遊煩悩林

住職のつぶやき

虚仮

2024年07月01日 | ブログ

世間虚仮 唯仏是真

聖徳太子

先月の「つぶやき」の流れで、今月の掲示板に記しました。

が。

親鸞聖人はどうも「世間」を「虚仮だ」と歎いておられるのではなさそうだ。

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

『愚禿悲歎述懐』

虚仮は「私」だと和讃される。

世間を相手にして虚仮だというのでなく、「私」そのものを世間の中に置いておられるといったほうがいいか。

さらにその述懐は、

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり

修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

と。

悪いことだと分かっていてもやめられないのも私。

善なることをして満足を得ようとするのも私。

虚仮不実の我が身。

無慙無愧のこの身。

小慈小悲もなき身。

徹底的な自己批判、自己否定にも聞こえる。

「私とは何か」と問い、私がこれらの述懐をじぶんに当てはめようとするのもまた虚仮の行となろう。

それは宗祖の述懐を利用して自分を装飾する道具にしているだけだ。

虚仮不実、無慙無愧、小慈小悲もないお恥ずかしい私です、などと謙っているつもり。

親鸞を宗祖とするのは、徹底的な自己分析によって、ただ自己を否定するのではない。

虚仮不実の身であるからこそ、大慈大悲がたのもしい、と。

自己の救済の根拠を明らかにして、

唯仏是真

阿弥陀仏の本願力の真実性を証明されたということだ。

悲嘆はつづく。

 

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに

仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

 

かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ

天神地祇をあがめつつ卜占祭祀つとめとす

 

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