非国民通信

ノーモア・コイズミ

10年を経て

2021-03-07 22:49:35 | 社会

 もうすぐ東日本大震災から10年が経過します。他の天災とは一線を画する未曾有の被害がもたらされたわけですが、後代にどう記憶されていくのでしょうか。被害の大半は津波によってもたらされ、犠牲者は宮城と岩手に集中していた一方、報道は専ら福島に焦点が当てられていたとも言えます。

 立地がよく無事に冷温停止できた女川の原子力発電所などは避難者の受け入れ場所にもなり、当初は石巻市の(共産党系の!)市長から「安全対策をした上で再開する方向で考える必要がある」と運転再開を容認する考えを伝えられていました。一方で福島第一原発は津波による電源喪失から収束に結構な時間がかかってしまったわけです。

 東日本大震災によって発生した津波への備えが出来ていなかったのは宮城や岩手の沿岸部の自治体や住民も同じで、だからこそ万を超える犠牲者が生まれたのですが、第三者からの非難もまた原発や電力会社に焦点が当てられることになりました。まぁ、東北の居住者の死亡よりも原発事故の方が、他県に住む人々の心には刺さったのでしょう。

 恥ずかしながら自分は福島での原発事故が起こる前まで、反原発論者の言うことを信じていました。しかし実際に原発事故をリアルタイムに経験する中で気づいたのは、反原発論者がこれまで説いてきたような惨事は現実には起こっていない、ということです。反原発論者の語る脅威は本当なのか――そうした疑念を経て、私は反原発論者を信じるのを止めて実際に起こっていることを見るようになりました。

 原発事故に起因する健康被害は避けられた一方で、風評「加害」は今もなお続いています。不適切な検診結果の切り貼りや放射線の影響について創作を繰り返す論者や報道機関は絶えることがありません。彼らなりのイデオロギーに基づいた行動なのでしょうけれど、それが特定の地域への忌避感を広げるようなものであるならば、ヘイトスピーチとして対処すべきものだと私は思います。

 先のアメリカ大統領選挙において不正があった、トランプ陣営から票が盗まれたと、そう信じる人はアメリカ人の3割程度を占めるそうです。もちろん根拠のある話ではありませんが、何かを信じるのに根拠は必ずしも必要ではないわけです。世の中にはキリストの復活を信じる人も数多くいます。死んだ人間が生き返ることなどあろうはずもありませんが、信じる人にとっては事実関係など大した問題ではないのです。

 事実ではなく信念に基づいて行動を決める人は少なくありません。選挙に不正があった、福島県産は今でも危険だ――そこに信念があるのなら、いかに事実を突きつけようと彼らが考えを改めることはないでしょう。できることは、そうした人々に同調しないことだけです。彼らの影響力を最小化するためにはその主張に一切の理解を示さないこと、毅然として拒絶していくことが求められます。

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