するものであった。
陸軍大臣や軍事参議官が、この兵力をもってした重臣の殺害を、
国体の真姿を顕現する至情に出たものと認める以上、
この殺戮行為は軍首脳部によって容認せられたものであり、
それはまた こうした重臣が国体上の悪だったことの承認を意味する。
しかもこの大臣告示が宮中での首脳会議で決定されたことは、青年将校に与える感作は大きかった。
それが宮中時勢をある程度投影していると見ることも可能であった。
なぜなら、それは、天皇が住む宮中での作業であったからだ。
だが、事実、こうしたことは天皇の意思をそとにして行われていた
いや、彼ら軍首脳部は今朝来の天皇の意思を拝していた。
しかもなお説得のためとてこの文案を決定した。
わずかに 『 ソレ以上ハ大御心ヲ本トナスベキモノナリ 』 との伏線を布いて。
まさに軍事参議官たちの思想的不逞である。

杉山元 参謀次長は武力鎮定の前提として
二十七日午前八時二十分
反乱部隊を撤退せしむべき戒厳司令官に対する奉勅命令の裁可を得たが、
その命令下達の時期は、参謀総長に一任せられたき旨のお許しを得たので、
この命令下達を二十八日午前五時と決定した。
この日 ( 28日 ) 午後蹶起将校一同は、時局収拾を真崎大将に一任したい旨を申し出たが、
真崎は部隊長統率の下にかえれといい、
彼らはその夜 小藤部隊長命令により警備を解いて宿営についた。

二十八日以来幕僚たちの撤退勧告が行なわれ、
幹部たちは兵をかえし 将校は自決することに決心したが、
この決意も全将校に徹底せず、折から前面に討伐部隊の展開が行なわれたことに刺激され、
徹底抗戦と逆転し 反乱部隊は至厳なる警備をもって夜を徹した。

二十九日早暁より討伐作戦は開始されたが、
この朝に至って彼らは奉勅命令の下達を知って、続々と兵を原隊にかえし無血鎮定となった。

大谷敬二郎著 ニ・ニ六事件 から


昭和十一年二月二十九日夕刻、
陸軍大臣官邸において、自決を断念した蹶起の将校
( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、
村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌継夫、
丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優
外将校五名 ( 池田俊彦、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎、麦屋清済 ) と、
民間人 澁川善助らが憲兵に護送されて入所した。

やがて鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、真暗な闇の中を走り続けた。
そして代々木の衛戍刑務所に到着した。
狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。
栗原さんや 澁川さんが、
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」
と 言って皆を励ました。
寒々とした暗い光の中に、なにか温かい心のつながりがあった。
一人一人、薄暗く冷たい監房の中に入れられたとき、
全く別世界に来てしまった違和感が全身を走った。
しかし、与えられた毛布をかけて横たわると 連日の疲れですぐ眠りに就いた。


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