あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (十六) 安田優

2021年07月09日 07時35分00秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


遺詠
長へに吾れ闘はむ國民の
安き暮しを胸に祈りて
昭和十一年七月十一日

今日こそは命たゝなむ安らかに

吾がはらからの胸にいだかれ
昭和十一年七月十二日    安田  優

絶筆
「 某  閉眼せば加茂川に投じ      
安田ゆたか
 魚にあたう可し 」 と
南無阿弥陀佛に歸依し奉る
昭和十一年七月十二日午前八時十三分

我がつとめ 今は終わりぬ
安らかに
我れかへりなむ 武夫の道
刑死前十分  安田 優

白砂の不二の高嶺を仰ぎつつ
武さしの野邊に我が身はてなむ

我を愛せむより 
國を愛するの
至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日刑死前五分  安田 優


安田 優  ヤスダ ユタカ
陸軍砲兵少尉
陸軍砲工学校 ( 野砲兵第七連隊付 )
明治45年2月1日生    昭和11年7月12日銃殺
陸士46期生 高橋太郎 中島莞爾 と同期

遺書
家計安からずして笈を負わしめ、
今漸々にして獨立鞠育の恩に報ぜざる可らざるの秋、
此の度の悲嘆をあたへ申し、全く以て申し譯なし。
只 希はくば、児が嘗つて常に希ひたる孝心に賞で寛容あらせられ、
平常に安らかに、我が處刑を見送られむ事をのみ希ひ奉りてやまず。
児が先行の罪、誠に大なり、
只 児は二人の父母、上の兄弟姉妹に見守られつつ、
平然と刑に服し 永久に同胞の胸に歸らむとす。
児としての幸、是れにすぎまじ。
夫れ、制度萬古に髙し、判決文は其の表現たる可し。
余は藻とり 絶對的國法確立のために立ちたるもの、
絶對的國法の處斷には欣然之に赴くもの、敢て躊躇す可きものぞ、
只 希くば 天命を全うせられむことを。
我必ず極楽浄土に東導せむ。
故に我死を怖るる事、更になし、されば刑の宣告は釋尊浄土導引の妙音たり。
論告は 三途河畔、渡場を訪るるの涼風たり。
更に亦、政治に罪惡なし、失敗は罪惡の根拠たり矣い。
我れ 今又、何をか言はむ。
余は我を愛するより國を愛するの情、更に切なりき。
故に吾人は死につくと雖も、更に更に國民の安らかなる生活と之に依って來る可き、
皇國の隆盛を祈りて熄やまざるなり。
今や十有七名、手をとりて共に共に黄泉の旅に先立たむとす。
三途の河波も亦、更に波立たざる可し。
余等 今や三途河畔渡場に舟をまつの間、更に地獄をして極楽浄土たらしめんとす。
余は今や、余のすべての兄弟に信頼し、父母を委して黄泉の旅に先行せむとす。
余の瞑福を祈り下さらむとせば、之は只 平然と我が處刑を見送り下されむとするのみ。
我が未だ立つ能はざる幼き弟達は、
必ず我が両兄上、姉上、両弟の手によつて生長するを得む。
今や更に 何をか思ひ残さむ。
我今死すと雖も、我の代りに更に新しき姉上を得たるに非ずや。
我れ不孝不悌の罪をのみ謝し、
其の寛容に委して、
吾勇みて死につかむ。
時当に夏七月、而も冷風徐に我が紅頬を撫す、
天又夫れ、我をあはれまんとする乎。
切に希はくば天命を全うせられよ。
昭和十一年七月十一日
安田優


宣言
維新と言ひ 革新と言ふは、
人事刷新天剣の行使に有り。
吾人は是に奮起し、
左の奸賊を艾除するために天誅を加へむとす
目標        担當者
西園寺公望        安田優
仝                     相澤三郎
一木喜徳郎        村中孝次
寺内寿一           丹生誠忠
仝                     安田優
牧野伸顕           水上源一
梅津美治郎        高橋太郎
南次郎              中橋基明
石原莞爾           坂井直
仝                     香田清貞
湯浅倉平           對馬勝雄
仝                     栗原安秀
宇垣一成           竹嶌継夫
現閣僚(全)         安藤輝三
石本寅三           田中勝
植田謙吉           林八郎
片倉衷              磯部浅一
軍法務官(全)  ( 但除 藤井法務官 )      右同
林銑十郎          中島莞爾
荒木、真崎、山下、石原        渋川善助
右天神地祗の加護を仰ぎ、吾人全力を効して 是を必ず遂行せむとす
昭和十一年七月十一日
安田優

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« 註 »
安田少尉の、もう一つの遺書と同じく、
奉書の巻紙に書かれたもので、七月十一日の日付がある。

なお 同夜の日付で、竜土軒の主人宛に書いた一同の寄書が残されているのをみると、
十一日の夜半から十二日の朝にかけては、ある程度の自由な行動が許されたのではないかと思われる。
したがって、この 「 宣言 」 も、皆が話合ったことを安田少尉が書き残したものと想像されるのである。

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