遊煩悩林

住職のつぶやき

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2012年05月05日 | ブログ

逃げても逃げても救われる 救われるのに逃げている

桐渓順忍和上

『教行信証に聞く』(別巻第一章・教行信証の根源的思想=教育新潮社)

和上は、また

他力とは自力の無限否定です

とも語っておられます。

逃げる私。救う仏。
逃げる自力。救う他力。
他力によって救われることが決定しているのに、自力で何とかしようとそこから逃げているというご指摘です。
他力に救われるような私ではない。救われたくもない。どんな苦難な局面も自分で何とかできる。救いが何なのかもはっきりせず、求めようともしない。せいぜい都合よくアテにするか、バチやタタリのないようにだけは拝む・・・。
ここで「逃げ」と指摘されている私の自力志向は、意識的に「他力」から逃げ出そうとしているというのではありません。
生理的反抗とでもいうのか、他者の力を借りずに、自分の力で何とかやっていこう、また何とかやっていける、何とかやってきた、何とかしよう、自分の力で何とかしなければならないという強迫観念とでもいうのでしょうか。
無意識に「自力」を是とする精神的構造。「自己責任」とか「自己完結」を強いていくような、自分でできて当然!そんなこともできんのか!といった恣意的に自力を是とさせるような事柄を「逃げ」と。
意識しようがしまいが、他力の救済が成り立っているにもかかわらず、その事実を知らず、気づかず、見ようともしない。さらには見て見ぬ振りをして、オレが、私が、の「自力」を誇示したい。
他でもない「逃げる」というのは、そんな私のことでしょう。他力を否定して自力を肯定する。他力を認めず、自力を是とする。他力を疑い、自力を信じる。
それでも、それでもです。「逃げても逃げても救われる」というのですから、自力でやれるだけやればいいのです。やり遂げて一時の満足を得るのもいい。でもその満足がほんとうに虚しいことであったことに気づいた時、「救い」がはじまっている。
「自分の力」で頑張るということを無駄だとか、無意味だとか、否定したいというのではありません。このオレが「やったどー!」という、そのやったこと自体が、やろうがやるまいがどうでもよかったという世界、やろうがやるまいがお構いなくはたらいてくださるのが「他力」なのでしょう。
「オレがやった」という自負のもとには、どれだけのお膳立てがあったのかということに思いが及ばされると同時に、やれてもやれなくてもいいことをやった!やった!とよろこんでいるおめでたさが、摂め取られていたことに気がつかされてきます。
常に疑い、背き、信じない、そんな救われるはずのない私が救われる、救いようのない私が救いとられていたことを知らせるのが仏教ですが、ではいったい仏教の説く「救い」とは何なのか。
やった!やった!というその自力を「無限否定」するのが他力だということは、そこから自力無効の「救い」の内容が自ずからはっきりしてきます。
だけど、私たちは何を救いだと思っているのか。何かがどうなることが救いだと思ってしまっている。思いどおりでないことが、思いどおりになることが救い、と。
景気の回復、商売繁盛か、無病息災、病気が治ることなのか。いずれにしても繁盛してもせんでもいい、病気が治っても治らんでもいいという絶対安心の大地がすでにあるにもかかわらず、繁盛せんならん!なんとしても治らんならん!と、その大地から遠ざかる方向にばかり救いを求めて逃げていく。
「逃げても逃げても救われる。救われるのに逃げている」は、「疑っても疑っても信じられている。信じられているのに疑っている」と言い換えられるのでしょう。どこまでも疑い、背き、方向違いに逃げる私をいつも信じていてくれていた、そんな和上の慶びの表現として今月の掲示板に記させていただきました。

ところで、お寺やお坊さんの仏教の発信の仕方について、「阿弥陀さんの邪魔だけはせんほうがいい」というあり方を、ある方のつぶやきで見ました。

(因速寺「住職のつぶやき」2012年4月29日 http://park20.wakwak.com/~insokuji/

仏教の伝達ということは大事なことですが、救済は阿弥陀さまのお約束事項です。
寺や坊主が人を救うのではないよ!ということを教えられるのと同時に、自分たちが誰かを助けようとして、他力の救済の邪魔をしとらんかということを問われます。
ま、私がしているようなちっぽけな邪魔など、問題にするような他力の本願ではないですが、他力の救済を自分の手柄にしていこうとしているのも私なのでした。

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